このワルシャワ編では,リトアニアのカウナスからポーランドに入りワルシャワへ向かうとき,ワルシャワの朝の風景,キュリー夫人の家(キュリー博物館)),ヴィラヌフ宮殿などを見物したときの写真を載せました.
ポーランドの首都ワルシャワはマーカー9に位置している.人口170万人くらいで,製造業,鉄鋼業,電機産業,自動車産業など盛んな工業都市という.
美しい旧市街は『ワルシャワ歴史地区』として世界遺産登録されている.
別窓で大きなGoogleマップを開く2014/4/16午後,カウナスを発った私たちのバスは国境を越えポーランド国内に入ってきた.標識の2番めの地名Podlaskieは多分ポドラスキーで,いかにもポーランド風かな~と思ったら,全然違ってポドラシェに近いらしい.何にしてもリトアニアに接したポーランド北東部の県であるそうだ.
ポーランドの地形も概ねフラットなようで,広い畑が展開されている.まだ野菜や穀物はあまり成長していないが,バルト三国に比べると緑が多く,茶色の部分が少ないように思える.多少南に位置するので,それが理由ではなかろうか.
オクタン価98のガソリンは5.59ズウォティ/l,今のレートで見ると187円/l程度で,日本より少し高い程度か.
この手前,国境近くの両替店で,円は扱っておらず,ユーロとUSドルでポーランド通貨ズウォティを買ったのだが,どんなレートだったか覚えていない.今ググってみたら1ズウォティ=33.497円と出ていた.なお両替店はリトアニアの例の小さな一店舗だけ,と違って,数店舗軒を並べていた.
午後8時前ワルシャワに入った.バルト三国ではまだ明るいい時刻だが,1時間早い時差のポーランドはもう暗くなった.ワルシャワの経度の違いより,時差の方が大きいのだ.ビルの壁には大きなブリジストンの表示が点灯されている.
今までず~っと乗せてもらってきたマルクさんの白いバスはここで終わりだ.マルクさん長い距離ありがとうございました.ヴィリニュスまでどうぞお気をつけてお帰り下さい.
メルキュールワルシャワツェントラムホテルは都心で,中央駅に近いようだ.以前はホリデイインだったそうだ.いいホテルだ.
到着が遅かったので,部屋に荷物を入れ,直ぐにホテルレストランに出向いた.トマトサラダにステーキの夕食で,若干焼き過ぎながら美味しかった.
下は,ワルシャワへ行くときの写真
夕食後外に出てみた.まずホテル玄関を出て,左を向くと,スターリンの贈り物として1952年から4年間,ソ連の威信をかけ建設したという,37階建てのビル.中には各種研究機関や博物館があるという.随分派手にライトアップされ,遠くからも一目瞭然であろう.
↓文化科学宮殿 | ↓ショッピングモール1 |
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↑ショッピングモール2 | ↑ショッピングモール3 |
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次にお向かいのショッピングモールを覗いてみた.これまた巨大な建物で,各種ショップやカフェ,地下にはカルフールなど数限りなく入居している.有名ブランドショップもあり,市民の購買力も相当あるのであろう.
4/17(木)メルキュールワルシャワツェントラムホテルで朝が明けた.階下に降りてレストランで朝食を食べる.広いガラス窓の脇に座ると,この朝は燦々と陽が輝いている様子が窺えて,気も軽くなる.
市内観光に向かうため玄関を出ると,新しいバスが待っていてくれた.マルクさんのバスもそうであったが,この辺は観光バスは真っ白,市バスはカラーと相場が決まっているのかも知れない.
空を見上げると雲ひとつない.こりゃラッキーだ.
ワルシャワの公共交通手段は鉄道,地下鉄,バスに加えてトラムが走っている.朝はトラムで通勤する人は多いようで,頻繁に往来している.きっと停車駅が密にあるのが便利なのであろう.多少,乗っている時間は長くなるであろうが.
第二次世界大戦時の1940~1943年,ワルシャワのこのエリアには,当時支配していたナチスによってユダヤ人居住区ゲットー(getto)が設けられ,ユダヤ人が強制移住させられた.写真のパネルはそれを示したワルシャワのマップだ.また傍らには,ゲットーを囲んだ壁の残骸も置かれていた.
ナチスドイツはあちこち,例えば先日訪ねたヴィリニュスなど,にゲットーを作り,ユダヤ人を隔離したが,ワルシャワゲットーは最大の大きさだったという.
ところでゲットーより遥か昔より,ユダヤ人は世界各地でまとまり,自分たちのコミュニティを築いてきた.しかしこれはあくまで自分たちのユダヤ人共同体(ケヒッラーというそうだ)で,ゲットーとは全く異なるそうだ.第二次世界大戦前そのワルシャワ市のケヒッラーには37万人,人口の30%のユダヤ人が暮らしていたそうである.37万人はNYに次ぐユダヤ人の多い街だったそうだ.
1939年ポーランドに侵攻したドイツ軍はワルシャワを占領した.そしてやがて敵視していたユダヤ人を閉じ込めるゲットーを作り,封じ込めていったという.ゲットーでは飢えと不衛生で,衰弱死や伝染病の蔓延はひどい惨状を呈したそうだ.またゲットーからトレブリンカ強制収容所などに移送され,殺害された人は膨大な数に上るという.ホロコーストである.
やがて抵抗運動が始まったのは1942年頃で,なんとかゲットーの解体に向かったのであるが,その間も犠牲者は多数出たそうだ.
道路を跨いでガラス張りの建物が建っている.ガイドさんの話では最高裁だそうで,土地が無かったのでこんな風に出来上がった,ということだ.
東京でも渡り廊下程度なら道路上建築を見かけるが,ここまで大胆なのは見たことがなかった.
幼稚園の年長さんくらいか,朝の散歩だ.私たちにも手を振ってくれて,愛想のいい子たちだ.ありがとう.
下は,ワルシャワの朝の光景
ポーランド女王聖母教会(the Church of Our Lady Queen of the Polish Crown)或いはポーランド軍の大聖堂(Field Cathedral of the Polish Army)と呼ばれ,1701年建立という.1944年に一旦完全に破壊され,バロック様式で再建されたそうだ.
ポーランド軍兵士がお祈りし,またポーランド軍の主要な軍事的宗教的行事を執り行っているそうだ.
格調高い左右の門柱には女神のような彫刻が見える.
1816年,法学行政学,医学,哲学,神学,芸術学の5学部体制で設立されたそうだ.現在は理学系,工学系など加わった総合大学になっているそうだ.当初の帝政ロシア,近年のナチスドイツ.....いろいろ困難なことがあったようだ.ポーランドの誇り,ショパンが在籍したこともあり,ノーベル賞受賞者3人(平和賞2,経済学賞1)を輩出しているそうだ.
このギリシャ神殿のような立派な建物はカジミエシュ宮殿(Kazimierzowski Palace)で,1634年国王ヴワディスワフ4世(Wladyslaw IV Waza)が夏用宮殿として建てたそうだ.1817~1827年にショパン一家が住んでいたこともあるそうだ.現在はワルシャワ大学の資料館などとして使われているそうだ.
このバロックな教会はヴィジトキ教会(Nuns of the Visitation Church)だそうだ.
18世紀の建立で,後期バロック様式に属し,私たちは外を通り過ぎただけだが,礼拝堂内部の装飾は随分美しいらしい.ショパンが日曜ミサでオルガンを弾いていたと聞くが.....ピアノオンリーと思い込んでいた.
ワルシャワや他のポーランドの街や村の道端にはよくこうした聖母マリア像や十字架を見かける.ポーランド国民の実に96.2%がカトリック信者という統計があるそうで,敬虔な信徒が多いのであろう.
狭いベランダながらいっぱい花を植えている.
下は,もっとワルシャワの朝の光景
ここがキュリー夫人の生家,ヨーロッパ都会の典型的住宅であろうが,複数戸から成る構造に見える.現在はキュリー博物館として公開されている.写真のように建物外壁には夫人が夫と共に発見したRa(ラジウム)とポロニウム(Po)が描かれている.でもそれが赤ん坊を抱いたお母さんの口辺りから出ているリボンで繋がれているのは何でしょう?
階段を上り博物館入口となる.ここに住んでいた頃は住居の入り口だったのであろう.フラスコとビーカーを手にした夫人のモノクロ写真が掲げられている.下にはMaria Skldowska-Curie, 1867-1934と記されているので,1867年にこの家で生まれたのであろう.父は下級貴族の科学者,母は同じく下級貴族で,教育者(校長)だったそうだ.マリアは5人兄弟に末っ子であったが,幼少時より聡明だったそうだ.
マリアはワルシャワ移動大学などでの勉学の後,パリに移りソルボンヌに入学し,名前もフランス語風にマリーと称し,物理や化学の研究に励み,物理学の学士資格を得たそうだ.
そして暫くしてイオン結晶の誘電分極などを研究していたピエールキュリーと知り合い,1895年に結婚した.そして二人の共同研究がスタートした.
キュリー夫人が放射線の実験に用いた乳鉢や計測器が展示されている.マリーは100gの試料を乳鉢ですり潰し,その放射性から新元素であると確信し,1889年ポロニューム(Po)と名付けて夫と連名で論文を発表した.なおポロニューム(Polonium)は祖国ポーランドのラテン語Poloniaに因むという.そして同年12月,今度はさらに強い放射性を示す新元素ラジウム(Ra)の発見に関する論文を発表した.
前述のように原子番号84のポロニューム(Po)と同88のラジウム(Ra)は間を置かず発見し,論文が提出された筈だが,この周期律表では原子番号84の欄は空白である.第三者の追試での検証がまだ十分でない時点で作られた表なのであろうか.
やがて,1903年『放射現象に対する研究』でノーベル物理学賞を受賞したが,このとき受賞理由から敢えて,ポロニューム(Po)とラジウム(Ra)の発見は外され,さらなる将来の賞に含みを持たせたそうだ.そして1911年,今度は『ポロニューム(Po)とラジウム(Ra)の発見と....』でノーベル化学賞を受賞した.
キュリー夫人を取り巻いた人々の写真が展示されている.二人の娘のうち,次女はピアニストとなり,長女イレーヌジョリオキュリー(1897~1956年)は物理学の研究を継ぐ.そして1936年,『α線衝突による安定元素からの放射性同位元素の生成』に関する成果でノーベル化学賞を受賞した.
ご近所の,路面近くにはレストランやカフェ,また教会なども並んでいる.モルタルの剥がれた部分を見るとレンガ造りの建物が普通なようである.キュリー夫人は1867年生まれなので,150年は経っている訳で,やはり木造住宅の多い日本と較べて長持ちするな~と改めて思う.
下は,キュリー夫人の家での写真
キュリー夫人は新元素の発見などで多大な成果を上げたが,裁縫や炊事などの家事もこなし,ピアニストやノーベル賞受賞の娘も育て,また祖国の為にX線装置を手に,戦場にも赴き......と実に偉大な方だった.
17世紀末,ヤン3世ソビエスキ(Jan Ⅲ Sobieski)が夏の宮殿として建てたそうだ.18世紀に増築され,概ね現状の姿になったようで,現在は博物館として公開されている.
宮殿に入り少し先に大広間があった.ここでコンサートなどが催されたそうだ.小学生のグループが見学前のレクチャーに聞き入っていた.
私たちもガイドさんに巡りながら聞くのだが,次から次へと....年季の入った頭には完全にキャパオーバーだ.
左の馬に跨る凛々しい人物が,本宮殿創設者ヤン3世ソビエスキ王だそうだ.在位は1674~1696年で,大きな内戦で荒廃したポーランドリトアニア共和国の立て直しに大きな功績があったそうだ.何よりも国民の信頼が厚く,軍事的には名将にして英雄,政治的には共和国最後の輝かしい時代を作ったということだ.
数限りないほど立派な部屋が連なる.天井や壁は装飾され,床にしても只者ではない.そしてそれぞれの部屋には絵画(主に肖像画)や彫刻,陶磁器,調度品....などのコレクションが所狭しと展示されている
ヤン3世がウイーン包囲攻撃から帰還したときの様子を描いてあるトレー.
当時ヤン3世はオーストリアの神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同盟を結び,圧倒的多数で攻め入り包囲するオスマントルコ軍を,尖峰隊僅か3000騎で打ち破ったそうだ.対オスマン戦だけに,単にポーランドリトアニア共和国やオーストリアだけでなく,ヨーロッパ全体に関わる偉業だった筈だ.
二階から裏庭を望むと綺麗なフランス庭園があった.高さを揃えて刈り込まれた様子は数日前見たラトビアのルンダーレ宮殿と同じ形式だ.
下は,ヴィラヌフ宮殿での写真
下は,もっともっとヴィラヌフ宮殿での写真
ヴィラヌフ宮殿見物の後はワルシャワを離れ,クラクフに行き.少しそちらの見物をして,4/19夕ワルシャワに戻り,4/20にワジェンキ公園観光などに出かける予定だ.