このワルシャワ(続)編では,ワジェンキ公園,聖十字架教会,クラクフ郊外通り,旧市街,フォークロアショーなどを見物し,ミュンヘンを経由し,羽田へ帰国するときの写真を載せました.
ポーランドの首都ワルシャワはマーカー9に位置している.人口170万人くらいで,製造業,鉄鋼業,電機産業,自動車産業など盛んな工業都市という.
美しい旧市街は『ワルシャワ歴史地区』として世界遺産登録されている.
別窓で大きなGoogleマップを開く2014/4/20(日:イースター)ヒルトンワルシャワで朝が明けた.窓を眺めるといい天気のようだ.
さて今日は最後の観光日で,都心部ワルシャワ2回目の見物だ.ウキウキ.
集合時間に合わせてエレベーターで下った.ここのエレベーターのモニターには行き先階や時刻の他,普通のテレビ放送(BBC)が映っている.薄いLCDモニターができたのでこうした設備も容易になった訳だ.
なおエレベーターはシンドラー製だったか.
さてこうして私たちはバスに乗り,ホテル前の道を東の都心に向かった.都心までは2km程度であろうが,一方通行とかの制限で,今回も例の文化科学宮殿辺りを通過したり,ぐるぐるしながら進む.
さてバスはワジェンキ公園前に到着し,中に入った.木立の新緑と芝が目に染みるほど美しい.ポーランド王国最後のポニャトフスキー王がこの地にワジェンキ宮殿を建造し,宮殿跡が公園になり,宮殿名が現在の公園名になって引き継がれたということだ.
入ると直ぐの池の前に,ショパンのブロンズ像があった.風になびく柳の木に座り,故郷の自然に耳を傾けるショパンだという.言われないととても柳とは判らない難解な作品だ.
シマノフスキというアーチストの作品で,1926年に除幕され,ポーランド国民の愛国心と力のシンボルであった.しかしドイツからすると,反ドイツの印であり,1940年ドイツ軍によって破壊され,奪われたという.現在あるのは1958年復元された像で,台座にその旨記されているという.
なお毎年5月~9月の日曜日にはこのショパン像脇で野外コンサートが開催される,とポーランド政府観光局のページに載っている.私たちが訪れたのはたまたま2014/4/20(日)とその該当日だったが,何も見えなかった.早い時間であったし,また毎日曜日とは限らないのであろう.
これは池の畔に建つワジェンキ王宮付属の建築物のようだった.肝腎のワジェンキ王宮本体はなぜか撮り損ねたようだ(涙)
池の脇をキジが歩いていた.羽根を広げてくれないかな~と見ていたが,キジは気が向かないようで広げようとはしなかった.
立派な緑地なのでリスなども棲みついている.ちょっかい出す気は毛頭ないのだが,近づいたらピョコピョコ跳ねて消えた.それがちょっかいか,ごめんね.
下は,ワジェンキ公園での写真
バスでワルシャワの中央通りとも言うべきクラクフ郊外通り(変な名だが)の中心部,聖十字架教会(St. Cross church)にやって来た.2つの尖塔を持つバロック様式で17世紀末の建設という.入り口階段の前には十字架を背負うキリスト像が据えられている.
建設から80年ほど経過した1778年当時の聖十字架教会と周りの様子を描いたパネルが道路に設置されている.聖十字架教会の外観は殆ど今と同じようであるが,前の通りの様子は多少異なる.馬車がバスや車に変わったのと,人々の,特に婦人の服装がシンプルになっているなどの点が目立つ.
それにしてもやはり200年も,300年もの耐久性ある建築にはやはり感心する.
聖十字架教会の主祭壇ドアから入った正面に大きな礼拝堂が見える.信徒の方がお祈りしていた.白い壁に金色の祭壇となっている.左右にも幾らか小さな祭壇が設けてあり,これらも白い壁の前に金色となっている.
背面,入り口の上には他のカトリック教会同様パイプオルガンが据えられている.
ポーランドの偉人フレデリックショパン(Fryderyk Chopin:1810~1849年)の心臓がこの柱の下側,花束のある辺りに収められているそうだ.パネルの下側に『Here rests the heart of Fryderick Chopin』と刻まれているのが見える.
ショパンがパリに滞在中の1849年,病に倒れたとき,姉ルトヴィカが来てくれて最後の再会をした.そのとき,自分が亡き後は,ぜひ自分の心臓を祖国ポーランドに埋葬して欲しいと願ったそうだ.そして同年10月17日,39歳で永眠したそうだ.姉ルドヴィカは弟の望みを聞き入れ,祖国にショパンの心臓を持ち帰った.当初ロシア政府への対策など諸事由で心臓はあちこち移動され,ショパン没後96周年の1945年10月17日,最終的にこの聖十字架教会に戻されたということだ.
なお遺体はパリに埋葬されているという.また当時遺体から心臓を取り出すのは一般的なことで,ガイドの方がその理由を説明してくれたのだが....,思い出せない.
下は,聖十字架教会での写真
この『クラクフ郊外通り』という変な名だが,その昔王宮近くに,古都クラクフの名を冠したクラクフ門というのがあって,その外側なのでクラクフ郊外,そしてクラクフ郊外の通りなので『クラクフ郊外通り』になったという説があるらしい.
円筒形がとてもユニークだ.聖アレクサンドル教会(Holy Trinity Church)と呼ばれ,19世紀初頭に建てられ,ワルシャワ蜂起で一旦破壊され,1958年に修復されたという.
ポーランド生まれのコペルニクス(Nicolaus Copernicus:1473~1543年).当時のキリスト教神学で,人間の住む地球は宇宙の中心という考えで,プトレマイオスの天動説は基本的宇宙観だった.その天動説に異議を唱え『地動説』を発見した.ただこれを公に発表するのは,キリスト教の教義に反し,火炙りの刑に処せられるなど甚だ危険で,生前はそっとしておいたそうだ.
ドイツの哲学者カントが,こうした天動説から地動説への大転換を,思想的変革の場面に例えて『コペルニクス的転回』と言ったそうだが,今もしきりに用いられるのは周知の通りだ.
クラクフ郊外通りや先に訪れたワジェンキ公園の数カ所に置かれたベンチで,上面に設けられたスイッチを押すとショパンの曲が流れてくる.ちょっとタッチした程度では反応なしだが,ここで諦めてはならない.かなり力を入れて押せば音が出てくる.
写真上側,クラクフ郊外通りを挟んだお向かいは,ワルシャワ大学の正門.
ワルシャワ大学の近くに建っているバロック様式のヴィジトキ教会(Kosciol Wizytek/Church of St. Joseph).4/17(木)朝にも一度見ている.1664年に建設が始まり,1741年に竣工というから長い工期を要したようだ.二次大戦の空爆では奇跡的に壊滅を免れたという.
ショパンがオルガンを弾いていたという.
教会の左手前にはヴィシンスキ枢機卿(Stefan Wyszynski)という方で,ポーランドのカトリック教会の司教,枢機卿.1948年から亡くなる1981年までの約33年間ワルシャワ首都大司教を務めたという.教皇ヨハネパウロ2世とともに,やはりポーランドの国民的英雄として尊敬されているそうで,花束が絶えないようだ.
今はどの国でも絶滅間近な有線公衆電話が見えた.多分多くはないであろう.屋根がなくむき出しだが,防水電話機であろうか.
クラクフ郊外通りという公道に駐輪しているので,多分ワルシャワ市営レンタサイクルではなかろうか.石畳の凸凹道でも大丈夫なように,がっしりしたフレームに太いタイヤを装備している.
軽自動車のルーフには大型インクジェットプリンター模型が載っている.druk24は大判印刷と広告の会社だそうで,さすが広告会社だけにインパクトのあるディスプレイだ.大型インクジェットプリンターで色々な媒体に印刷し,それを広告として貼るようだ.
ここがポーランド大統領官邸.その昔ラジヴィウ家所有のお屋敷だったそうだが,さほど大昔の建物には見えない気がする.しかし実際は17世紀建設と相当古い.大統領府となったのは1994年から,と近年のことである
ブロンズ像はポーランドリトアニア共和国の将校,後ナポレオン1世の下で将軍となったユーゼフポニャトフスキ(Jozef Antoni Poniatowski:1763~1813年)で,数多の戦いで功績を上げたという.
なお所定時間間隔で衛兵の交代式が見えるらしい.
ポーランドを代表する国民的ロマン派詩人で,また祖国独立運動の政治活動家であったというアダムミツキエヴィッチ(Adam Mickiewicz:1798~1855年)の像.こういった評価から滅多なことでは入れないというクラクフのバベル大聖堂墓所に埋葬されたということだ.
カルメル教会(Carmelite Church)と呼ばれ,頂部の青い球と,両側の徳利が変わっている.18世紀の建立でネオゴシック様式ということだ.
下は,さらにクラクフ郊外通り辺りでの写真
クラクフ郊外通りを北の終わりまで行くと歴史地区が始まり,市場広場(Rynek Starego Miasta)がある.写真右側が旧王宮で,王宮は少し高台に位置し,下にヴィスワ川(Wisla river)が流れている.
王宮は,1611年ポーランド王国がクラクフからここワルシャワに遷都するに際し,既存の建物を増設整備して完成したという.ただし,現状の建物は,他の旧市街(歴史地区)の殆どと同じように,二次大戦ドイツ軍空爆で破壊された後に,再建されたものだそうだ.
広場中央の塔の上に見えるはジグムント3世(Zygmunt Ⅲ:在位1587~1632年)で,クラクフからここワルシャワへの遷都を実行した王だそうだ.
市場広場脇には丘の下に行く(一番下は地下鉄駅らしい)長いエスカレータが設置されている.比較的近年のものだそうだ.以前,ソ連支配下時代はソ連製エスカレータだったそうだ.ソ連に対する恨みつらみは色々あろうが,それはそれとして技術遺産は残そう,ということでその制御盤はここに保存展示することになったという.
読めないが金色キリル文字の主張感と盤の大きさが迫力だ.3接点のナイフスイッチなど見えるので三相交流モーター,多分インダクションタイプであったと思われる.
王宮脇の通りを北に行くと,右側に見える.聖ヤン教会(Archicathedral Basilica of St. John the Baptist)で,メッシュ状模様の三角のあるファサードが特徴的で,ゴシック様式という.14世紀建立とワルシャワで最も古く,歴代王の戴冠式や1791年,ポーランド最初の憲法発布式(註)など,重要な歴史的行事が執り行われたという.ワルシャワ最初のオルガンもここで作られたそうだ.
(註)『ポーランドの憲法記念日は,日本と同じ5月3日ですよ~でも日本よりず~と古いですよ~』とワルシャワのガイドさんが話してくれた.1791年5月3日,議会で最初の憲法が採択された日ということだ.一方日本の5月3日は,1947年(昭和22年,戦後です)5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念して設けられた日だそうだ.確かに156年も早い.1791年は世界で最も早い時代の憲法発布で,ポーランド人はこれをとても誇りにしている,とやはりガイド嬢が話してくれた.
なお,ヤン教会の左隣りにも別の教会が建てられている.
歴史地区を真ん中まで進むと広場があった.旧市街広場と呼ばれ,周囲は歴史豊かな感じの美しい建物群が連なっている.
広場には露店が出店し,絵描きさんが絵を並べ,市民が行き交う.
実はワルシャワは第二次大戦で壊滅的打撃を受けた.街の90%は破壊されたと言われ,この旧市街(歴史地区)と言えども例外扱いはされず,ナチスドイツ軍は容赦なく空爆し,殆ど跡形もなく破壊された.またワルシャワだけで20万人の犠牲者が出たそうだ.その当時の写真が通りの傍らに掲げられている.
戦後,廃墟と化していた街を何とか元のようにしたい,という願いから緻密な復興計画が立てられ,再建が進められたそうだ.上にも掲げた,例えば1778年当時の聖十字架教会のような古く,精密な絵画,ワルシャワ大学建築専攻学生の写生画や図面....等々頼りに,それこそ壁のひび割れ一本まで拘って復元したという.想像を絶する難作業だったに違いない.
普通ユネスコ世界遺産はオリジナルでない限り文化遺産登録は難しいが,ここ復元したワルシャワ歴史地区は『破壊と復興の証し』として認められたようだ.
旧市街広場中央には剣(と盾)を持つ人魚像がある.一応台の下には本の少しだけ水が流れている.人魚と言えばコペンハーゲンの人魚姫が思い出される.そちらは『姫』と称するだけあって,いかにも女性的だが,こちらは大変戦闘的な出で立ちで,ジャンヌダルクのような雰囲気だ.
剣を持つ人魚はワルシャワ市の紋章であり,それでその立像がここに建てられてという訳だ.でもどうして剣を持っているのでしょう....?
戦後再建なのにもっともっと古い時代の街並みに見える.上述のように懸命に元通りになるように仕上げたという努力の賜物であろう.
広場周辺はレストランなどが多いが,それぞれ集客に懸命だ.お店の装いには各店工夫している.下にそんな例をまとめて載せてみた.
お店は看板などのディスプレイに注意を払い,魅力的になるよう注力している.
ワルシャワ旧市街にもバルバカン(Barbakan/Barbican:楼門,橋楼,外塁)があった.先だって見てきたクラクフ城壁のバルバカンが平地に,左右対称形に建てられていたのに対し,こちらは凸凹の地形に,随分複雑な立体構造で建てられている.Cの形を2つ,角度をずらして繋げた構造か?
レンガ造りで,上部には小さな銃眼が並んでいる.バルバカンには弾薬庫があり,攻めてきた敵にはふんだんにその弾薬を活用し,応戦したであろう.
下は,ワルシャワ旧市街(歴史地区)での写真
私たちは歴史地区のバルバカンを離れ,キュリー夫人の家の前を通過し,その先でバスに乗り,左写真のエリアにやってきた.最高裁から比較的近い場所だったか?
黄色い壁に描かれたLEGiAはやはり落書きかな~?梯子がないと届かない高さなのにご苦労なことだな~描いた勝手にアーチストさんは,とっても目立つこのロケーションを狙ったのであろうが.ここで改めてLEGiAを引いてみると,Legia Warsawはプロのフットボール(サッカー)チームのことらしい.とすると,落書きではなく贔屓のビルオーナーがちゃんと書いたものかな~?
LEGiA壁のレストランで席についた.ここではビゴス(Bigos:煮込み料理)というポーランド料理 を頂いた.キャベツとザワークラウト(キャベツの漬物)を豚肉やベーコン,炒めたタマネギなどを煮込んだものだそうだ.塩っぱ過ぎて,私には珍しく不味いと思われた.塩を加減してくれていたら結構イケるのかも知れないが....このレストランの大切にしている味なのであろう.客の方が悪いか.....
食べていると外が,雨とそれに幾らか風も出てきた.朝は良かったし,急変だ.午後市内を詳しく見て回るつもりであったが,止めて,私はこのままホテルに戻ることにした.
ホテルに戻り,テレビを見た.2014/4/20イースターのこの日,バチカンでは大勢詰めかけた信徒の皆さんに,教皇フランシスコが手を振っておられた.
また画面下には,エベレストの雪崩で遭遇したシェルパが死亡とのニュースや,韓国船沈没で不明者捜索継続中といったニュースが流れる.
そして,プールやサウナのある一階に降り,少し泳いでみる.ちゃんと25mあるようだ.連続して泳げず,一回行くと,そこに立ち一休み,そして戻る,というのを幾度か,という程度がやっとだった.
サウナはごく普通くらいの温度で,北の国なので温度が特別高いということはないようだ.(これが韓国などでは明らかに危険なほど高温のサウナがあるが.)
夕刻になって私たちはHALA MIROWSKAと呼ばれる生鮮食品市場に近いレストランに出向き,フォークロアショーを見せてもらった.
ポーランド伝統衣装を纏った演奏者がポーランド音楽を奏で,ダンサーが音楽に合わせて舞ってくれた.牛の登場するおどけた舞も面白い.チベットのヤクの舞などと似ておかしい.
男性が空中でムチを振ると,”パチッ”と大きな音を出す.試してみろと言われ,前に出て振ってみたが,ムチは空を切るばかり,風の音だけだった.同行のKさんが振ると,きれいに”パチッ”と鳴った.日頃のテニスのトレーニングの成果であろうと言われていた.
イースターなので出ないと思っていたがビーフを出してくれた.ポーランドビールも美味しく,もうこれで夕食は終わりであるのでお代わりも頼んだ.
ショーも終わり,食事も済んでバスでホテルに送ってもらった.夜の街は,電力に余裕がないためか幾らか暗めかな~という印象だ.
ホテルに戻ると一風呂浴びて,荷物をまとめた.明日はショパン空港から飛び立つ日だ.
2014/4/21(月)朝が明けた.この日は10時出発と遅いので,ゆっくりとヒルトンワルシャワのレストランに降り,大変美味しい朝食を頂戴した.
そして荷物をバスに詰め,ワルシャワ郊外を抜け,ショパン空港へと向かった.
バスはショパン空港に着いた.運転手さんありがとうございました.
ショパン空港,正しくはワルシャワフレデリックショパン空港(Warsaw Frederic Chopin Airport)で,ポーランドの航空旅客のおよそ55%がこの空港を利用するそうで,まさしく同国要の空港だ.
ショパン空港で私たちはミュンヘンに向けルフトハンザLH-1613便に乗り込んだ.機材はエンブラエルE190という珍しいタイプだ(故障も多いかも).そして定刻の13:10飛び立った.眼下にはワルシャワの街が広がっている.街の中にはかなり樹木が茂っている.
1時間半ほどのフライトでミュンヘン上空に来た.ワルシャワより緑が多く,濃くなっている.南に来たからであろうか.
こうしてミュンヘンには定刻の14:45に到着し,遅れないようにトランジットの手続きに入る.
往きのフランクフルト乗り換えのときより短時間だったが,今回のミュンヘンに乗り換えは順調で,無事羽田行きルフトハンザLH-0714便に乗り込む.
機材は羽田→フランクフルト便と同じB747-400(B744)だった.やはりモニターのタッチパネルの感度が芳しくない.ただ,ルフトハンザは非常に頻繁に水やジュースを配って回ってくれるのでありがたい.
長いフライトの末,朝(日本時間)になり,日本海上空までやってきた.既に10時間位飛んだであろう.あと少しだ.
LH-0714便CAは2回めの食事(朝食)を配ってくれた.全然動かないが,ちゃんと腹だけは減って頂戴した.
ほぼ定刻の午前10時頃,羽田空港に到着した.着陸前の低空旋回時,周辺には煙の上がる煙突が何本も見える.昔より何ぼか少なくなったと思うがまだそれなりにある.
着陸すると,空いているので入国審査はあっという間で,コンベアの荷物を受取る.皆さんにお礼とお別れを申し上げ,京急とJRで帰宅した.楽しかった.皆さんありがとうございました.