このリガ(続)編では,前編に引き続きラトビア首都リガ旧市街の三人兄弟(建物),リガ城,リガ大聖堂,市庁舎広場,聖ペテロ教会などを見物したときの写真を載せました.
ラトビアの首都リガの旧市街は,ダウガヴァ川(Daugava River)右岸,程なくバルト海リガ湾に注ぐのマーカー3に位置している.『リガ旧市街』の範囲はコンパクトで歩いて楽しめる広さだ.
別窓で大きなGoogleマップを開く右から古い順に長男,次男,三男に見立てられた建物.長男は15世紀の建設で,リガの住宅では最も古いという.確かに住宅としては随分古いですね.当時窓税があって,窓の面積に応じ税が掛かったそうだ,なので,本当は窓にしたかったのだが,重税から諦めて,窓形凹み模様にした様子が見て取れる.税務当局に対する抗議のアピールにも見える.ただ土地には余裕があったようで,少し前庭が設けられている.
中央ベージュの次男の17世紀(壁に1646が見える)になると,窓税は廃止され,十分広い窓が付けられるようになった.現在は建築博物館になっているそうだ.
薄緑の三男はやはり17世紀だが後半で,この時代は通りに面する建物幅に比例する間口税が課せられるようになり,間口の狭い建物になったようだ.間口税はあちこちで見られ,例えばベトナムなどでは今日でもそのため極端に間口の狭い扁平なビルが多く見られる.
三人兄弟はマザーピルズ通り(Maza Pils St.)に面して建つ.聖ヤコブ教会からほど近く,かなり狭い通りだ.横から眺めると前庭のある長男と狭い三男はあまり良く見えず,次男がドイツ風であるように見える.
リガ城は補修中で足場が組まれていた.外観は角の塔がある立派なものであるが,お城にしては随分さっぱりしたデザインに見える.それと平地で一般の建物と隣合わせ,随分庶民的な立地だな~と感じられた.
当初1330年,リヴォニア騎士団の砦として建てられたが,リガ市民との抗争は続き,一時はリガ側が勝ちここを奪う.ただ15世紀末には再び騎士団が奪回し,1515年に再建したという.抗争は16世紀後半,騎士団の消滅で終わるが,今度は17世紀前半スウェーデン軍によって征服され,また18世紀前半の大北方戦争で帝政ロシアに征服され占領された.第一次世界大戦後ラトビアはようやく独立し,1922年初代ラトビア大統領官邸となったそうだ.後ソ連支配の時代はどうだっか不明だが,現在は大統領官邸があり,広いので一部ラトビア歴史博物館,海外美術館のスペースもあるそうだ.
これまでラトビアはスウェーデン,ドイツ,ポーランド国,ロシア,ソ連....など多くに攻め入れられたが英国は含まれていないと思う.ではどうして英国教会があるのか?それは19世紀初頭,イギリスのビジネスマンがラトビアを新しいマーケットとして大挙して進出,中には事業に失敗,破産する人もまた多く出たそうだ.そんな一文無しになったり,見捨てられたりした同胞の救済ということもあって,1857年に建立されたということだ.
英国教会前には,木の枝をワゴンに載せ,中世スタイルの男性が販売,若しくは配布している.イースターに先立つ一週間前の日曜日(ちょうどこの日4/13だ)は『受難の主日』若しくは『枝の主日』と呼ばれ,ミサの初めにシュロ(ナツメヤシ)の木の枝を祝福し,信徒の人々はそれを祝福されたシュロとして各家庭に持ち帰る習慣があるそうだ.この小枝はそのミサに持ち寄るためのものではないでしょうか.
リガ城近くにはもう一つ,聖母受難教会(Our Lady of Sorrows Church)があった.白い外壁と薄青の屋根が清楚な雰囲気だ.1785年,当時のリボニア(現ラトビアとエストニア両共和国から成る地方)のリガ,つまりこの場所に建立され,1860年の再建で今の姿になったようだ.
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の肝入りで,テラマリア(Terra Mariana/聖母マリアの土地=中世リボニアの公式名称)の圧迫されたカトリック教徒の象徴とし建立され......とかあるが.ここで神聖ローマ帝国が現れますます判らなくなった.....また名称からは聖母マリアが迫害されたように響くが....いいことにしよう.
リガ城西側にはダウガヴァ川(Daugava River)が流れている.大きな川だ.
この辺りは大使館や領事館が多いようで,諸国国旗が見える.
↓ダウガヴァ川(Daugava River) | ↓リガ城近くの通り1 |
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↑リガ城近くの通り2 | ↑Art Hansaの店 |
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Art Hansaの店は,美術品を扱っているのであろうが,果たしてハンザ同盟とかその時代の古美術と関係するのであろうか,それともルフトハンザのように,代表的ドイツ的名称として使用しているのか?
1211年建造以降,18世紀後半まで増改築が繰り返され,ロマネスク,ゴシック,バロック様式,さらにアールヌーボー(独語でユーゲントシュティール)様式などが混在しているのだそうだ.バルト三国における聖堂としては最大級だそうで,現在はルーテル教会,つまりプロテスタントであるルター派の大聖堂であるそうだ.ルター派の大聖堂というのはあまり出合ったことがなかった.
以上のようにリガには色々な宗派の教会があるのだが,そもそも民族が多様なのだそうだ.ラトビアの人口およそ230万人のうち,ラトビア人60%,ロシア人28%,ベラルーシ人3.6%,ウクライナ人2.5%,ポーランド 2.4%,リトアニア人1.3%,ユダヤ人とロマ民族で0.4%などとなっているそうだ.これが国籍なのか,或いはラトビア人内の民族構成なのかは,自分にははっきりしない.このうちロシア人は正教徒であろうが,ラトビア人はどうなんだ?リガはプロテスタントが多いようであるが....
大聖堂前には石畳のドゥアマ広場(Doma laukums=Dome Square)が広がっている.そして広場周辺には思い思いのデザインが凝らされた建物が囲む.一階部分はレストランやカフェが多い.
大聖堂近くの通りにアールヌーボー(独語でユーゲントシュティール)様式の建物があった.草色車前,顔の付いた建物だ.この様式は花や植物,動物,また顔をモチーフにした柔らかい曲線や装飾が特徴だそうで,リガにはミハイルエイゼンシュタインという著名な建築家の建物がたくさん残されているそうだ.私たちも,『あれがそうです』と何度か案内されたが,写真はあまりなかった.
下は,リガ大聖堂とその周囲での写真
これが現在の市庁舎で,なかなか立派な建物だが,特段歴史ある建築と云うわけではなさそうだ.一階には各種ショップが入っている.そして入り口には古い木材と説明書きが置いてあった.それに依れば,この新タウンホール建設のため掘り起こしていたとき見つかった樫の木で,3500年前ダウガヴァ川(Daugava River)の畔に生えていたもので,エジプトではファラオが支配していた時代で,とても古いということのようだ.
市庁舎の南側には広場があった.広場中央には聖ローランド像が立ち,そしてその先に目立つ茶色の2棟はブラックヘッドの会館だそうだ.また写真中央は別の場所にあるのだが,高いため目立つ聖ペテロ教会の尖塔である.
剣を抱えた聖ローランドはリガの守護神だそうで,似たようなポーズの聖ローランド像はドブロヴニク(クロアチア)でも見かけたことがあったが,そちらでも同市の守護神ということだった.特にドイツでは有名な中世叙事詩の英雄で,ドイツ人が進出し,ギルドを形成した地方では祀られるようになったのであろう.
オリジナルは15世紀から建設が始まり,長い年月を費やして出来上がっていたものだったそうだ.それが第二次世界大戦ドイツ軍の空爆で一旦破壊されてしまったのだが,1999年リガ市建都800周年記念事業の一つとして再建されたのだそうだ.
ブラックヘッドは前ページでも触れたように,ギルドに加入できない未婚者などのカルテル組織で,名称は右側棟右の黒人像,メンバーか?に因むらしい.きらびやかな装飾がギルドへの対抗心の表れのようにも窺えるが,実際だどうだったのであろう.
やはり右側棟の上に大時計があるが,月,日,時間,月齢を刻む複雑なものだが,製作した技術屋さんは,二度と同じものが作れないように目を抉られた,とか.あまりにもひどい.同じような例はタージマハル設計者やドレスデンの磁器製造技術開発者など聞くが,本当であれば到底許し難い仕業だ.
市庁舎の東側にも広場があった.ここも市庁舎広場と称するのか,或いは違う名称なのか判らない.ここには仮設テントハウスのお土産屋さんが並んでいる.まあ,埋め尽くされた広場と言う方が正しいかも.そして,なぜがバカでかい石のオブジェがたくさん売られている.クレーンなしではとても動かせないほどのサイズだが,果たして売れるかな~?
下は,市庁舎広場での写真
市庁舎の前に寿司屋さん『Tokyo City』があった.『松』は上か,それともお店のロゴか?なかなかの人気らしい.価格表示はユーロ併記もあるが,昨年までの通貨Ls(ラッツ)で表示されている.今年1/1からユーロに切り替わったので既に4ヶ月経つが,別に急ぐこともなかろうと云う考えのようだ.
近くに牛の絵のレストランが見えた.ステーキハウスか?それではあまりに単純過ぎる連想かな.では他に何があろうか?乳製品をメーンにした料理,さて何だ,かな~?
1209年,リガ市街で火災があったが石造りの聖ペテロ教会は難を逃れたという記録が残るそうだ.つまりその頃は既に存在した訳で,後に幾度か改築され,ゴシック様式,ロマネスク様式,初期バロック様式が加わったそうである.また第二次大戦の爆撃でも大きく破壊されたが,修復され,1991年のソ連崩壊で信教の自由を復活した新生ラトビアから,大聖堂同様ルーテル教会として使われているという.
リガ旧市街一という高さ123mの尖塔デザイン,特に帽子状の上の複数細柱などは,上述のリガ大聖堂の尖塔構造と,とてもよく似ていると思う.きっと双方とも第二次大戦の爆撃で崩壊し,同じように修復されたのではなかろうか.
聖ペテロ教会全体はレンガ色に見える石造りであるが,正面入り口には幾体かの石像や装飾柱で飾られている.これらはギリシャ彫刻のように緻密で見事であるが,大まかにはバロック様式ということらしい.
本体の石が所々色が異なるのは修復の跡であろう.こうしてちゃんと見えるようにしたのも歴史を後世に伝えるためと思われる.
聖ペテロ教会の庭にあるブレーメンの音楽隊像だ.ブレーメンはリガと姉妹都市で,その縁で贈られたそうだ.人に捨てられた(または食べられることになった)ロバ,イヌ,ネコ,ニワトリが,一致協力し自分たちの新生活を切り拓いていくストーリーだそうだ.そんな前向きの連中の顔に触ると幸運が来る,ということで顔にタッチしている.今手を触れているのは白人女性だが,一番下のロバまでだ.その上のイヌはかなりの背丈でないと届かず,さらに上のネコは大変.現にあまりネコの顔は光っていない.
聖ペテロ教会の裏にはまた別の教会があった.聖ヨハネ教会(St. John's Church)というそうだ.ドイツ風の段々状前面壁が特徴的だ.1234年という早い時代に,ドミニコ修道会礼拝所として建設されたのが最初で,後に宗教改革で,福音ルーテル教会に転換されたそうである.途中幾度か修復や,改修が行われているのは他の教会と同様であろう.
16世紀の再建当時,生身の人間を壁に塗り込めば,その建物が災いから逃れられる,と云う言い伝えがあり,ここの二人の修道士が志願し壁に入ったそうだ.二人はやがて絶命し,開口部が完全に塞がれ,忘れ去られていた.そして時代が下り,19世紀半ばの補修の際,この話を記憶していた人が壁を開けると,実際二人の屍が見つかったという.
聖ペテロ教会の横に壁と門があった.とても短いがこれもリガ城壁の一部であったそうだ.17世紀の頃,ここを通る人には敷石にするため,石片2枚の持参という通行税があったそうで,そりゃ大変だった.
ここの門をくぐり,行くとまた市庁舎広場の辺りに戻る.リガ旧市街はかなりコンパクトだ.
ダウガヴァ川(Daugava River)に架かる橋を渡った先にこのモダンなデザインのラトビア国立図書館が見える.デザインに対しては賛否両論あるが,つい最近の今年初めに完成したということだ.
200万冊余の蔵書数でかなり大規模な図書館だそうだ.
私達のホテルは川向こう,図書館の先の退屈なロケーションに在った.まあいっぱい見物して回ったのでいいが.
これがマリティムパークホテルの部屋から眺めた風景.この辺りは基本的に住宅街だが,住民がそれだけ居る訳で,所々にキリスト教会が点在している.これまであちこち見せてもらった傾向からすると,多分プロテスタント教会が多いのではなかろうか.
一旦ホテルにチェックインした後,再びバスで橋を渡り,中央市場前を通り,都心新市街のレストランに出掛けた.目の前には変わったデザインの教会があったが名は知れず,またレストランの名前も失念してしまった.チキン料理だったと思う.クラシックなインテリアはなかなかで,ビールは美味しかったと思う.
こうしてリガ見物は無事終了した.明日朝はルンダーレ宮殿に向かう.
下は,リガあちこちでの写真
終わりの一枚は,翌4/14朝ホテルでの食事.ベリーヨーグルトは飲むタイプで,美味しい.