このチェンストホーバ編では,2014/4/19(聖土曜日)朝カトヴィッツェを出てチェンストホーバへ行く時の様子,及びヤスナグラ修道院の写真を載せました.
ポーランドのチェンストホーバはマーカー14の辺りに位置している.
この街チェンストホーバは専ら聖地ヤスナグラ修道院の地として有名で,自国民はもち論他国からのカトリック教徒の巡礼者も多いそうだ.
別窓で大きなGoogleマップを開くカトヴィッツェのノボテルツェントラムで朝食の後,バスは一路チェンストホーバに向け走った.
途中高速道路区間と一般道があった.途中多くは畑で,小さな町や村を通過し,一度サービスエリアで休憩を挟んだ.
1時間少し走ったであろう,チェンストホーバの街に入ってきた.バスはそのままヤスナグラ修道院の駐車場に走った.
駐車場は広く,近くのお手洗いもまた広かった.大勢の巡礼者の来訪に備えている様子が窺える.ただ,私たちはまだ10時前という早い時間だったためであろう,車はまだ疎らだった.
下は,チェンストホーバへ行くときの写真
ヤスナグラ修道院前に到着し,参道を歩いた.参道両側には世界各国の国旗が掲げられている.世界中から巡礼者が訪れるからという.
さてこの日は折しも聖土曜日(Holy Saturday:イースターの前日土曜日)で,これから礼拝に訪れる信徒,礼拝を終えて戻る人,どちらもイースターバスケットを下げている.前者は修道院に供するお肉などの食材を入れて差し出し,後者は修道院側からクッキーなどを入れて貰って持ち帰るという.子供たちは楽しみにしているそうだ.
随分入り組んだ構造になっているようだが,外からはこの高い塔が目立つ.その後ろには複数の教会(礼拝堂)や,修道院なのできっと僧坊も備える筈だ.
塔の下側には日時計が付いており,9時40分を指している.腕時計は夏時間なので10時40分だ.私は夏時間制が好きでないので,日時計が大層気に入った.
さて,当ヤスナグラ修道院であるが,1382年,当時この地を治めていたオポーレ公ヴワディスワフオポルチクに招かれたハンガリーのカトリックの司教団が建設したということだ.まあ,ここに限ったことではないが,国の争奪や連合....いろいろある訳で,そんな時代の一コマのシーンであろう.
で,大事なのは,この『ヤスナグラの聖母』,若しくは『黒いマドンナ』と呼ばれる聖母マリアのイコンがここに祀られていることだ.『黒いマドンナ』は煤で黒くなったのでそのような別称がついたようだ.
さて,ヤスナグラの聖母がかように崇敬されるに至ったかであるが,一例として17世紀の大洪水時代スウェーデンに侵略された際,この修道院だけは包囲され絶体絶命だったに拘らず奇跡的に助かった.この黒いマドンナのご加護に違いない,といったことだそうだ.
この『ヤスナグラの聖母,黒いマドンナ』のイコンは,写真の聖母マリア礼拝堂(Holy Virgin Mary Chapel)の中央に見えている.フラッシュ無しでの撮影可と云うことで撮ったのだか,信徒の方に無礼があってはならぬため後ろで撮った.でもちょっと小さ過ぎるな~
外のキオスクで黒いマドンナのポスターが貼られていた.図々しくそれを写させてもらった.印刷からの転載なので,転載の写しの二乗となる.
右頬(写真で左側の頬)に二条の黒い傷跡が見える.何でも,ここに侵攻したモンゴル軍がこのイコンを略奪しようとしたが,何故か非常に重く持ち上がらない,その際賊の奮闘でイコンの表にこの2本の傷を被った,ということだ.また後世,この傷の修復が試みられ,一旦傷は見えなくなるのだが,しばらくするとまた現れるのだそうだ.確かに不思議ですね.
修道院なので当然修道士(monk)が居られよう.それとこの写真のように修道女(シスターsister)の方も居られるようで,何人もお見かけした.ここはどちらも修道されているようだ.
改めて修道院とは何か辞書で見ると,修道士がイエスキリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をする施設,とある.古代は,砂漠,洞窟,断崖絶壁の頂などで,隠者のような生活を送るキリスト教徒.これは何となくイメージに合う.現代,つまりここヤスナグラ修道院などであるが....どうもよく理解できていない....
上記聖母マリア礼拝堂の横にさらに2つの大きな礼拝堂があった.とても天井が高い立派なもので,寧ろこちらが主礼拝堂かと見紛うくらいだ.
↑別の礼拝堂1 | ↑別の礼拝堂2 |
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下は,ヤスナグラ修道院での写真
下は,さらにヤスナグラ修道院での写真
ヤスナグラ(Jasna Gora)とは光の丘の意だというが,確かに脇の階段から眺めると少し高台に位置している様子が見てとれる.