コンヤKonya

このコンヤ編ではコンヤへ行くとき,メヴラーナ博物館,インジェミナーレ神学校,アラアッディンモスク,スルタンハーヌのキャラバンサライの写真を載せました.


コンヤ付近のGoogleマップ

マーカー9で示すのがコンヤで,南東アナトリア地方に属するそうだ.ここには11世紀頃栄えたセルジューク朝の都が置かれ,関連遺跡が残されている.

コンヤへgo to Konya

シデからコンヤに向け内陸に入る

シデからコンヤに向け内陸に入る

シデの朝が明けて,ホテルで朝食後バスはコンヤに向け内陸へと向かった.

途中幾つかの村や町を通過する.そこには写真中央のように少なくとも必ず一つのモスクが建てられている.モスクの聖職者は全て国家公務員だそうで,これがアタチェルク政権時代から採られた政教分離政策に基づくもので,他のイスラム国家と決定的に異なるところだ.信教の自由は保証され,少数のキリスト教徒やユダヤ教徒などいて,またそれらの教会やシナゴーグもちゃんとあるそうだが,学校では国家公務員である教師によるイスラムの教育が施される仕組みのようだ.まあ,特定の宗教やスンニ以外の宗派が勢力を増強し,国家体制を揺るがすことないよう,未然に防止する管理体制を敷いていると言えよう.

なお,国家公務員はもちろん聖職者,教師以外にもいろいろあるが,誰しも望むイスタンブール勤務などは容易に叶えられず,最初の任地は東アナトリアの外れ辺りから始まるそうだ.この辺りはクルド人(トルコで公式にはクルド人は居らず,クルド族トルコ人)の反政府活動やテロが頻発するエリアであるが,若くて家族を持たず,またそこにしがらみのないよそ者の方が事に対応し易いから,というのが理由のようだ.そして5年毎の転勤の度に少しずつ西側に異動するそうである.


コンヤへ向け1820mの峠を通過

1820mの峠を通過

内陸に入ると徐々に高度を上げた.やがて道路脇には雪が残る峠に至った.カシオで見ると標高1820mを指していた.この辺りの地面は岩であるが,岩の切れ目に松などがしっかり根を張っている.


コンヤの手前メヴラーナ師の人形

メヴラーナ師の人形

コンヤの手前で休憩した.売店には13世紀半ば頃,イスラム神秘主義,旋舞により神との一体感を得ると云うメヴラーナ教の開祖メヴラーナ師の旋舞する人形が棚にあった.これから訪れるメヴラーナ博物館の予備知識を教えてくれるに好適な一品だ.


下は,コンヤへ行くときの風景

コンヤへ行くときの風景
コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景
コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景 コンヤへ行くときの風景

メヴラーナ博物館the Mevlana museum

コンヤ観光に関わる歴史

さてアナトリア内陸のコンヤ(Konya)にやってきた.コンヤ観光に関わる大雑把な歴史の位置付けは下図のようである.

コンヤ観光に関わる歴史年表

コンヤ観光に関わる歴史年表


コンヤはキリスト教徒などに奪われることがあったが,基本的にはセルジュークトルコの首都であり,その間にモスクなど多く建設されたそうだ.


コンヤのメヴラーナ博物館

コンヤのメヴラーナ博物館

長く走ってコンヤ(Konya)に到着すると,先ずメヴラーナ博物館に行った.到着するトルコ石色の塔に先ず目が行く.この塔の下に旋回舞踏(スーフィーダンス)で知られるメヴラーナ教団の創始者メヴラーナ師(我が師の意で,本名はジェラルディンルーミーというそうだ)の霊廟が祀られている.

メヴラーナ師は1207年アフガニスタンで生まれ,後ここコンヤに移り、詩人かつ神秘主義的哲学者として使徒達(メヴレヴィMevleviとかスーフィーSufiと呼ばれるそうだ)を指導したそうだ.そしてその教義は,この世に存在する全ては無限に回転(循環)するし,精神を無にして回り続けることで神に近づく,というものらしい.電子のスピンのように無限に回るが,それを解く量子力学よりなんぼか手ごわさそうだ.

ただ建国の父アタチュルクが初代大統領に就任したとき,政教分離の一環として,教団は解散,旋回舞踏は禁止となり,1927年この霊廟兼モスク,修道場は博物館となったそうである.ただ近年若干緩和され,年に一度メヴラーナ追悼祭が開催され,旋回舞踏も行われるという.


メヴラーナ博物館のモニュメント

メヴラーナ博物館のモニュメント

メヴラーナ博物館庭に据えられたオブジェ.ガイドTTさんの説明では,イスラムの教えの一部である,親の子,その子(孫)と増え,やがてまた一人に戻る....だったかな~?もっとちゃんと聞いておくべきだった.

背後のドームの連なる平屋の建物は,回廊の後ろに長屋風の部屋が並んでいて,メヴラーナ教の修道僧の僧坊(アパート)だったそうだ.現在は博物館の一部として当時の道具や書物,コーランの写本などが展示されていた.


メヴラーナ博物館旋回舞踏のマネキン

旋回舞踏のマネキン

メヴラーナ教の装束と真髄である回転舞踊の様子が展示されている.修道僧は写真の白く長い衣装を着け,ラクダの毛で作られる円筒形帽子を被る.踊る前は写真右の黒いマントも羽織っているが,踊り始めるときにこれを脱ぎ,気持ちを入れ替えるという.回り始めると右手を空に向け,神の恵みを受取り,左手は下(地球)に向け,回り続けることで,自らの心身を通じて地球に伝える,ということです.多分もっと深い意味合いがあるのでしょうが....


メヴラーナ霊廟参拝の皆さん

メヴラーナ霊廟参拝の皆さん

メヴラーナ博物館はメヴラーナ師やその弟子たちの霊廟でもある.いや,そちらが先であるが.参拝の皆さんも大勢訪れるようだ.写真は記念撮影のために並んでいる女性グループ.皆スカーフを着けているが,黒はないのでトルコ国内の人達であろう.

なお公務員はスカーフは色によらず一切禁止だそうだ.アタチェルク時代からであるが,近年これに反発する動きがあると,日本の新聞記事で見かけることがある.



下は,メヴラーナ博物館のいろいろな写真

メヴラーナ博物館での眺め
メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め
メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め メヴラーナ博物館での眺め

インジェミナーレ神学校Ince Minare

インジェミナーレ神学校

先端の無くなったインジェミナーレ

インジェミナーレ(Ince Minare)とは細いミナーレ(ミナレット)という意味だそうだ.私たちは単にその外観を眺めに来ただけだが,肝腎のその細いミナーレは無くなっており,基部が残されている.

ただこのレンガ積みで作りだされたパターンやトルコ石色の質素な配色はクフナウルゲンチなど中央アジアのイスラム建築物を思い起こさせる.上述のメヴラーナ師はアフガニスタン生まれだというし,もともと共通要素はあるのであろう.

1267年,イスラム神学校として造られたものだそうだが,現在は彫刻など展示した博物館として使われているようだ.これも建国の父アタチュルク氏の政教分離政策の結果であろうか?中には入らなかったがファサードの細かなレリーフなどは確かにデザインもユニークで,精巧な作りだと思う.


インジェミナーレ神学校のある通り

インジェミナーレ神学校のある通り

インジェミナーレ神学校はごく普通の大通りに面している.繁華街であるようで,この日は月曜日であるが結構な人出だ.

女性のスカーフは自由で,着けていない人が多いように見える.



下は,インジェミナーレ神学校周辺の写真

インジェミナーレ神学校周辺での眺め
インジェミナーレ神学校周辺での眺め インジェミナーレ神学校周辺での眺め インジェミナーレ神学校周辺での眺め インジェミナーレ神学校周辺での眺め インジェミナーレ神学校周辺での眺め インジェミナーレ神学校周辺での眺め

アラアッディンモスクthe Alaeddin mosque

アラアッディンモスクの正面入口

アラアッディンモスクの正面入口

アラアッディンモスクは同名のアラアッディンの丘に建ち,登るとこの正面入口に来る.大きなドームとかはなく,簡素なミナレットで,質素なモスクの印象を持った.

モスクは1220年,この時代の統治者セルジューク朝スルタン,カイクバード一世によって建立されたそうだ.そして今もちゃんとモスクとして機能しているのが,上の2つの博物館と異なるところだ.


セルジューク様式のアラアッディンモスク

セルジューク様式

アラアッディンモスクは随所にセルジューク様式が採り入れられているそうだ.例えば紐で結んだような柱の文様はその一つだそうだ.確かに他ではあまり例を見ないように思う.

また屋根に大きなドームはなく,まだ当時は大きなドームを作る技術がなかったという.代わりにごく一般的な木の梁を渡したフラットな天井となっている.


アラアッディンモスクでミフラーブに向かいお祈りの婦人たち

ミフラーブに向かいお祈りの婦人たち

例えば金曜礼拝で女性がこのようにミフラーブの間近でお祈りは多分ダメなのだと思うが,月曜でもあり,他の礼拝者がいないためであろう,このように直ぐ近くでお祈りしていた.

周囲のアラベスクはモザイクタイルといった凝ったものではなく,ペイントで描かれており,簡素なものだ.


アラアッディンモスクの塀で遊ぶ高校生

アラアッディンモスクの塀で遊ぶ高校生

高校生たちがアラアッディンモスクを囲む塀に登り遊んでいた.また就学時間内なのでサボって遊んでいるようだ.まあ,天気もいいことだし,外で遊んでいる方が楽しかろう.


アラアッディンの丘から見下ろすコンヤの街

アラアッディンの丘から見下ろすコンヤの街

アラアッディンの丘,モスク入口側からはこのような市街地が見える.人口100万人ほどというが比較的緑は多い.路面電車が走っているが地下鉄はないそうだ.

モスク裏側には住宅街が広がっており,赤い屋根の家々で埋め尽くされている.



下は,アラアッディンモスクの写真

アラアッディンモスクの写真
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スルタンハーヌSultanhani

コンヤから一路スルタンハーヌへ

コンヤから一路スルタンハーヌへ

コンヤの観光を終えると,その昔シルクロードの一部であったという道を辿り,スルタンハーヌへと向かった.雨も上がったようでバスは平原の道をひた走った.もともと雨の少ない地方なのか山に木はあまりない.畑は麦が多いようで,羊の群れも間々見かける.見慣れないためか判別できなかったが,この辺りはまた砂糖大根の名産地で,砂糖精製工場も多いそうだ.また稀に畑にテントを見かけるが,砂糖大根関連の季節労働者が過ごしているという.

ところでこの辺り一帯はそれまでのビザンツ 帝国(東ローマ帝国)を倒して,トルコ民族がセルジューク帝国を樹立した中心となる地で,地中海沿岸部から今日訪れたコンヤ,スルタンハーヌ,そしてアクサライと,後日訪問予定のカイセリ,その間のカッパドキア地方へのルートは大変重要な街道だったそうだ.


スルタンハーヌのキャラバンサライ

スルタンハーヌのキャラバンサライ

さて長い走行の末,スルタンハーヌに到着した.城壁など驚くほど厚く,堅固な造りで,滅多なことでは破られないように見える.交易の要衝にあるこの地に,1229年セルジューク帝国カイクバード一世の寄進で作られたそうである.

キャラバンサライは『隊商の城』のような意味であるそうだが,スルタンハーヌは『スルタン(王)の運営する隊商宿』の意味だそうで,まあ両者似たような意味と捉えて良かろう.

写真中央は礼拝堂,奥に馬,ラクダ小屋兼宿泊室(冬は家畜と一緒に寝ることで暖をとったそうだ),左手にキッチンやお風呂(ハマム),右手に商取引のアーケード,写真の範囲外であるが手前入り口脇には管理室など備えていたようだ.なおスルタンは太っ腹で,隊商には三日間までは無料で宿泊できるように便宜を図り,シルクロード交易の活性化を推めたそうである.


現代のスルタンハーヌの街

現代のスルタンハーヌの街

現在スルタンハーヌには特別大きな産業はなく,農業や普通の商店の経営が主であるように見えた.写真はキャラバンサライ近くでの眺めであるが,立派なミナレットのモスクがあり,また皆さん立派な住宅にお住まいのようだ.まあ,長閑ないいところだと思う.



下は,スルタンハーヌ辺りでの写真.最初の非対称吊り橋はなかなかユニーク

スルタンハーヌ辺りでの写真
スルタンハーヌ辺りでの写真 スルタンハーヌ辺りでの写真 スルタンハーヌ辺りでの写真 スルタンハーヌ辺りでの写真 スルタンハーヌ辺りでの写真 スルタンハーヌ辺りでの写真
スルタンハーヌ辺りでの写真 スルタンハーヌ辺りでの写真 スルタンハーヌ辺りでの写真 スルタンハーヌ辺りでの写真 スルタンハーヌ辺りでの写真 スルタンハーヌ辺りでの写真


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