オシフィエンチムOswiecim/Auschwitz

このオシフィエンチム編では,2014/4/18聖金曜日(グッドフライデー)の午後オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)へ行くとき,アウシュヴィッツ,ビルケナウでの写真を載せました.


オシフィエンチム付近のGoogleマップ

ポーランドのオシフィエンチムはマーカー12の辺りに位置している.ここの『アウシュヴィッツビルケナウ(強制収容所)』は世界遺産(負の遺産)に登録されている.

別窓で大きなGoogleマップを開く

オシフィエンチムへgo to Oswiecim/Auschwitz

オシフィエンチムへの途中,道端のイースターマーケット

道端のイースターマーケット

私たちのバスはクラクフからオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)へと向かった.オシフィエンチムはポーランド名,アウシュヴィッツはドイツ名だが,後者名が一層知られている.

途中の小さな街の道端では,この日イースターの聖金曜日(グッドフライデー)とあってバスケットに入れた花など,イースターマーケットが開かれている.


オシフィエンチムへ丘陵の農村を行く

丘陵の農村を行く

2レーンだけの道が緩やかな丘陵の農村を行く.今日はゴミ収集日であろう,各戸の前にはビニール袋が置かれている.特段分別ではないような....


オシフィエンチムへの途中路傍の聖母マリア像

路傍の聖母マリア像

ポーランドの何でもない道端でしばしば出会う聖母マリア像だが,ここでも見えた.ソ連支配下に長くあったのに,いやそれ故にか,敬虔なカトリック教徒の多さが想像される.


オシフィエンチムへの途中,畑の緑

畑の緑

畑の中を道は続く.麦であろうか緑の芽が美しい.

ポーランドでは国土のうち,実に農地の占める面積は42%にも達するそうで,いかに山が無く,平地が多いか判るし,工業用地や商業地も農地に比べれば多くないと想像される.量的には小麦,ライ麦,えん麦など麦類が主だそうだ.社会主義時代にも国有化/集団化されなかったそうで,それがそのまま小規模農家が多い要因となっているそうだ.ただそれは付加価値の高い作物を作るのに適し,高品質有機栽培作物が他ヨーロッパ諸国に多く輸出されているという.


オシフィエンチムへ林も通過

林も通過

たまに林も通過する.農業に適した自然環境は樹木の生育にも適しているようだ.

添乗Sさんによると,ポーランドとベラルーシ国境にまたがるエリアに『ビャウォヴィエジャの森』と呼ばれる原生林があって,ここにはバイソンが生息しているそうだ.バイソンは北米だけと思い込んでいたので驚いた.またその原生林のポーランドサイドはユネスコ世界遺産に登録されているそうだ.


オシフィエンチムに至る

オシフィエンチムに至る

やがて線路が何本もある鉄道駅が見えた.オシフィエンチムに至ったようだ.列車は前日ヴィエリチカで見かけた列車と色あいが似ている,いや同じだ.ポーランドもかつては国鉄だったが,現在はいくつかの会社に分割され,営業しているようだ.会社が国有のままか,或いは民営化されたのかはわからない.


下は,オシフィエンチムへ行くときの写真

オシフィエンチムへ行くときの写真
オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真
オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真 オシフィエンチムへ行くときの写真

映画『縞模様のパジャマの少年』

この時ではなく,他日のもっと長いバス行程中であるが,添乗Sさんが『縞模様のパジャマの少年』という映画DVDを車内モニターで映してくれた.ジョンボインの小説を元にした映画だそうで,フィクションだが史実と合致する要素も含み,大いに印象付けられる.

少年ブルーノは,軍人の父親の収容所所長就任の異動で,母親,姉とともにベルリンから見知らぬ土地へ引っ越してきた.遊び相手もなく,つまらない日々が過ぎ,ある日,近くに大きな農場のような施設を発見する.そして,そこの有刺鉄線の向こうにいる縞模様のパジャマを着た少年シュムエル(ユダヤ人)に出会い,友達の好を結ぶ.双方こうして会うことは禁じられていたが,有刺鉄線越しに幾度か会って話を交わした.ある日,シュムエルは父親が見えなくなり,心配なことをブルーノに話した.『ならば一緒に探してあげるよ』,とブルーノは言い,内部で識別されないよう縞模様のパジャマ(実は囚人服)をシュムエルから受け取り,それを着て有刺鉄線下に穴を掘り,そこから施設に入り込んだ.入ると他の収容者と共に,『これからシャワーを浴びるので裸になって』,と命令され,従う.

一方ブルーノの家庭では,母親が収容所長の夫のユダヤ人に対しての残虐行為を知り,夫を置いて子供達と他所へ引っ越す段取りを進めていた.

だが,どこに遊びにいったのか息子ブルーノが見つからない.そのブルーノは『さあこれからシャワーだ,皆このシャワー室に入れ』と命令され,入っていった.(シャワー室はナチスのガス室の隠語だった)

やがて収容所長の夫は息子ブルーノが収容所に紛れ込んだのを知るに至り,急遽ガス室での執行を止めようと中止命令を出したのだが間に合わなかった.他の多数のユダヤ人等と共に息子の命も断ったのだ.......

アウシュヴィッツ収容所博物館Auschwitz

アウシュヴィッツ強制収容所の門

アウシュヴィッツ強制収容所の門

私たちは受付でガイディングレシーバーを受け取り,強制収容所の門をくぐった.門にはARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)と記されている.まやかしで,実際はそのようなことは決して無かった.

アウシュヴィッツ強制収容所(第一収容所)は1940~1945年にかけて,オシフィエンチム市郊外にアドルフヒトラー率いるナチス党政権ドイツによって建設された.後にここだけでは足りなくなり,この後訪れる第二収容所(ビルケナウ収容所)も作られた.


アウシュヴィッツ案内の中谷剛さん

案内の中谷剛さん

アウシュヴィッツ国立博物館の公認ガイドとして日本語で案内して下さった.中谷さんは1966年神戸市生まれ.大学卒業後,会社勤務を経て1991年よりポーランドに移住.1997年より博物館公式ガイド.『アウシュヴィッツ博物館案内』,『ホロコーストを次世代に伝える―アウシュヴィッツ・ミュージアムのガイドとして』などの著作を記している.

中谷さんは単に通り一遍の説明員ではなく,こうしたホロコーストが二度と起こらないようにするためにどうしたら良いか?を考え,またそれを他人に伝えたい,と云う思いで案内されていることがひしひしと伝わってきた.

例えば,当時世界で最も先進的社会,ただ不況下にあったドイツで,必ずしも支持率が高くなく,寧ろノンポリが多数だった社会でナチスが政権をとり,突進していったこと.これは現代の日本を含めた先進域で,不況が続くことは大いに有り得るし,似たような社会状況となりはしないか気掛かりだ,という風に受け止めた.

また『ここを訪れたことを皆さんに話して下さい』とも言われた.細かに言わずも,それを聞いた人が,『そうかアウシュヴィッツに行ったのか』と関心を持ち,それが考えるきっかけを与えるから,ということだった.


アウシュヴィッツ高圧の二重有刺鉄線柵

高圧の二重有刺鉄線柵

強制収容所門の脇には二重有刺鉄線柵が張られている.6kVの高圧電源につながり,ここを抜けるのは殆ど不可能だったであろう.中に脱出を試みる収容者がいたが,捕まえられた.そして連帯責任として無作為で選別された脱出者の10倍もの人たちが見せしめで死刑(飢餓刑)にされたそうだ.このため,他の人に危害が加わることを恐れ,脱出が躊躇されるようになったそうだ.また中には絶望のあまり自ら高圧有刺鉄線に触れて自殺する者もあったそうだ.

なお,上述の少年ブルーノは,映画ながらこの高圧有刺鉄線の下にトンネルを掘ったのだ.


アウシュヴィッツ強制収容所建物群

強制収容所建物群

レンガ造りの建屋,囚人棟が28棟あるそうだ.最大で28000人,つまり1棟に1000人もが収容されていたそうだ.現在このうちの数棟は写真や,没収した品,刈り取った髪の毛....等々展示されている.

建物は当時のドイツの建築技術の高さを物語るように傷みが少なく残っている.多くは収容者の強制労働で建設されたそうだ.

そもそもナチスはアーリア人至上主義を掲げ,経済を含めて社会が悪くなったのはユダヤ人,政治犯,ジプシー(ロマ人),精神障害者,身体障害者,同性愛者,捕虜,聖職者....などいるからで,この連中がいなければ遥かに良くなるという思想だったそうだ.そしてそれを実際推し進める手段として強制収容所を建設していったという.そして実際ここに送り込まれたのは数的にはユダヤ人が圧倒的に多かったそうだ.


アウシュヴィッツ強制収容所到着直後の選別

強制収容所到着直後の選別

展示された写真の一枚で,右端のドイツ人医師が,到着した人の選別を行っている様子だ.医師は一目で,ガス室か,労働力かを判断し,手を左または右に上げて合図した.即ガス室送りが3/4くらいにも達したという説があるそうだ.女性,子供,老人,障害者などは労働に適さないため直ちに即ガス室が多かったそうだ.また一旦労働力側に行っても,その労働は過酷を極め,また食事は微量で,過労死,衰弱死や餓死に至ることが多かったそうだ.

医師は単に人を診断して,その結果を手で示しただけ,ガス室に連行する人(収容者が担当)は単に道案内しただけ,...という風に,罪の意識を持たない,あるいは希薄で済むようにシステムが組まれていたそうだ.ガス室から遺体を運び出すのも,焼却するのもそれぞれ別の担当ユダヤ人収容者にやらせたという.尤もその人たちもやがて証拠隠滅のため,殺されることになっていたそうである.


アウシュヴィッツ収容者の写真

アウシュヴィッツ収容者の写真

一部残された収容者の写真.名前とID番号,生年月日,元の住所とここに移送された日付が記されていたと思う.

収容者はID番号や,ユダヤ人識別のマーク(ダビデの星)などを腕に刺青されたそうだ.

なお着用している服は少年ブルーノの『縞模様のパジャマ』と同じ,いやこちらが元であるが.なおこのパジャマにはユダヤ人,政治犯,ジプシー,.....等々連行された理由の識別票が付けられていたそうだ.


アウシュヴィッツで押収されたカバン

押収されたカバン

ここに来ると全ての財産は没収されたという.いずれ帰ることができるから,その日のために名前を書いておけ,と偽りを言われ,このように名前が記されているという.

このように品別に分けられたものに,例えば靴クリーム類,同ブラシ類,義足....が山のようになっている.刈り取った髪の毛もあったが,多くはカーペットなどに織り込まれたそうだ.さらに遺体から外した金歯は溶融しインゴットにして,罪悪感を希薄化し市場に出し,焼却した灰は畑の肥料にしたという.


アウシュヴィッツのシャワー室(ガス室)の入り口

シャワー室(ガス室)の入り口

ここはシャワー室と称していたガス室の入り口.中を覗くと薄暗くかなり広い.天井中程に四角い穴が見える.また現在は無かったが,元はシャワー室を偽装するため蛇口が数個天井に付いていたそうだ.

シャワー室には命が途絶えても,そのまま立った姿勢で横にならないほどぎっしり詰め込まれたそうだ.

このシャワー室がまた,少年ブルーノが発する最後の言葉,あのシャワーなのだ.

またシャワー室(ガス室)に隣接して遺体の焼却炉が設けられていた.非常に多くの遺体を焼却するため,一つの炉に同時に2体入れたそうである.


アウシュヴィッツのツィクロンB

ツィクロンB

これがシャワー室(ガス室)で使われたツィクロンB(Cyclon B)の空き缶.シャワー室(ガス室)に収容し,ドアを密閉し,天井の四角い小窓を空け,そしてこの缶の中身を下に注いで,小窓を閉じる,という手順で虐殺したそうだ.

ツィクロンBは商品名で,ペレットなどの吸着剤に,猛毒の青酸化合物と安定剤,警告用の臭気剤などをしみ込ませたものだそうだ.これを写真のブリキ缶などに密閉し,保存できるそうだ.缶を開けると吸着剤から青酸化合物がガスとして空気中に放出され,大変なことになる.


アウシュヴィッツ死の壁

死の壁

この壁を前に立たされた20万人以上が銃殺されたという.当時壁は銃弾が跳ね返らないように,木材で覆われていたようである.今もこの死の壁の前には,犠牲者を悼み花が捧げられていた.


アウシュヴィッツ収容所のヘスの絞首台

アウシュヴィッツ収容所のヘスの絞首台

アウシュヴィッツ収容所の縁の方に,フックの付いた絞首台があった.ナチスドイツ親衛隊の将校で,ここアウシュヴィッツ強制収容所の所長を務めたルドルフヘス(Rudolf Franz Ferdinand Hoss)が,ドイツ敗戦後,戦犯としてこの絞首台で絞首刑に処せられたそうだ.

戦後1946年3月11日に逮捕され,大量のユダヤ人を虐殺した罪で死刑判決となり,1947年4月16日ここで執行されたそうだ.

ビルケナウ収容所跡Birkenau

ビルケナウ収容所死の門

ビルケナウ収容所死の門

私たちは上記アウシュヴィッツ収容所を後に,ここビルケナウ収容所を訪れた.ビルケナウ収容所はアウシュヴィッツ収容所だけでは足りなくなったため,アウシュヴィッツ第二強制収容所として作られたそうだ.総面積は1.75km2で,東京ドーム約37個分,300以上の施設があった(現在は大半が破壊消滅)そうで,ピーク時には9万人を収容したそうだ.その殆どはユダヤ人だったそうだ.

鉄道引込み線が強制収容所内まで続いているが,この門が『死の門』と呼ばれていたそうだ.ここもやはりガス室や人体実験施設があり,大量虐殺されたそうで,一旦この門をくぐったら死は免れなかったということだ.


ユダヤ人をビルケナウに移送した貨車

ユダヤ人をビルケナウに移送した貨車

実際この貨車でユダヤ人をビルケナウに移送したそうだ.大量に詰め込まれ,横にはなれず,夜も立ったまま寝て,ここまで運ばれたという.途中で亡くなる人もいたそうだ.


ビルケナウ収容所を訪れた人々

ビルケナウ収容所を訪れた人々

ここもまた訪れる人が多い.中谷さんに訊くと,訪問者は年々増え,特に若い世代の訪問が多くなってきているという.ポーランド,イスラエル...等はもち論多かろうが,ドイツ人も多く訪れると聞いた.


ビルケナウ収容所の棟内

ビルケナウ収容所の棟内

ここを建設する頃はドイツ政府の財政が悪化し,十分な資材が得られなかったそうだ.そこで,木造馬小屋の設計を収容所に転用した構造を採ったそうだ.

両側に3段のベッドが並ぶが,これに地面の床も加えて各段には幾人もの人が寝かされたという.また真ん中に一応暖房煙管が通っているが,-20℃まで下がる冬季には全く非力で,凍えたそうだ.

この写真にないが,単に丸い穴の連なるトイレは,一日2回だけ,しかもごく短時間で,と制限されていたそうだ.

最近日本で大量の図書館書籍破り事件があったが,その破られた『アンネの日記』の著者アンネフランクも,1944年このビルケナウ収容所に一時収容されたそうだ.そしてその後,他の収容所に移されたがチフスに罹患し,1945年に亡くなったという.15歳だったという.

聞けば聞くほど身の毛のよだつようなことばかりだ.せめて犠牲者のご冥福を祈りたい.


Cannergy'sホームへ