ボアズカレBogazkale

このボアズカレ編ではボアズカレへ行くとき,聖地ヤズルカヤ遺跡,ハットゥシャシュ遺跡の写真にキャプションを添えて載せました.


ボアズカレ付近のGoogleマップ

アナトリア高原にあって,マーカー15で示したのがボアズカレ.紀元前17世紀という非常に古いヒッタイト帝国遺跡の残る街.

ボアズカレへgo to Bogazkale

ボアズカレへ行く途中,平屋の住宅が多くなる

ボアズカレへ行く途中,平屋住宅が多くなる

5/19(土)朝,私たちはカイセリを発ち,ボアズカレへと向かった.方向としては北西の方向で,殆どの区間は一般道だ.片側一車線の区間もあるが路面は悪くない.拡張工事が行われている区間もある.

カイセリから先のこの辺り,10:00AMの外気は19℃で晴れてきた.だが冬場はものすごく寒い所だそうだ.それに関係するかどうか分からないが,他エリアより平屋の住宅が多いように見える.屋根は判で押したように赤い瓦だ.畑は圧倒的に麦が多いようだ.ところで,前日イスタンブールは大雨で,相当被害が出たそうだ.日本の2倍の国土があるそうだから,場所による天気の違いも大きいであろう.

ところでこの5月19日はトルコ共和国の祝日『アタテュルク記念日/青年とスポーツの日』だそうだ.一次大戦後,オスマン帝国が連合国に分割占領されたとき,ガジアンテップのガジや,シャンルウルファのシャンルの意味合いについて聞いたように,各地で抗戦の動きが始まった.そして,1919年5月19日,アナトリア北部のサムスンでアタテュルクは,抵抗運動の指導者として立ち上がり,領土が割譲されることから守り,やがて共和国を建国した.そんな抗戦開始の日が祝日となったということだ.今年はたまたま土曜日で,働いている人達には休日が重なり,ちょっと残念だったかも知れない.


下は,カイセリからボアズカレへ行くときの写真

カイセリからボアズカレへ行くときの写真
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ボアズカレ観光に関わる歴史

ボアズカレの歴史は圧倒的昔に遡る.ヒッタイトが鉄の精錬を行ったとされ,日本の歴史に対比すると驚くばかりだ.

ボアズカレに関わる歴史年表

ボアズカレ観光に関わる歴史年表


ヤズルカヤ遺跡yazilikaya

ヤズルカヤ遺跡案内板

ヤズルカヤ遺跡案内板

ヤズルカヤ遺跡はハットゥシャ(ハットゥシャシュ)遺跡の一部(離れてはいる)で,神殿(と墳墓の可能性も)の置かれたヒッタイトの聖地だったそうだ.

写真案内板の左側,自然の岩山の間に形成されたA,B2つの空間が神殿を成し,この壁に彫られた多神教と,建造者ヒッタイト王トゥトゥハリヤ4世のレリーフがメインだ.案内板右側に四角い模様が見えるが,現在も石が並んでおり,神殿の土台であったようだ.

案内板はトルコ語,独語,英語の順で記されていて,独が存在感を示している.これまで独政府(いや企業だったか?)が主な発掘調査のスポンサーだったためのようだ.なお調査は現在も継続され,日本企業ではJTが昨年資金援助していたそうだ.


ヤズルカヤ遺跡剣神シャルマのレリーフ

剣神シャルマのレリーフ

剣の神様シャルマ神だそうだ.三角の帽子が目印で,右手に持っているのが剣で,左手に抱えているのはちょっと見難いがここの神殿を建立したトゥトゥハリヤ4世らしい.神の加護を願う建立者の意図があまりにもストレートに具象化されており,3250年隔つ私達にも解り易い.王様は深慮遠謀とかより,率直さを好む人柄だったのであろう.


ヤズルカヤ遺跡12神行進のレリーフ

12神行進のレリーフ

ヒッタイト帝国は多神教信仰で,この12神も多くの神々の中の12人で,似ているがそれぞれ別の神様だそうだ.行進は軍隊を連想させるがどうなんだろう?それとエジプトの絵やレリーフのように横向きの顔が多い,いや殆ど横向きかも.


ヤズルカヤ遺跡トゥトゥハリヤ4世のレリーフ

トゥトゥハリヤ4世のレリーフ

建立者トゥトゥハリヤ4世のレリーフだそうだ.この人はヒッタイト帝国末期に当たる紀元前13世紀半ば頃の王だそうだ.強大な帝国も永遠ではないことを改めて感じるのか,夏草や兵どもが夢の跡,を思い浮かべたりする.

右手に掲げられているのは象形文字の一種らしい.現在ヨーロッパの研究者が解明を進め,一部解りかけている段階のようだ.なおヒッタイト帝国はアナトリアだけでなく,現イラクのバビロニア帝国辺りまで征服しており,メソポタミア文明の生み出した楔形文字なども取り入れていたようだ.

なお楔形文字に関連し,丁度この紀元前13世紀,ヒッタイトのハッティシリ王とエジプトのラムセス王2世の間で,シリアを巡る領土争いに終止符を打つための平和条約が結ばれたそうだ.これは世界最古の条約として知られ,条文はエジプト側の象形文字,およびヒッタイト側の楔形文字で,銀板に記され,その複製の粘土板がこれから行くハットゥシャ遺跡で発見されたのだそうだ.現在イスタンブール考古学博物館とベルリン博物館に展示されているそうで,この3日後にイスタンブール考古学博物館を訪れたのだが,短時間で慌てふためいただけで見つけられなかった.機会があれば,これまた見逃したヒッタイトの鉄製品と併せて見てみたいものだ.


ヤズルカヤ遺跡横の羊放牧地

ヤズルカヤ遺跡横の羊放牧地

ヤズルカヤ遺跡の辺りは丘陵で,羊の放牧地になっている.腹いっぱい食べて昼寝に入っている羊はよく肥えている.



下は,ヤズルカヤ遺跡のいろいろな写真

ヤズルカヤ遺跡での眺め
ヤズルカヤ遺跡での眺め ヤズルカヤ遺跡での眺め ヤズルカヤ遺跡での眺め ヤズルカヤ遺跡での眺め ヤズルカヤ遺跡での眺め
ヤズルカヤ遺跡での眺め ヤズルカヤ遺跡での眺め ヤズルカヤ遺跡での眺め ヤズルカヤ遺跡での眺め ヤズルカヤ遺跡での眺め

ヤズルカヤ遺跡近くのレストラン

ヤズルカヤ遺跡見物の後近くのレストランでドルマ料理(はてどんなものだったか?)の昼食.外で眺めるとスイスなどとも似たような広々いいところだ.

ヤズルカヤ遺跡近くのレストランヤズルカヤ遺跡近くのレストランからの眺め

ハットゥシャ(ハットゥシャシュ)遺跡Hattusas

ハットゥシャシュ遺跡の大神殿跡と最近復元された城壁

大神殿跡と最近復元された城壁

古代エジプト,バビロニアと共に古代オリエントの3大国の一つ,ハットゥシャ(またはハットゥシャシュ)帝国の都のあった遺跡にやって来た.ハットゥシャシュ遺跡は大変広いのだが,先ずは写真の礎石が並ぶ大神殿跡といわれる場所にやって来た.ここでは何の神様を祀ったのか....

神殿跡の先には最近ドイツ政府の援助で復元されたという城壁が建てられている.多分残っていたのは礎石だけだったであろうが,設計図とか何らかの資料が残されていたのであろうか.これを見ると城壁上部の銃眼というか,あの凸凹のデザインは基本的には近代ヨーロッパの城のデザインと同じだ.やはり凹んだ所から矢を放つのであろうか?


ハットゥシャシュ遺跡一つだけ異質な石

一つだけ異質な石

礎石やライオン石など他はすべて同質の白っぽい石であるが,人だかりのこの石だけは,グリーンで艶もあり,全然異なる.上もテーブルのようにつるつるで,撫でると幸せを呼ぶという(根拠は思い出せないが).

添乗Oさんが以前案内した客で,『パワースポットだ!感じる!』と声を上げた人がいるそうだ.私は鈍感なので全く何も判らなかった.一応人並みに撫でてきたが.


ハットゥシャシュ遺跡丘から見た神殿や住宅の基礎

丘から見た神殿や住宅の基礎

石を並べた基礎があたかも紙に描かれた平面図のように見える.神殿や住宅であったそうだ.斜面を含めて土に埋もれず随分くっきり石が露出しているのがちょっと不思議というか不自然というか.....発掘調査で埋もれたところは掘り起こしたのであろうか.それと,石に苔とか着かず,石の肌が綺麗なままだ.これは空気が乾いているせいであろうか.

草の緑はいかにも放牧にも良さそうだが,実際この近くでは牛が草を食んでいた


ハットゥシャシュ遺跡のライオン門

ライオン門

ハットゥシャシュ遺跡全体は標高1,000mくらいの高原に在るのだが,まあ定石通りお城はその中でも高い位置に築かれている.その周りを石垣の城壁で囲んでいて,ライオン門はその門の1つである訳だ.城壁は極めて厚く,その上は歩行可能で,門は内外二重に設けられている.写真のライオンは外側門脇で,外敵に対して吠える如く設置されている.

この城壁から外を眺めると,丘の上から下を望む構図で,攻め入って来る敵の監視に好都合だ.もし登って来るようであれば,城壁の上で待機し,矢を射る兵の餌食となったであろう.


ハットゥシャシュ遺跡の長いトンネル

長いトンネル

石を積み上げた三角形の天井を持つトンネル.真っ暗でかなり長い.ライオン門のある城壁とは違う場所で,スフィンクスのあった場所に近かったように思う.なおスフィンクスはドイツが補修のためと言って持ち帰ったが,返してくれないとか.

トンネルは退却や攻撃のため,戦術的に大事なものだったらしい.


ハットゥシャシュ遺跡王の門

王の門

右は本物で,左の白っぽいのはレプリカ(本物は博物館に).最初発見されたとき,左のとんがり帽子の男性がヒッタイトの王と解釈されたため王の門の名が付いたそうだ.ただ後の研究で,上述のヤズルカヤ遺跡のレリーフであったように,王は丸い帽子,とんがり帽子は神様を表していると判ったのだが,呼称はそのまま継続されたと云うことだ.

青年の日のこの日,遠足の子たちがいた.私達を見かけると,城壁下から駆け登って来てくれた.とっても元気だ.


下は,ハットゥシャシュ遺跡の写真

ハットゥシャシュ遺跡での眺め
ハットゥシャシュ遺跡での眺め ハットゥシャシュ遺跡での眺め ハットゥシャシュ遺跡での眺め ハットゥシャシュ遺跡での眺め ハットゥシャシュ遺跡での眺め ハットゥシャシュ遺跡での眺め
ハットゥシャシュ遺跡での眺め ハットゥシャシュ遺跡での眺め ハットゥシャシュ遺跡での眺め ハットゥシャシュ遺跡での眺め ハットゥシャシュ遺跡での眺め ハットゥシャシュ遺跡での眺め

ハットゥシャシュ遺跡のある村は冬の気候も厳しいが,生活も厳しい家庭が多いそうだ.村の家を見ると確かに傷んでいるのも目立つ.なので他所の農場でテントが見えたが,そうした季節労働などで凌いでいるケースも多いそうだ.

またこの辺り一帯には日干しレンガの家が結構ありそうだが,幸い地震地帯ではないそうだし,気温変化に対する保温性はいいそうだ.ただ屋根は赤い瓦で,雨と雪はかなり降るようだ.



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