十字架の丘Kryi Kalnas/the hill of crosses

この十字架の丘編では,十字架の丘を訪れたときのリトアニア入国時の眺め,十字架の丘,ヴィリニュスへ行くときの写真を載せました.


十字架の丘付近のGoogleマップ

リトアニアの十字架の丘はマーカー5の辺りで,シャウレイの北12kmに位置している巡礼地.

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リトアニア入国enter Lithuania

リトアニア共和国国境

リトアニア共和国国境

ラトビアのルンダーレ宮殿を見物した後,私たちはまたマルクさんの白いバスに乗り,南下した.そして程なくLietuvos Respublikaと記されたリトアニア共和国国境に至り,そのまま通過した.


リトアニア国境の小さな両替店

小さな両替店で両替

国境を越えた道路脇には小さな両替店があり,皆ここでリトアニア通貨リタスLitas(Lt)をいくらか買った.

国境を通過するのはトラックが多い.私たちが並んでいると,『そんなに待てないよ』と断りもなく割り込んでくる連中もいる.どうかと思う.中には,すみませんが,という感じで断って割り込む人もいるが,まあ業務中だから急ぐのは仕方なかろう,と思う.

それにしてもこんな原っぱの簡易な小屋で,大丈夫なのかな~?と気掛かりだ.日本では,私の住んでいる近く,3年程前になろうか,スーパーの前庭,マンションの目の前の銀行ATMブースが建設重機で丸ごと壊されて現金が奪われたことがあった.多分この国ではまだそうした物騒な強奪はないのかも知れない.


リトアニア通貨リタスLitasへの両替レート

リトアニア通貨リタスLitasへの両替レート

エストニアとラトビアはユーロだが,リトアニアは通貨リタスLitasのままで,旅行者には不便だ.USD,EURに加え,英ポンド(GBP)も扱っている.ぱっと見,USDに比べユーロが高くなったものだと感じる.昨年まで隣国ラトビアは独自通貨LVLだったので,表示欄が残っているが空欄となっている.

リトアニア政府は以前ユーロへの切り替えを目指したが,要件の一つであるインフレ率が高過ぎて,認められなかったそうだ.だが,再び2015年のユーロ導入を計画しているそうだ.


リトアニアの農村地帯を進む

リトアニアの農村地帯を進む

リトアニア入国後も土地は概ね平坦で周囲に山は見えない.土地はラトビア同様畑が多く,林も結構ある.こうした農村地帯を南に向け進んでいった.

十字架の丘the hill of crosses

十字架の丘駐車場に到着

十字架の丘駐車場に到着

バスはジョニスキス(Joniskis)と思われる街を通過し,また野原を越えて,この十字架の丘駐車場に到着した.観光バスは2,3台停まっていた.

駐車場にはインフォメーションと売店,それとレストランもあったか?


売店には十字架

売店には十字架

売店には十字架が販売されていた.丘に立てる人はここで買っていく.写真の例では20LT,1000円位か.もっと小さく安価なタイプや大きなサイズのもの,またロザリオなども揃えてある.


十字架の丘に歩く

十字架の丘に歩く

駐車場から十字架の丘までは石畳の道が付けられ,ここを歩く.周囲は牧草地であろうか,草の原だ.


十字架の丘には無数の十字架

十字架の丘には無数の十字架

十字架の丘に着いた.殆ど無数の十字架が立てられているように見える.キリスト像,聖母マリア像や小さなロザリオも見える.立て方は乱雑で,奉納者が望む位置に好き勝手に置けるようだ.

発祥は定かでないものの,ロシアに対する1831年11月蜂起の後から立て始められたと見られているそうだ.つまり蜂起は失敗し,多くのリトアニア兵が犠牲となり,家族が犠牲者の冥福を祈り十字架をここに立てたということだ.


十字架の丘の周囲と歴史

十字架の丘の周囲と歴史

その後,リトアニアが一時主権を回復した1918年からの独立期には,国民が平和や独立戦争犠牲者のために祈る場所となっていたという.さらに時代は下り,1944年~1990年のソ連統治下では,ソ連への抵抗のシンボルであったが故に,ソ連は数度に渡り丘の十字架を撤去したり,写真上方に見えるクルヴェ川を堰き止めて丘を水没させてしまうという噂もあったそうだ.

そして1990年に主権を回復し,再びリトアニア共和国になると,国内のみならず他国の巡礼者も訪れ,十字架を立てるようになっていったという.1993年9月には教皇ヨハネパウロ2世もこの丘を訪れ,2000年にはフランシスコ会修道院がこの丘の近くに建てられたそうだ.また私たちのような単なる観光客も多くなったそうである.


ユダヤ教徒も

ユダヤ教徒も

十字架の下にダビデの星が記されているので,きっとユダヤ教徒が立てたのだと思われる.十字架はキリスト磔刑の象徴であろうが,ユダヤ教徒にどのような意味になるのでしょうか?キリストはユダヤ人だったとするのが普通なのでしょうが,その程度の関連しか知らず.....わかりません.

まあこうしていろいろな人が巡礼に来るのは,元来平和を願い,祈るための丘だけにいいことではないだろうか.


下は,十字架の丘での写真

十字架の丘での写真
十字架の丘での写真 十字架の丘での写真 十字架の丘での写真 十字架の丘での写真 十字架の丘での写真 十字架の丘での写真
十字架の丘での写真 十字架の丘での写真 十字架の丘での写真 十字架の丘での写真 十字架の丘での写真 十字架の丘での写真

リトアニアの郷土料理ツェペリナイ(Cepelinai)のランチ

十字架の丘をバスで去り,シャウレイ辺りのレストランJuone Pastuogeに寄った.入り口に楽器演奏人形が見えるように,小さなステージを備えたライブハウスのような店内だ.内装や調度品は民芸調で,壁にはアーチストの写真がベタベタ貼られている.夜は賑やかであろう.

私たちは写真のリトアニアの郷土料理ツェペリナイを頂いた.マッシュポテトに先に作った澱粉と片栗粉を混ぜて餅状にし,中に挽肉料理を詰めたものだ.ツェペリナイ(Cepelinai)が飛行船のツェッペリン(Zeppelin)に似ているが,正にその通り,形が飛行船の形なのだ.

レストラン入り口レストラン店内ツェペリナイ
↑レストラン入り口↑レストラン店内↑ツェペリナイ

食べてみると,ブヨブヨ超厚皮のギョーザ,といったところか.まあ,話の種にはなろうかと.

ヴィリニュスへgo to Vilnius

干し草の山

干し草の山

昼食後,私たちは今夜の宿泊地,リトアニアの首都ヴィリニュス(Vilnius)へと向かった.エストニアやラトビアの首都がバルト海に面しているのに対し,ヴィリニュスはバルト海とは反対の奥に位置しており,ベラルーシに近い.

途中あまり大きくない街を過ぎるが,多くは田園地帯だ.写真のように大きく綺麗に巻かれた干し草が積み上げられている.発酵中であろうか.ただこの辺りもまだ戸外には出ないようで,家畜の姿はあまり見かけない.


道路は一般に混み合っていない

道路は一般に混み合っていない

概して道路は混み合っていない.これまで通ったバルト三国の一般道では比較的信号待ちは少ないし,写真のように高速道も空いている.リトアニアの高速道速度はレーンによって差があり,130km/h若しくは110km/hのようである.


ヴィリニュスのメリディアンヴィリニュスホテルに到着

ヴィリニュスのメリディアンヴィリニュスホテルに到着

夕刻になってバスはヴィリニュスのメリディアンヴィリニュスホテルに到着した.マルクさんが皆の荷物を出してくれている.マルクさんはヴィリニュス居住の方なので,今夜はホテルではなく,自宅に戻って休まれるという.ご家族と会い,ゆったりできるでしょう.


メリディアンヴィリニュスホテルは吹き抜けの両側に部屋

ホテルは吹き抜けの両側に部屋

メリディアンヴィリニュスホテルにチェックインし,部屋に向かった.高い吹き抜けの両側に部屋が配置されている.とても立派な吹き抜けだが,部屋番号の割り振りが予想外で,少し右往左往してしまった.


リゾートホテルだ

リゾートホテルだ

部屋に入り,夕暮れのベランダに出ると芝生の庭に,湖があり,その先は林だ.私は行かなかったが,スイミングプールやスパなどの設備があって,所謂リゾートホテルだ.つまり街の中心からは相当離れているようだ.まあ,出かけないからいいが.


柔らかいポークの夕食

柔らかいポークの夕食

部屋で寛いだ後,ホテルレストランで夕食となった.これもリトアニア伝統料理なのか,長時間煮込んだのか大変柔らかなポークだった.美味しかった.ビールもブランドは覚えてないが地元産で,普通に美味しかった.


下は,ヴィリニュスへ行くときの写真

ヴィリニュスへ行くときの写真
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明日はヴィリニュスの街を観て廻ることになっている.

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