このタリン(続)編では,前編に引き続きエストニア首都タリンの太っちょマルガリータ(建物),聖オレフ教会,精霊教会,旧市庁舎,ラエコヤ広場と周辺,聖ニコラス教会,エストニア野外博物館,エストニアを出るときの写真を載せました.
エストニアの首都タリンはバルト海に面した北の外れ,マーカー2に位置している.ストックホルムやオスロとは大体同緯度で,ヘルシンキとはバルト海フィンランド湾を挟んで目と鼻の先くらいだが高速船で1.5時間で行けるそうだ.
別窓で大きなGoogleマップを開く『ふとっちょマルガリータ』とはこれまたハラスメント....ではとも疑われる呼称だ.実は,タリン城壁最北端に位置するこの塔に,かつて据え付けられた大砲のニックネームで,それが建物の名に転用されたのだという.でも大砲でも変なような....日本で製造工場のロボットに名を付けるようなものか?でも上に載せた写真のように他の塔はこのずんぐりした塔に較べて相対的にもっと細身で,丈が高い. 塔のことではないかと勘ぐりたくなるような....
で,別説もあるそうだ.この砲塔は一時監獄として使用された時代があり,食事を切り盛りしてくれた太めのおかみさんの名がマルガリータ.囚人が敬愛(?)を込め『ふとっちょマルガリータ』と呼んでいたのが,いつしか建物名に引き継がれた....とか.
それにしても大きな体に小さな窓(銃眼)で,いかにも攻略するのは大変そうに見える.
太い塔の脇には城門が設けられている.往時ここは城の最も外側,つまり三の丸の門に相当する外門だったそうだ.門は多重にして簡単には内部に入り込めないようにした訳で,まあ定石であろう.
太っちょマルガリータの一部,城門脇の棟は現在海事博物館(Estonian Maritime Museum)になっているそうだ.ここにふとっちょマルガリータ大砲が展示されているのであればぜひ見てみたいものだが,悲しいことに私たちのツアーでは虚しく脇を通り過ぎるだけだった.見た方にはその口径や砲弾の内容を訊いてみたいものだ.
海事博物館の壁に架かるこの帆船のオブジェ(上写真中程参照),実に力強く,美しい.仔細に眺めると中にランプが収めてある,つまりランプシェードなのだが,気に入った.
太っちょマルガリータの脇に28.09.1994と記された石碑があった.タリンで大きな地震があり,甚大な被害があったそうだ.ヨーロッパはあまり地震がないものと思っていたが,この辺りでは発生するようだ.碑の周りは現在公園になっている.
太っちょマルガリータ近く,城壁外側には路面電車(トラム)が走っていた.城壁内部,つまり旧市街はどこも狭く,世界遺産でもあるし,とてもトラムの走る余地はなさそうだ.ちょっと写真が小さいが,パンタグラフがバー式でなく4節リンクのように本格(?)タイプなのがトラムにしては珍しい.
1267年,ノルウェーの聖人となった聖オレフ(Saint Olaf)を祀り建立されたそうだ.西方教会連合の一つとして,ローマカトリックの教義にも基づいていたようだ.ただ途中の宗教改革などがあり,1950年にはバプテスト教会(プロテスタント教会の一つ)に転換し,今日に至っているようだ.
創建より後の1500年代半ばに改築された尖塔は159mと高く,80年間ほどは世界一の高さであったそうだ.当時バルト海(フィンランド湾)を航行する船舶の道標としても機能したようだ.その後落雷で焼け落ち,17世紀に124mの高さで再建されるが,それでも現在タリン旧市街で一番高いそうだ.ソ連支配下ではKGBが無線塔として活用したそうだが,現在はカバレッジが稼げるので携帯アンテナが設置されているかも知れない.
ところで聖オレフ(Saint Olaf)とは,オーラヴ2世というノルウェー王(在位1015~1028年)で,当時デンマーク,ノルウェー,イングランド入り乱れた戦いの続く時代,最後にスティクレスタズの戦いで戦死,後に列聖されたそうである.エストニアには前述の1219年デンマーク王バルデマー2世による十字軍侵攻があるが,さらにそれ以前ノルウェー軍が攻め入った時代もあったそうで,聖オレフ教会が建設されたのはその名残りでしょうか?
聖オレフ教会はライ通りとピック通りに挟まれたところに建つのだが,ピック通りに面した壁には『キリスト受難』のレリーフが嵌め込まれていた.受難だけに重いシーンであるが,教会内部に入らずとも道行く度に目にすることができる.
なおこの高い塔建設はオレフという巨人があたったと云う伝説もあるそうだ.オレフは市民には名の知れぬ謎の人物,ただ腕の立つ大工の棟梁,若しくはゼネコンの社長で,『難工事ゆえ高額で塔建設を請け負うが,仮に私に名が判ったら1ペニーにする』と契約.工事が始まると市民は棟梁の名を必死で探り,ついに彼の妻の歌う子守唄から,『オレフ』の本名を知る.工事終期,十字架を塔頂部に取付中に,市民が『オレフ,十字架が傾いでいるぞ!』と声をかけると,驚いたオレフが落ちて,石になってしまったそうな.お代はたった1ペニー,事故死したオレフはあまりに気の毒だ.さすが市民も哀れんで,以降教会に彼の名を冠することにしたそうである.
そう言えば日本でも1円入札があって,『損して得取れ』の言葉を思い出した.この場合,教会に冠したオレフ名の誉を得たであろうが....
聖オレフ教会周辺のライ通りやピック通りの辺りの光景だ.落ち着いた通りで心安らぐ.中世のままなので車には適していないし,住民だけとかに制限されているのかも知れない.
右の一枚,大きな車輪のベビーカーで,殆ど石畳だらけのタリンにはピッタリだ.最近日本でも真似て大きな車輪タイプが目立つが,多分に実用性よりミエでは....
14世紀建立という純白八角形の塔を持つゴシック様式の教会.段々形状の薄いファサードはドイツ風で,ピック通り横の1684年製という大きな時計も特徴的だ.当時の市庁舎(この後訪れる)と聖霊教団救貧院の礼拝堂として建てられ,当時他の教会が主にギルド会員や貿易商など比較的豊かな人たちを信徒としていたのとは対照的であったそうだ.また他教会と違って,ここでは庶民が理解できるエストニア語で説教が行われたそうである.他ではラテン語か?また私たちは入らなかったのだが,礼拝堂には,字が読めなくても内容が分かるようにと,『貧者の聖書』と呼ばれる57枚の絵が掲げられているそうだ.
当初カトリックの教会として建てられたのであろうが,途中宗教改革があり,現在はプロテスタントのルター派教会(ルーテル教会)になっているそうだ.なおそれまでは出版物はドイツ語など他言語のもののみであったが,宗教改革の頃から聖書や他書籍がエストニア語で出版されるようになっていったということだ.エストニア人にとって心の故郷的教会なのではないでしょうか.
精霊教会は庶民の教会らしく,庭もなく通りに面し建てられている.通りは坂もあり,曲がり,細く中世的味わいたっぷりだ.
周辺にはレストランやカフェ,小さなおみやげ屋さんなどが多い.
これが昔のタリン市庁舎.尖塔があり,市庁舎よりキリスト教会の趣きだ.ここには初め1372年に市庁舎が建設され,1404年の改築で現ゴシック建築様式の本体になったそうである.北欧圏では最も古いゴシック建築となるそうで,主に石灰岩で組まれているそうだ.
尖塔は1781年に付加され,65mの高さがあるという.先端には旗を掲げた『風見トーマスおじいさん』(Vana Toomas)が載っているのだが....写真が小さくて見えない.
旧市庁舎の外壁には光背を持つキリスト(或いは聖人)と尼僧(或いは天使)のイコンが掲げられていた.市の行政がキリスト教と密接に連携している(いた)のであろうか?
尖塔と併せてなかなか風格ある建築で,私にはやはりキリスト教会に見える.
旧市庁舎とは広場を挟んで対面にあるのがタリン市議会薬局の建物.ヨーロッパ最古の薬局で,写真右端にある1422年からここで営業を続けられているそうだ.中世には治療薬として焼き蜂や,ユニコーン(架空の動物ではなかったか?)の角の粉末などが売られていたが,さすが21世紀の現在は,タケダとか三共(多分)の薬になっているようだ.いずれにしても『市議会』と付くのがすごい.行政府ならまだしも,立法府が薬販売を行うのが不思議だ.....いずれ民営化されるであろうが....当時酒も販売されていたので,市議会が閉会後,議員連中がここで一杯やっていたため,その名になったと云う説もあるようだ.汚職の温床にもなりかねないだろうが....
ところで以前ドブロヴニク(クロアチア)で訪れたマラブラーチャ薬局で,1317年創業以来同じ場所で営業中,ヨーロッパで2番めに古い,と言っていたような....でも1422年より1317年はさらに古い....まあ他所様のことだし目くじらを立てることもなかろうが....
旧市庁舎の前にはラエコヤ広場(Raekoja Square)があった.ここは1219年のデンマーク王バルデマー2世による十字軍侵攻以前から,ノルウェーなどスカンジナビア商人が入り,市を開いていた場所だそうだ.市場の機能は20世紀直前まで続き,ここを中心として街が広がり発展してきたという.また広場の特性としてお祭や結婚式が執り行われ,現在もクリスマスマーケットや野外コンサートが開催されるそうだ.私たちが訪れたのは4/12とイースターまで近かったが,特段イースターマーケットのような様子は見られなかった.
ラエコヤ広場周囲はオープンカフェやレストランでいっぱいだ.ヨーロッパの人たちは戸外での食事が大好きだ.座っていると結構寒いので,お店が貸し出してくれるブランケットを着て食事を楽しんでいる.根性ありますね~
私たちはそんな根性はないので,普通のレストラン,maikrahv restoranでステーキの昼食を頂いた.普通に美味しかった.
辞書を見るとoldeはoldの古語だそうで,中世の香りを漂わせる店名Olde Hansaにしているようだ.レストランやおやつの露店,中世ショップ(何だろう?)で,それぞれ関連会社なのか,支店なのか,フランチャイズ店なのか....露店も含めて同じロゴ,中世風赤い装束なので皆関連しているようではある.
ハンザ同盟の威力が細やかながらも今に活かされているのには感銘する.
横丁はかなり狭い.多分馬車も通れなかったのではなかろうか.でもちゃんと石で舗装されているし,混み合ってないのでそぞろ歩きに良い.
看板娘人形を立てかけたのはハンドクラフト携帯電話と記されているが,ストラップとかであろうか?この辺りのショップは総じて中世風の小さなお店が殆どのようだ.世界遺産の街であるので今後もこの雰囲気が続いていくであろう.
ラエコヤ広場近くで目出し帽の怪しい一団が客引きをやっていた.手にした看板を見ると『中世拷問器具博物館(museum of medieval torture instruments)』と記されている.こうして3人も呼び込み業務に就いているのだから入場料は高そうだが,たとえ無料でもあまり見たいとは思わないな~すみません.
下は,ラエコヤ広場とその周辺での写真
聖ニコラス(St. Nicholas)とはキリスト教が公認された4世紀の修道士で,船乗りの守護聖人とされるそうだ.バルト海交易で潤った現在のスウェーデン領居住ドイツ商人がここタリンに移り住んで,1230年に建立したそうだ.
元々はゴシック様式であるが,17世紀に改築された箇所はバロック様式になっているという.ナチスドイツ占領下の二次大戦末期,連合軍の爆撃で大破したが,戦後残骸を集めて再建されたそうだ.こうした再建はドレスデンの聖母教会などでも見せてもらったが,新築以上に大変な工事であったと思う.
ただ現在は教会としては使われず,博物館やコンサートホールとして活用されているということだ.
周囲は落ち着いた街並みが続いている.
----- 聖ニコラス教会からの帰り道 -----
聖ニコラス教会からの帰り道,トームペアの丘方面を通ってホテルに戻った.丘のアレクサンドルネフスキー聖堂近くには写真の2つの尖塔を持つ教会があった.十字架の形から正教会ではないが何という教会かは判らない.タリンは教会の多い街だ.
タリンから数km先郊外のストニア野外博物館にバスで出掛けた.日本で言えば明治村(の一部分)とか川崎市の日本民家園のように,エストニア各地の伝統的建物が移設保存されている.ここら一帯の森林では松など各種茂り素晴らしい.
タリンに近いエストニア北部の農家の典型的家屋だそうだ.随分大きく,特に藁葺き屋根は巨大だ.ただ厳寒の地故に窓は小さく,最小限の数に留められている.中は暗いであろう.日本留学の経験がある通訳Iさんによれば,『日本の伝統的家屋とそっくりです』ということだ.確かにそっくり,特に屋根の素材や工法は同じように見える.ただし,本体壁は丸太小屋壁と同じで,無垢の丸太を積み上げた贅沢な構造で,柱に土壁の伝統的日本家屋とは大きく異る.木材が豊富な土地柄ならではの構造,工法であろう.
こちらもエストニア北部の建物.教会近くの居酒屋さんの建物だったそうだ.上の農家より一層大きく,深い庇の軒下がある.昔,日曜日教会に礼拝に訪れた後,男どもはこうした居酒屋に立ち寄り一杯楽しむのが一般的な嗜みだったそうだ.天気が良ければ写真のような屋外テーブルや庇のある軒下もオープンカフェとして使われたようだ.
礼拝は午前中が多かったであろうから,きっと昼間から飲んでいた筈で,まあ結構なことだ.これが仮にイスラム社会であれば想像もできない....やはりキリスト世界はリラックスできる社会だ.
ブレードが骨だけで廻りようがないが,昔はちゃんと動き,穀物の製粉をしていたという風車.殆ど木製で,風向きに合わせ,風車はシャフトを支える小屋丸ごと鉛直軸周りに回転できる構造になっている.回すのは小屋に付いている棒を押すのだが,数人掛かりでようやく回転できるかな~という印象だ.オランダとかの風車に比べるとかなり小型であるのだそうだが.
ソ連支配時代の地主クラスの家だったそうで,ピアノや暖房装置など設備されている.写真は移設展示された現在の建物の管理人さん.
ソ連支配時代,所有した農地はソホーズとかコルホーズに供するため没収されるはめになったのだが,これに反対した地主で,この家の家主の方はひっ捕らえられ,シベリア抑留となり,そこで果てた,ということだ.さぞかし無念であったであろう.
エストニアは,デンマーク以前にスカンジナビア半島のノルウェー人バイキングなどに攻め入れられていたのは前述の通りだ.この民族は移り住んだこのエストニアの地で,元のノルウェー建築様式で住宅を建設したそうで,この写真がそうした一例だそうだ.丸太組みの本体構造は上の農家と同じようであるが,屋根は板張りであるところが大きく違う.また床下を砂で充満してあるのも特徴だ.これは浜風で熱が奪われるのを止め,断熱効果を高めるのだという.
他にもいろいろあった.何れも木材がふんだんに使われているのが目立つ.サウナはいかにも北国の文化だ.
なお上は教室であるが,職員室も保存されていた.現代のエストニアでは教師は殆ど女性で,男性は10%程度という.それは長い夏休みの期間は勤務がないため無給となる制度のためで,さすがそれでは家族を養うことができないということだそうだ.確かにそれでは大変ですね~
下は,エストニア野外博物館辺りでの写真
下段左端は養蜂の巣箱.随分大きい(特に高さが).その横の黄色く咲き始めた花など吸い始めたのであろう.
エストニア野外博物館からちょっとスーパーに立ち寄った.旧市街ではとうてい無理なので,新市街縁の方に広い駐車場を確保し,他店と共にモールを形成している.
国産車はないので皆輸入で,独仏車が多いようだが,欧州他国に比べて日本車も意外なほど多いように感じられた.
この日の観光を終え,ホテルに戻ると前日フランクフルトで乗り損ねた二人のツアーメイトと添乗Sさんが出迎えて下さっていた.お二人はこの日のタリン見物を完全に逃してしまって残念だが,明日からの分で取り戻していただきたい.
タリンのホテルで二泊目を明かした2014/4/13朝,私たちはバスで次の観光地ラトビアに向けて出発した.タリンはさほど大きな街ではないので程なく郊外の住宅地に入った.道や宅地には樹木がとても豊かだ.
都心を離れれば写真のように結構土地がありそうだが,住宅はやはり高価で,通訳Iさんの話では集合住宅の場合1500ユーロ/m2,戸建住宅では5000ユーロ/m2,100m2のマンションで2000万円強くらいになろう,一方サラリーは個人差が大きいが960ユーロ(13万円)くらいが平均で,購入はなかなか大変だそうだ.
暫く走りお手洗いのあるショッピングモールで休憩した.私たちのお手洗いもさることながら,法的にドライバの休憩時間確保も厳しく管理されているそうだ.所定時間ごとに10分と40分(いや15分と45分だったか?)の休憩が必要で,タコメーターの記録が調べられるようだ.
Hypermarket Rimiと記されたスーパーはこの国では最大手でイオンとかイトーヨーカドーのようなものだそうだ.扱う商品も食品から車用品など幅広いようである.
林の中にポツリと農家が点在している.広大な畑や牧草地はあまり見当たらず,林,主に雑木林の脇に畑がある,といった印象だ.緯度が高く寒いからであろう,まだ緑はあまり茂っておらず,これからであろう.
酪農は盛んだとの説明を聞いたのだが,野原に家畜の姿をあまり見ない.寒いのでまだ畜舎の中だという.写真のロール状に巻いた干し草,発酵させているのかも知れない,を餌に育てているようだ.
なお家畜の種類では豚が相当多いそうで,戸外がひっそりしている理由の一つかもしれない.
少し出てきた草の上を,サギであろうか,いや鶴か?長い嘴の野鳥が餌を探している.草が出る頃は虫も這い出てくるのであろう.
間もなくエストニア/ラトビア国境に至る辺りでガソリンスタンドがあった.オクタン価95のガソリンは12.95ユーロ/l,ディーゼル燃料が12.75ユーロ/lで,この頃1ユーロ=141円くらいなのでどちらも結構高めだ.
実はエストニアはオイルシェール(油頁岩)を産出し,そこから石油を採取し利用しているそうだ.オイルシェールはシェールガスと似ているが石油成分が多いもののようだ.ただオイルシェールから石油成分を抽出するには相当コストがかかり,そのためそれから精製するガソリンや軽油も高くなってしまうそうだ.
さてこうしているうちにラトビア国境に達した.ここもまた楽しみだ.