このルンダーレ宮殿編ではルンダーレ宮殿のあるバウスカへ移動するとき,そしてルンダーレ宮殿の写真を載せました.
ラトビアのルンダーレ宮殿はマーカー4辺りで,リトアニア国境間近だ.バウスカ郊外で,街の西12kmに位置している.
別窓で大きなGoogleマップを開く214/4/14朝,私たちはバスでリガのマリティムパークホテルを発ち,南に向かった.
リガを出るとお大まかには農村地帯となる.住宅はあまり密集することなく,比較的疎らでゆとりをもって建てられていると思う.畑の作物はようやく芽が出てきたか,若しくはまだその前の土色のままのところが多いようだ.
途中小さな町を2,3通過した.リガの大教会に比べるべくもなく小規模なのだが,それでもやはり教会の建物は一定の存在感を漂わせ,目に入る.この教会の場合,比較的新しいようで,ソ連支配から独立した後で建設されたのであろうか.
ネステオイルのGS,オクタン価95のガソリンは1.337ユーロのようである.かなり高めだ.エストニアと違ってオイルシェールは産出せず,多分原油若しくは石油製品は全量輸入なのではなかろうか.それと0.007とセント以下までの値付けで,なかなか細かい.お国柄か?
やがて生憎の空模様の野原の中に明るく浮かび上がる大きな建物が見えてきた.これがルンダーレ宮殿だそうだ.確かに大きいが,宮殿の先入観からすると,少なくとも外観は非常に華美な印象ではない.それと周囲に目立ったお堀や塀がないようで,えっ,大丈夫?とも思った.でも例えばウイーンのシェーンブルン宮殿なども,一層大きいが外側はこんなものかも知れない.
下は,バウスカへ行くときの写真
ルンダーレ宮殿は1740年,クールラント大公ビロン公(Ernst Johann von Biron)が,ロシア女帝アンナ(Anna Ioannovna:在位1730~1740年)のために夏の離宮として建造したそうだ.アンナは,1711年以来クールラント公国主権者で,後にロマノフ朝第4代のロシア皇帝(女帝)となり,ビロン公はアンナの愛人,男妾という立場であったそうだ.ビロン公は極めてご機嫌取りに長け,世渡りが上手だったが,金に汚く,執念深い性格だったそうだ.そしてやがて,死の床にあったアンナ女帝から,ロシア国家の摂政にまで任じられる.しかしそれは僅か3週間で政敵に襲われ,失脚.全財産没収され,長年シベリアに追放となったそうだ.
ではクールラント公国(Duchy of Courland)とは何であろう?16世紀~18世紀,現在のラトビアの,ここバウスカを含み南西エリアにあった小規模なバルト,ドイツ人国家だそうだ.リヴォニア戦争の最中,1562年バルト海沿岸諸都市の集合体であるリヴォニア連盟が解体され,リヴォニア騎士団(ドイツ人騎士団)は解散した.そしてエストニア南部とラトビア北部はリトアニア大公国に加盟し,リヴォニア公国を形成した.一方ラトビア南部バルト海側のこの辺りはクールラント公国になったそうだ.当初ポーランドリトアニア共和国の領土であったが,後のポーランド分割でロシア領になったようだ.
私たちはルンダーレ宮殿の正門にやってきた.開館時間9:00AMと掲げられ,殆どそれと同時であった.コの字状,2階建てのこのルンダーレ宮殿は2階建てのバロック-ロココ様式で,ロシアの宮殿を多く手がけた建築家ラストゥレリにより設計され,138の部屋から成るそうだ.ただ宮殿は修復継続中で,2階で修復を終えた部屋が公開され,靴の上からビニールカバーを履いて,ここの専任ガイドの方が案内して下さった.入場料とは別途撮影代を支払うが,何れも苦しい財政状況の下,修復資金の足しにするそうだ.
黄金の広間は左側(東側)の棟の2階にある広い豪華な部屋.戴冠式など公式行事が開催される場所だそうだ.
宮殿全体の設計はイタリア人建築家で,若くしてロシア帝国に移り,多くの作品を手掛けたバルトロメオラストレッリ(Bartolomeo Rastrelli)だそうだ.バロック後期の建築様式を発展させ,ロシアバロックを完成させたという.この部屋のきらびやかな装飾はそのバロック様式なのであろう.先ずは,文字通りかなり金ピカという印象だ.天使など描かれた天井はフレスコ画であろうが,意味合いを理解していれば,もっと味わい深いであろう.....上向きで,こんな大きな絵を漆喰が乾く前に描き上げるのは大変そうだ.
黄金の間の後ろの角に付属した部屋で,幾つもの白い棚に磁器が載せられている.当時磁器は大変貴重であったそうだが,日本製と思しき器が幾つも展示されていた.
大まかにはロココ様式と呼ばれ,主に舞踏会の会場として使われたそうだ.踊った後に一休みするための婦人専用という次の間も用意されていた.殿方には要らないであろうが,やはりご婦人には必須で,建築の基本はちゃんと守られていたのだ.壁や天井のレリーフは一見大理石のようであるが,この辺りでは大理石が産出せず,石灰岩を加工した材料(粉状だったか?であれば漆喰)を用いているそうだ.細かいところまで綺麗に表現されていると思う.こうして白一色で装飾されたのも,ここに参列されたご婦人方やその装いを損なうことなく,美しく引き立てるためだったという.解ります.
天井の一部に飾られた代用大理石彫刻の一つ,コウノトリであるが,この巣は本物の小枝を白くして用いているそうだ.大理石が使えない不利を,逆手で利にしたようだ.ところでこの辺では高いところでコウノトリの巣をしばしば見かける.アフリカ大陸まで往復するようだ.
書斎の一つだったように思うが不確かだ.たくさんの油絵が掲げられ,全体の色調が柔らかだ.角の磁器タイル製大型暖炉はどの部屋にも備えられている.磁器タイルの色はこの青一色で,絵柄はヨーロッパの光景だ.
暖炉の燃料投入口は部屋の背後に専用室が設けられた構造で,使用人が専ら背後で仕事をしていた訳だ.煙が部屋に漏れることもなかった筈だ.
これがよく判らないのだが,公の寝室という.つまり実際眠りに就く部屋は別だったようだ.エライ人はエライ人なりに気軽にごろんとは行かなかったようだ.大変ですね.
落ち着いたグリーンの壁が寝室らしいとは思う.
肖像画はあちこちに見える.子孫や親類縁者の顔も多いようだ.全て油絵のようだ.バッハのようなヘアスタイルのビロン公はやはり被りものでしょうね?
↑ロマノフ朝第4代のロシア皇帝アンナ帝 | ↑クールラント大公ビロン公 |
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ところで本ルンダーレ宮殿はビロン公爵の夏の宮殿ということだが,普段の宮殿はどこに在るのでしょう?アンナ帝の宮殿はさらに北で,ここが夏を過ごすに特段涼しいところにも思えないのだが.....?
下は,ルンダーレ宮殿での写真
終わりの一枚,木の椅子は可搬式トイレだそうだ.こんな広々した場所では落ち着けないような.....
裏は庭園になっている.写真は宮殿の2階から眺めた様子.ヨーローッパの典型的庭に倣って左右対称のようだ.バロック様式デザインとか....
糸杉であろうか,あたかもグリーンで着色された板がジグソーで切り取られたピース,それが茶色の台紙に置かれたように様子がヨーローッパ風味だ.まあこれはこれでいいだろう.
私たちは一番で乗り込んだのだが,引き上げるとき新しいお客さんが入ってきてすれ違った.地元の高校生であろうか?そうであれば修学旅行であろう.私たちと違って,きっと自らの近々の歴史として捉えることが多々あろうかと思われる.
背後の赤と白の建物は,入口手前にあって,往時厩と馬方の住まいに充てられていたものだそうだ.馬小屋にしてはかなり凝った外観だ.
下は,ルンダーレ宮殿での写真
ルンダーレ宮殿の外の庭ではちょっと珍しい花が咲いていた.
これでラトビアの観光は終わった.次はリトアニアに入る.