このトラカイ編では,2014年4月15日,リトアニアの首都ヴィリニュスを離れ,トラカイへ行くときの風景,湖の島のトラカイ城,同島を囲むガルヴェ湖のミニクルーズを楽しんだときの写真を載せました.
リトアニアのトラカイはマーカー7の辺りに位置している.周辺にはガルヴェ湖などの数々の湖や島があり美しい.
別窓で大きなGoogleマップを開くヴィリニュスからバスは30分ほど走ったであろうか,トラカイ(Trakai)の街に入ってきた.この街は人口5000人余の小さな街であるが,近隣(と言っても,結構広い範囲だが)には大小200もの湖があり,首都に間近いため人気のリゾート地だそうだ.尤も夏向きのリゾートではあろう.
シンプルなデザインの教会が見えた.ヴィリニュスではゴシック様式など凝ったものを多く観てきただけに,ちょっと意表を突かれた感もする.少し離れて補修中と思われるロシア正教会も見えた.この街も一定数のロシア人が居住しているのだろう.
200もの湖の中で一番大きいというガルヴェ湖(Lake Galve)畔の駐車場でバスは停まった.湖の上には目指すトラカイ城(トラカイ島城)が望めた.ちょっと見,おとぎの国の城のような佇まいだ.
小さなクルーザーや足漕ぎボートが多く停泊している.レストランやカフェ,おみやげ店も軒を並べている.夏が待ち遠しいという雰囲気だ.
トルコ語系カライム語を話すユダヤ系の少数民族,カライム人(Karaims)の家だそうだ.このような通りに面してドアがなく,壁に3つの窓を持つ木造建築がカライム人特有の様式で,現在この辺りを中心に数百家族が暮らしているそうだ.
カライム人は,14世紀末,後述のヴィタウタス大公(Vytautas:在位1401~1430年)が遠征した際に,現在問題のクリミア半島から傭兵として連れてこられた人たちの末裔だそうだ.キリスト教徒とカライム人共同体として自治権を与えられてきたが,途中戦争やペストで大幅に減り,18世紀中頃から再び増えたそうだ.
まだ観光客は多くないので,今のところ不釣合いにおみやげ店など多い.それでも幾らか客や地元の人たちが湖畔の散歩を楽しんでいる.元々王様が美しいこの地が気に入り,城を築いたくらいだから,散歩するには持って来いの場所なのだ.
トラカイ城,正しくはトラカイ島城はガルヴェ湖に浮かぶ小島の上に建てられている.そして,十分幅広い橋で繋がれ,ここを渡ると城に至る.トラカイ城は渡る前の湖畔から観ると,この写真のように全体像が良く掴めるようだ.
橋途中の中継島では,このトラカイ城生まれというヴィタウタス大公(Vytautas:在位1401~1430年)の木彫り像が立てられている.ヴィリニュスのページでも触れたが木彫りはリトアニアの伝統工芸なのだ.
下は,トラカイへ行くときの写真
橋を渡って小島に着くと,僅かな浜辺の直ぐ先に城壁が築かれている.城壁の所々には監視塔が設けられている.城壁も等も間近に見ると巨大で頑丈そうで,おとぎの国の城から,鎧の兵士が戦う砦だな~,と印象が一転した.
城の建設はリトアニア公ケーストゥティス (Kestutis) が城の建設に着工し,1409年,前記木彫像の息子ヴィタウタス(Vytautas:在位1401~1430年)により竣工した.ヴィタウタス公は宝物庫を伴ってここに居住し,1430年に没した.つまりトラカイはリトアニア大公国中心,首都であった.
ただ,後にリトアニア公国がポーランド王国と一体化するなど,大きな歴史の変化があり,次第に寂れていったようだ.そして時代が下り,トラカイを含むエリアはロシア帝国に併合され,次にナチスドイツに併合され,第二次世界大戦後は再びソ連に併合された.そして荒廃したトラカイ城は徐々に再建され,リトアニアが独立した1990年代初頭に概ね完成し,観光資源として活用されるようになったそうだ.
ケストゥティスの後も改修や増築されたそうだが,大きくは,右側に中庭のある本丸,左手に兵の宿舎が設けられている.主に石とレンガで築かれているようだ.兵舎は現在博物館として種々文物が展示されている.
これらの建物の内側は広い庭となっており,馬に跨った将兵が隊列を組んで出兵の準備を整えた場所であるようだ.
本丸の入り口に連なる道には跳ね橋が設けられている.橋の下は現在枯れているが,往時は水路となっていたようだ.高く強固な城壁と,この跳ね橋で滅多なことでは本丸まで侵入するのは困難であったであろう.
本丸には中庭が設けられ,そこに回廊が巡らされている.また窓やドアもこの回廊に沿って設けられている.そして外側はほぼ閉じた構造であるので,外敵に対しては鉄壁の守りという訳だ.
剥がれた壁を覗くと,やはり石とレンガ造りであるが,レンガはゴシックレンガと呼ばれるタイプで,全体ではロマネスク要素を含むゴシック様式だそうである.
大きな部屋で,外国要人の歓迎式典を行うなど,日本で言えば迎賓館の大広間に相当するという.屋根の構造が中東のバザール天井と同じようであるところが面白い.やはり城より砦という方が似つかわしいか.
壁には大きな戦場の油絵や肖像画が架けてある.当初フレスコ画もあったのだが傷んで剥がれてしまったようだ.以下に大広間の絵を載せる.
上の2枚は,トラカイ城着工者ケーストゥティス公(在位1377?~1381年)と後継者で竣工させたヴィータウタス大公(在位1401~1430年)の肖像画.
↓ケーストゥティス公(在位1377?~1381年) | ↓ヴィータウタス大公(在位1401~1430年) |
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左は古い時代に発行された硬貨.貨幣経済の先進国だったそうだ.
↑古い時代に発行された硬貨 | ↑鎖帷子 |
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左は鎖帷子.重さが十数kgあるそうで,戦う前にそれだけでかなり大変だ.
下は,トラカイ城での写真
かつてはトラカイ城の兵舎だったという棟.現在は当時の諸物を展示した博物館になっている.
トラカイ城近くには野生動物が多く生息していたようだ.狩猟の対象だったようで,大きなムースや,多分今はいなくなったであろうトラの皮なども展示されていた.
時代ごとにトラカイ城領主の印鑑が展示されている.写真のもののように多くは金属製である.実用されたか,単に趣味的に使われたのか判らないが,中国製と思しき石のものも見えた.
トラカイ城の一画には監獄があったそうだ.まあよくあることだ.そのためか中庭にはこんな首枷が置いてあり,家族連れのお父さんが罪人を演じていた.ご苦労さま.
下は,トラカイ城での写真
お城を一通り見物して次は近くの船乗り場でクルーズ船に乗り込んだ.船室はぐるりと透明シートが架けられ,防風してある.もち論それを捲って外に出ることもできる.これで城を一回りする.
再び湖から,離れて望むトラカイ城はお伽話的城の様相を呈してくる.結構なことだ.
15世紀まで遡るという名門リトアニア貴族の館だそうだ.真っ白な壁が夕陽に映える.左の白い東屋は少しインド風.
下は,ガルヴェ湖クルーズでの写真
こうしてトラカイの見物を終えると私たちのバスはカウナスへと向かった.