このガジアンテップ編ではガジアンテップへ行く途中,およびガジアンテップの写真を載せました.
マーカー11で示すのがガジアンテップで,シリア国境近くに位置している.大変な状況にあるアレッポなど直ぐそこにあるようだ.
5/16(水)朝,ガジアンテップへ向けカッパドキアを出発した.山を背景に麦畑とポプラの景観が美しい.進む方向としては先ず地中海方向に南下する.カッパドキアの高原地帯を暫く走ると真新しい高速道路に入った.これまでの地図ではまだ載っていない道路でニーデ(Nigde)辺りから入って,従来から在る高速に繋がるようだ.トルコの制限速度は120km/hrと速いが,有料で途中の休憩所はまだ整備されていないようだ.
暫く走り,従来からある高速道路に入り,途中のサービスエリアで休憩した.大型トラックが頻繁に行き交っている.
売店ではその地方の名産,特産といった食品,例えばピシュマニエ(綿菓子の類い)が並んでいる.日本と同じだ.全国規模で販売される商品も並んでおり,それらはイスタンブールなどでは高価なものも,東に行くほど安くなるそうだ.ものによっては倍も値段が違うのも珍しくはないそうだ.イスタンブール辺りではテナント料が高い(かなり)ためだという.
どんどん南下し,アダナ(Adana)辺りまで来た.人口が増えて,景気も悪くないのであろう,写真のように新しい集合住宅がどんどん建設中だ.アダナ(Adana)は人口百数十万人で,トルコ4番目の大都市だそうだ.三菱のバス工場があるそうだ.私たちは単にガジアンテップの経由地として通り過ぎただけだが.
下は,ガジアンテップへ行く途中,アダナ辺りまでの写真
アダナ辺りは地中海沿岸となり,麦畑に加えてオリーブの木もよく見られるようになる.ほぼ朝食には毎日,夕も結構な頻度で塩漬けオリーブを出してもらう.いろいろな形や色が並んでいるのだが,塩辛いものが大半で,適度なものが少ない.皿に取る前に塩辛くないものを嗅ぎ分けたいのだが....なかなか見分けるのは難しい.
ガジアンテップへの途中で休憩した.KIAの新車運搬トレーラーが休んでいた.KIAのバスはアジアでよく走っているように思うが,こうして見ると乗用車も結構輸出されているようだ.
ところで比較的友好関係にある日本の車は,ベンツなどと比べて少なく,あまり走っていない.他のアジアの国とはかなり様相が異なるのはどうしてだろう?でも,イスタンブール近くではトヨタの工場があることだし,これからは増えるかも知れない.
農場の季節労働者のテントだそうだ.コンヤ辺りでは砂糖大根の収穫時に臨時に雇うそうだが,さてここでは麦であろうか?
ところでトルコで人気の公務員の給料は新任で1200~1500リラ程度で,イスタンブールでは家賃が高いので共働きでないと生活できないそうだ.公務員でない人はもっと大変な人もいて,こうして出稼ぎ季節労働者として働く人達がいるということだ.
大分ガジアンテップに近づいた.畑の中に珍しく工場が見える.セメント工場かな?
下は,アダナ辺りからガジアンテップまでの写真
ガジアンテップはヒッタイト以前からの長い歴史のある街ということだ.そして独立の都市国家とかでなく,大方トルコ全体の中の大きな一都市であったようだ.今回の観光はビザンツ時代の城壁程度である.
ガジアンテップ観光に関わる歴史年表
ガジアンテップに到着し,街の中心部の駐車場でバスを降り,しばし歩いた.ガジアンテップの人口は130万人くらいで,トルコで6番目に大きい都市という.
写真はバス停であるが,ほかに路面電車があり,この2つが主な公共交通手段であるようだ.
ガジアンテップ市民は,第一次大戦後の祖国解放戦争で,これに抗する仏軍に勇猛果敢に戦ったとして,元々の『アンテップ』に『ガジ=戦士』が冠せられ,ガジアンテップになったそうだ.なので地元では今もアンテップと言う人は多いようだ.また,この後見物のガジアンテップ城塞の城壁にもこれを称えるモニュメントが飾られていた.なおその当時,英仏は東アジア進出の足掛かりとして,先ずはトルコをとターゲットにしていたようである.
6世紀,ビザンツ帝国(東ローマ帝国)ユスティニアヌス一世により建設されたというガジアンテップ城塞(Gaziantep Citadel)の城壁.当初の外敵はどこだったのであろうか?近くにはササン朝ペルシアなど,覇権を狙う勢力は幾らでもあったのであろう.建設後歴代支配者によって増改築され,増強されたそうだ.内部にはイスラム時代に変わってから加えられたモスクやハマムの跡も見つかっているそうだ.ただそれらも破壊され完全に残っているわけではないそうだが.
そのように新旧入り交じるが,例えばこの写真で下側壁に突き出る装飾などは相当古く,建設当初のビザンツ様式を留めているようだ.
城塞の少し手前にあったモスク.セルジューク朝時代の建立というから相当古い.ファサードの力強いストライプにはなぜかツタンカーメン王黄金のマスク(カイロのページ参照)が連想させられた.一方シンプルなミナレットや小ぢんまりした造りはやはりオスマン朝時代より古いのかな~と思わせる.なお現在もちゃんと使われているそうだ.
城塞脇にハマム(公衆浴場)があった.こちらはオスマン朝時代からのものと説明があったように思う.
ところで現在トルコの人々はハマムを好むが,トルコ民族のご先祖はバイカル湖辺りの北方遊牧民で,お風呂の習慣は無かったそうだ(現在も遊牧民はお風呂の習慣がないのが普通だと思う).それが中央アジアから,やがて中東方面に進出,アナトリアに帝国を築き,そこにあったローマ文化の一つ,お風呂を採り入れて,以降盛んになった,ということだ.
また今日のトルコ人は長い年月で混血/言語変遷が進み,現在ロシア(だったか,コーカサス地方だったか?)に少し残る純トルコ民族末裔の言葉(純トルコ言語)は,諸言語に明るいガイドTTさんにも殆ど理解できないそうである.
下は,ガジアンテップ城塞周辺の写真
ガジアンテップ城塞の正面門の前辺りには職人街が形成されている.一人っ子を持つ二家族であろうか?Tシャツにスカーフのない若い娘が多いが,子供を持つようになるとスカーフを着けている人が多い....かな?
ところで,これまでトルコ政府は3人の子を推奨していたが,最近4人になったそうだ.ちょっと多過ぎのような...
ガジアンテップは昔から銅製品の伝統技術があるそうだ.職人街の軒先の打ち出しや彫金作業が繰り広げられていた.水差しや,ヤカン,カップ....といったものが多いようだ.
伝統の銅製品であるが,近年中国辺りから安価な製品が輸入され,価格面でこうした手造り工芸品が厳しくなりつつあるそうである.何とか頑張って伝統を継承して下さい.
建国の父アタチェルクの銅像はあちこちに据えられているのだと思われる.ここガジアンテップでも騎馬像が見える.ガイドTTさんも,敬愛を込めアタチェルクさま,と呼んでいるし,全員とまでは言わないまでも,多くの国民から支持され,尊敬されているようである.
乾物屋さんの前を通りかかった.店前にはいろいろなナッツ類が積まれている.特にガジアンテップ周辺はピスタチオの名産地だそうで,美味しく安いということだ.で,何人かの人がお土産用にと仕入れていた.
下は,ガジアンテップ職人街周辺の写真
ガジアンテップの街をひと通り見て回り,ちょっと街外れにあるDedemanホテルに入った.広々した部屋に,レストランに,なかなか素晴らしいホテルだった.
さて次はシャンルウルファだ.