このアンカラ編ではアンカラへ行くときの風景,アンカラ市内での眺め,アタチュルク廟,アナトリア文明博物館の写真を載せました.
マーカー16で示すのが首都アンカラで,アナトリア高原のトルコ中央部に位置している.歴史の浅い街であるが国内遺跡からいろいろ集めた素晴らしい文明博物館がある.
ボアズカレの観光を終えてアンカラへと進んだ.アンカラはボアズカレのほぼ真西に位置している.途中までは片側1車線であったが,途中から2車線に変わり,幾つかの町や村が点在し,それを越えて行く.やがて工場っぽいのが目立つようになるとアンカラは間近だ.
丘陵が続くが麦畑などの広大な緑が広がり,眼に鮮やかだ.アンカラに近い辺りではいんげん豆の栽培も盛んだそうである.
また直接目に触れる機会はなかったが,柔らかな毛織物素材で知られるアンゴラうさぎや山羊は,名前が少し似ているがこのアンカラ辺りが原産なのだそうである.因みにアンゴラ(Angora)はローマ帝国支配のころからの古い街の呼称で,11世紀セルジューク朝樹立でアンカラに変わったそうだ.これで納得だ.
下は,アンカラへ行くときのの写真
バスはアンカラ郊外へと入っていった.オスマン帝国終わり頃の人口は数万人ほどだったそうだが,トルコ共和国が誕生し,1923年にそれまでのイスタンブールからここアンカラに遷都すると,次第に人口は増加していったようだ.現在の人口は450万人以上に達し,こうして郊外にも住宅が広がっているようだ.
遺跡からの出土品のレプリカであろうか?ちょっと変わったオブジェが配置されたアンカラ駅前は,いかにも駅前らしくバスやタクシーがせわしなく往来している.私たちは別に列車に乗るわけでもないのにアンカラ駅にやって来た.アンカラ駅のレストランで,ケチャップのかかったビーフ(だったか)の料理を頂くためだった.名物料理だったように思うが名前を忘れたのは迂闊だった(いつものことながら).
アンカラ駅レストランはそのままホームに繋がっている.ホームはJRで例えれば,東京駅とか品川駅ではなく,地方都市の駅の香りで,列車の発着頻度は疎らだ.
アンカラエクスプレスと呼ばれるイスタンブール行き寝台列車が走っているそうで,9時間半要するそうだ.でも観光旅行でなら昼間の景色が見える列車がいいな~とも思うが,昼間の列車もちゃんと走っているそうだ.ただ時速120km/hr程度で,バスと同じくらい,それならバスがいい,となりそうではある.
アンカラ駅レストランで夕食後,市の中心部にあるホテルに向かった.夏時間であるが大分陽は落ち,暮れ掛かっていた.
バーガーキングの大きな看板のあるこの交差点辺りはアンカラの盛り場,ショッピングの中心街ということだ.他の街でも多かったが,この街では随分巨大な国旗を掲揚した建物も目立つ.タクシーは条例で定めてあるのかNYなどと同じで,黄色一色に統一されているようだ.
日が暮れる頃Doubletree by Hiltonホテルにチェックインした.玄関に続くロビーはとても狭く,写真のように部屋も狭いのが特徴(?)というか,まあ都心部のホテルらしいと言えよう.
私は部屋から一歩も出なかったが,夜のアンカラに散歩に出た人はあいにく雨に見舞われたようだ.アンカラはアナトリア高原の中程にあるが,天気は意外と急変し易いようである.
ランチで丘のレストランに行った.レストランのテラスから市内を望むと,山を背景にした赤い瓦屋根の住宅が目立つ.ちょっとクスコ辺りの光景(クスコのページ参照)に似ているところもありそうな.でもミナレットがやはり,ここはイスラムの街,と主張している.
レストラン脇には乾物の市場があって,乾燥果実やナッツ類が売られていた.試食もさせて貰ったのに買わなかった.すみません.
下は,アンカラ市内のいろいろな写真
トルコ共和国建国の父,初代大統領ムスタファケマルアタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk)の大きな霊廟にお参りするため,両脇にライオンの並ぶ参道を参拝者が歩いてくる.
入り口は広場を挟んで反対側にもあるが,このような長い参道はなく,駐車場から一般的な舗装道路が敷かれている.私たちはそちらから入った.
大参拝団は1980年代,アンカラ大学(いや士官学校だったか?)を卒業した人達と奥さんたちだそうだ.当然アンチの人もいるそうだが,アタチュルク氏はやはり支持者が多いようだ.宗教が絡むので一筋縄では行かないとは思うが....
巨大な廟の奥に石棺が安置されている.遺体自体はここではなく,地下に埋葬されているのであろう.
やはり英仏やギリシャから領土を奪回し,オスマン帝国から政教分離の共和国建国は,部外者から見ても偉大な成果だと思う.
アタチュルクの功績は連合国から領土奪回はじめいろいろあろうが,他に,戦後文字をアラビア文字を止めて,アルファベットに変えるなどの変革も大きい.ベトナムが漢字を廃してアルファベットに,韓国が漢字からハングルに変えるなど似たような例があるが,トルコの場合,文化面に留まらず,イスラム思想そのものに強固に結びついているだけに,一層重大な変革だったと思われる.他にもイスラムでありながら政教分離,一夫多妻(4妻)の廃止,神学校の禁止,聖職者の公務員化....などの仕組みを作った.これでは当然強烈な反対者も出ようが,多くの国民にはプラスだったのではなかろうか.
アタチュルク廟前広場の反対側の端に,アタチュルクと一緒に戦った同志で,第二代大統領になったというイスメトイノニュの廟も祀られていた.大きな石棺の前には花が飾られていた.
下は,アタチュルク廟の写真.陸海空衛兵壁上の警護と交代が見えた.
アナトリア文明博物館の正面玄関はごく普通の建物,というか至って質素と言おうか,威圧感のない外観だ.
玄関横の庭には無造作に出土品の石像が置かれている.雨ざらしだが,まあ比較的ありふれたものなのであろう.
中に一歩入ってみると凄い!いきなり石器時代の出土品から,ヒッタイトの品々が数多く並び,目玉ではなかろうがヘレニズム/ローマ時代のも少し展示されている.
私はヒッタイトの鉄器もぜひ見たいものだと思って,懸命に探しまわったのだが,そのうちに時間切れになってしまった.多分展示されていた筈の刀を一度は目にした可能性があるのだが,焦って動き回り,通り過ぎたのかも知れない.
なお写真は紀元前8世紀,新ヒッタイト王国タルフンザ王だそうだ.ペルシャのデザインと少し似ている感じがする.鉄器こそ見逃したがヒッタイトの石像やレリーフはここの目玉であり,いろいろ眺めることができた.
鉄器は見逃したが,以下のような色々な展示物を楽しむことができた.例えば今から5000年もの昔にの青銅器やなど見るにつけ,あ~すごいな!と驚くばかりだ.