このエディルネ編ではイスタンブール空港からバスでエディルネ到着までの風景,エディルネの街,ユチュシェレフェリモスク,セリミエモスク,キャラバンサライホテルの写真を載せました.
最初の観光地は,マーカー2で示すエディルネだ.
ボスポラス海峡のヨーロッパ側,国土の西端で,ブルガリアとギリシャ国境にほど近い.
イスタンブール空港の表に出ると,日本語ガイドTTさんが待っていていてくれた.そして直ぐさまHさん運転のバスに案内され,乗り込む.TTさん,Hさんどうぞよろしく.バスは2012年製ベンツで真新しい.トルコには大きなベンツの工場があるので自国産であろう.
バスは直ちにエディルネへ向けスタートした.そして程なく写真のイスタンブール市街へのゲートを通過し,郊外に差し掛かった.
イスタンブールの人口は1500万人以上(うわ~多い!),人口の60%は35歳以下(若い!)で,政府は更なる人口増大策を推進しているそうだ.
なのでイスタンブールは膨張し,このヨーロッパサイドもアジア側同様どんどん戸建てや集合住宅が建設されているようだ.新しい住宅街にもちゃんと大きなモスクが建設されているのがトルコらしい.
イスタンブール/エディルネ間は高速道路で結ばれている.有料で制限速度は120km/hrと速い.途中の地形は緩やかな丘陵で広々している.畑で小麦や大麦多いそうだ.僅かだが米の水田も見える,トルコ産米は高いそうである.また牛や羊の群れが見えることがある.農家の戸数や農村の間隔はアジア諸国のそれと比べてかなり疎らに見え,トルコの農産物自給率は高いとの説明が納得できる.
道路脇には携帯電話の中継アンテナであろうか,ソーラーパネルを備えた写真のような柱が所々に設置されている.いや,それとも道路監視カメラかな?
なお途中火力発電所が見えたが,原発は現在建設中だそうだ.
途中のサービスエリアで一度休憩し,目的地エディルネ郊外に到達した.3時間くらい要したようだ.
エディルネ郊外にもまた新しい住宅がどんどん建設されているようだ.脇の『TOKi』は,トルコ政府の住宅建設公社の看板で,比較的安い価格で住宅供給するということだ.日本の住宅供給公社に相当しよう.
下は,イスタンブールからエディルネに至るときの写真
バスはエディルネに到着した.エディルネに関わる大雑把な歴史は下図のような感じらしい.
エディルネに関わる歴史年表
エディルネは起源はマケドニアが支配した頃まで遡り,ローマ帝国時代は既に都市であったそうだ.そしてオスマン朝時代の1361~1453年の100年間くらい,都が置かれたという由緒ある街で,それに伴って当時大きなモスクやそのコンプレックスが築かれたそうである.日本では室町時代の頃に相当するようだ.オスマン朝がイスタンブールに遷都した後は,近代になってギリシャ,ブルガリアが独立するまではオスマン帝国のバルカン支配拠点としての要所であったそうだ.
エディルネに着くと先ずメリチ川(Maric)畔のレストランに行き,最初のトルコ料理にありついた.チキンのケバブで,取り立ててどうこう言うものでなくまあありきたりの味だったが,イスラム国でありながら普通にビールが味わえるので一安心だ.
メリチ川はギリシャから流れて来て,480kmの長さがあるそうだ.川幅は多摩川などと比べるとかなり広く,水量もあるように見えた.食後メリチ川に架かる写真のメリチ橋を歩いてみたが,なかなか歴史と風格を感じさせる石造りだ.それもその筈,この橋はメリチ橋と呼ばれ,オスマン帝国時代に名の知れた建築家の設計に依るものだという.
ところでギリシャとの関係は大昔から色々敵対関係にあったが,比較的最近では一次大戦当時トルコは連合国に攻め入られ,ギリシャには領土の一部占領や更なる割譲が迫られたりして悪化したようだ.尤も,その前はオスマン帝国がバルカン半島を完全支配するなど,お互い様なのではあろうが......そして,現在もEU加盟など巡ってせめぎ合いとか,ギリシャ人,トルコ人の棲むキプロス2国問題など,対立が続いているのが現実だそうだ.
エディルネにはもう一つトゥンジャ川(Tundzha)というブルガリアから来る流れもあった.こちらも350kmと相当長いが,バスで通過した辺りは川幅は大きくはない.これら二つの川は少し下流で交わり,やがてエーゲ海に注ぐそうだ.エディルネはブルガリア国境,ギリシャ国境に10km程度と,とても近い.
夕食後宿のあるエディルネ中心部に入った.夏時間なので夕方でもまだ陽射しは相当残っている.オスマン朝の古都だけあって石畳の道やレンガ建築が随所に見られる.比較的緑も豊かでなかなか趣き深い街だ.
タクシー(綴りはTaksi)が見えるが,この街では黄色に統一されているようだ.
エディルネには後述の大変有名な二つのモスクがあって,このエスキモスクはそれ程ではないというもの.でも正面の赤白ストライプの美しい壁はバルカンデザイン的特徴を持ち合わせているように見えるし印象的だ.
ところでエスキ(Eski)とは古いと云う意味で1414年竣工とされ,相当古い.そしてモスクには神学校(メドレセ)やハマム,バザールなども併設された大きなコンプレックスだったそうだ.
えっと驚くほどコンパクトな市役所だ.いくら小さな街とは言え,由緒ある古都の役所がこんなに小さくて済むなら素晴らしい.う~ん徹底的に民営化を進めたか,若しくは一部署だけここで,他部署は別のオフィスを構えているか....
ごみ収集は自治体毎にやり方が異なるそうであるが,ここエディルネでは,住民は道路脇随所に置かれた大きなコンテナにゴミを入れ,朝回収車で集めるという日本の自治体と似たやり方のようだ.ただコンテナは大型である.
イスラム圏では最もポピュラーな食べ物ケバブの中で,最近秋葉原辺りでこそ流行っているものの他国ではあまり見かけないのがこのドネルケバブ(doner kebab).そしてもちろんここエディルネの街でもあちこち見かける.美味しそうだ.
ドネル(doner)とは正に『回転』の意だそうで,ドネルケバブは回転焼肉ということになろう.回転寿司と似ている?いや似てないか?
街を歩いて見かけた人たちや,『写せ』と言ってくれた人たちの写真だ.明るく爽やかな人たちだ.
↓メリッチ川(Maric)で釣りの小学生 | ↓モスク前広場の母子 |
---|
↑モスク前広場の高校生 | ↑ホテル近所の子 |
---|
メリチ橋の小学生は肉を餌に鯉(少し異なるが)のような魚を釣り上げていた.大人びた高校生にはメールアドレスを渡され,後日写真を送った.
下は,エディルネのいろいろなところの写真
下は,さらにエディルネのいろいろな写真
馬車は観光用が少しと,実用荷物運搬用が僅かだが走っている.あとどれくらい続くかな~?
このモスクはオスマン帝国スルタン,ムラト2世の建立だそうだ.ユチュシェレフェリモスクの右側入り口に建つミナーレ(ミナレット)で,モスクの名となっているユチュシェレフェリ(Uc Serefeli)=『3つのバルコニー』が見える.
ミナレットは間近で見ると結構太く高さ68m,内部の階段は上り用と下り用別々に備えられているそうだ.アザーンでは一番上のバルコニーから呼びかけたのであろうか?尤も今はスピーカーであろうが.なおミナレットは少なくとももう一つの角に一つを備えていた.
アーチが形作られた六角形の上に巨大ドームを載せた構造で,18mmのレンズではどうもうまくカバーできない.これが建設されるまで大きな礼拝堂は小型ドームを連続させた構造で,柱が林立していたが,ユチュシェレフェリモスクでは巨大な柱が高く大きな主ドームを支える新たな構造になったようだ.
アラベスクで彩られた主ドーム下縁やユミフラーブ上部はステンドグラスが嵌め込まれ,採光に配慮されている.
大理石床の中庭中央にはやはり大理石製の清めのための水場が設備されている.20人分くらいの大きなものだ.また中庭を囲むように連続アーチの回廊が廻らせてある.ストライプのアーチと支える細い柱はイベリア半島辺りにまでにも残る,伝統的イスラム様式であろう.
回廊の天井にはアラベスク模様とカリグラフィーが描かれている.とても美しい.アラベスクや文字フォントはそれぞれの天井で異なっており,対称性を重んじるというイスラムアートの基本から逸れるのか....とか思ったが,どうやらそんな単純なものではないらしい.
下は,ユチュシェレフェリモスクの写真
終わりの一枚は石製の豪快なドアストッパー.
宿泊したホテルの直ぐ近くにあって,4本のミナレットを従えたこの大きなモスク前の緑の公園には寛ぐ市民の姿も数多い.セリミエモスクと呼ばれ,オスマン帝国スルタンセリム2世の命で1569年から1574年にかけて建設されたそうだ.この大ドームはイスタンブールの有名なアヤソフィア(当初キリスト教会として建立されたが)のドームより大きな直径で31.5mもあるそうだ.
礼拝堂内部に入ると実に広い.メッカに向いた正面奥にはミフラーブとその右隣りには聖職者の上る説教棚(と言うのか?)が配されている.美しく彩色された天井は高く,また多くの窓も嵌められている.掃除は大変だ.特に蜘蛛は大敵だが,がちょうの卵の匂いが嫌いということで,あちこちにがちょう卵を吊り下げ,蜘蛛の巣を防いでいるそうだ.
また礼拝堂中央には木造の東屋が置かれ,ガイドTTさんの解説があったのだが.....思い出せない.東屋の壁の一箇所に,トルコの花チュリップが描かれていると聞いて,見回してみたが見つけられなかった記憶が残る.
ところで本セリミエモスクはミマールスィナン(Koca Mimar Sinan)という大変著名な建築家の設計だそうだ.この人はモスクやメドレセ,橋,バザール....等400以上の構造物を設計したが,晩年のこの作品はその中の最高傑作と彼自身認めているそうである.スィナンは非トルコ人の異教徒として当初奴隷の身分であったそうだが,やがてイスラムに改宗,現代で言えば建築家と土木技術者双方に通じる技量を発揮し,大ドームと細いミナレットを持つトルコ様式モスクの礎を築いたということだ.
大きな礼拝堂左奥隅に特別の装飾が施されたアーチで区切られた一画があった.スルタンや王族の礼拝場所であったそうだ.スルタンともなればこれを狙うテロリストもいる訳で,四方開放された中央より,隅の凹んだこうした場所なら,前面だけがオープン,ガードし易いというのが理由らしい.
下は,セリミエモスクの写真
このモスクにはメドレセ,図書館,キャラバンサライ,ハマム,バザール,病院なども併設されたそうで,一部は今も残っている.そしてこれらはセリミエモスク建築物群(Selimiye Mosque and its Social Complex)として2011年,ユネスコ文化遺産に登録されている.
私たちの泊まったキャラバンサライホテルの外側はショップが並んでいる.シルクロード途中で見かけるキャラバンサライは他国のものも含めて,壁だけで防護に徹したタイプが多いように思うがここは首都の中心にあるので商業施設を兼ねていたのであろう.いずれにしても今から450年も昔のキャラバンサライが現在もホテルとして,店舗として活用されていることにはたまげる.
キャラバンサライ入り口の狭いレセプションをくぐるとこの中庭に入る.中庭は厚い壁で2つに区切られ,片方はこの写真のようにテラスのない部屋で,食堂などが配されている.もう一方の中庭は回廊に囲まれ,現在はカフェやショップが並んでいる.
キャラバンサライの2階は内側に回廊が設けられ,奥側にホテルの部屋が並んでいる.レンガと石の造りで,正に重厚な中世の雰囲気だ.部屋の壁はドアの幅と同じくらいあって,非常に厚い.夏冬の酷暑,厳寒に対して断熱する効果があろうか?いやなかなか暖房が効かないかな?
流石450年前のホテルを改修してあるだけあって,設備は質素で,例えばバスタブはあるが貧弱だった.まあ,肌で歴史を味わうに好適な宿,と云ったところであろう.
キャラバンサライホテルの中庭ではパーティが開かれていた.遊んでいた子に声を掛けたら,にっこりポーズをとってくれた.可愛い!
下は,キャラバンサライホテルの写真
キャラバンサライホテルの一夜はアザーンの響きで明け,ここのダイニングルームで朝食を頂いた.間近なモスクなのでアザーンの音量は甚だ大であったか,調べは正直あまり感心しなかった.そして朝食後バスに乗り,トロイへと向け出発した.