このカウナス編では,2014/4/15カウナスへ行くときの風景,聖ミカエル教会,4/16カウナス城,聖ゲオルギ教会,カウナス旧市庁舎,カウナス大聖堂,杉原千畝記念館,その他訪れた場所の写真を載せました.
リトアニアのほぼ中央,カウナスはマーカー8の位置で,ネムナス川とニャリス川の合流点にある.同国第二の都市で,人口35万人くらいだそうだ.
2つの大戦間の22年間,首都ヴィリニュスがポーランドに占領された時代リトアニアの首都となったこともあるそうだ.ヴィリニュスは他国人比率がかなり高いが,ここカウナスは現在9割余リトアニア人で,リトアニア文化継承者を自負しているそうだ.かつて19世紀には僅か6.6%がリトアニア人という時代もあったそうだが.
別窓で大きなGoogleマップを開く私たちのバスはトラカイを発ち,カウナスへと向かった.およそ95kmあるという.途中は殆ど農業地帯のようで,平らか緩やかな丘陵の畑が続いている.
時折小規模ながら発電のためのソーラーパネルが設置されている.このパネルでは近くの小さな村の電力が賄える程度であろうか.緯度が高いのでパネルは結構傾斜して設置されている.急傾斜は積雪時の自然落下にも効果があろう.
ところでエネルギー関連トピックとして,リトアニアでは以前内陸のヴィサギナスで150万kW原子力発電所が運用されていたそうだ.ただこれが1986年事故を起こしたチェルノブイリ原発と同型だそうで,EU加盟条件としてその停止が求められたそうだ.そして加盟にあたり実際停止したそうである.しかしそれでは電力供給が十分に賄えず現在既に不足がち,将来の経済成長にはさらに不安.ということで,日立製作所が新たに改良沸騰水型軽水炉建設することで仮契約調印されているそうだ.ただ最近の国民投票では原発建設反対が多数派となり,どうなるかまだはっきりしない状況にあるらしい.
バスは順調に走り,早い時間にカウナスのパークインに到着した.看板を見るとこのホテルにはカジノが併設されているようだ.
チェックインし,部屋に荷物を上げた.まあ普通の部屋だ.
下は,トラカイからカウナスへ行くときの写真
パークインカウナスの面したドネライチオ通り.この辺り全体は新市街で,オフィスも多いようだ.トロリーバスが運行しており,夕方職場から帰宅する人たちが利用していた.
ドネライチオ通りの北側は丘になっており,塔が見える.きっと教会であろう.この丘に上る超ミニケーブルカーがあり,多分距離も極めて短いと思われる.誰が設置したのか,面白いですね~
上記ドネライチオ通りの一本南を走るカウナス一番の目抜き通り.並木の美しい中央分離帯が素敵だ.そして東の外れはどん詰まりで,そこに聖ミカエル教会が写真のようにデンと立っている.通りにはレストランやカフェ,ブティック,銀行などが軒を連ねている.中央分離帯の傍には2本の白線で識別できる自転車専用レーンも設けてある.ここは自転車が疾走してくるので,立ち入ると危険ですよ~と幾度となく添乗Sさんに注意を受けた.その通りだと思う.
これがライスヴェス通りの端に通せんぼするが如く立っている聖ミカエル教会(St. Michael the Archangel Church).カウナスがロシア帝国支配下であった1891~1895年にかけて,正教のカウナス要塞として新ビザンチン様式で作られたそうだ.ということで,教会としては新しい方ではなかろうか.
第一次大戦でカウナス砦が陥落後,鐘はドイツに運ばれ,教会は1919年まで閉鎖された.そして二次大戦中はカウナス砦のローマカトリック教会となり,またその後ソ連占領下では,キリスト教が奪われ,アートギャラリーとして使われた.独立回復後は再びローマカトリック教会として復活したという.
下は,聖ミカエル教会とその近辺での写真
散歩から戻り,ホテルレストランで夕食となった.はて何という魚だろう,白身魚のムニエルだった.ここカウナスはちょうどリトアニアの真ん中くらいに位置しているが,魚はやはりバルト海から来るのであろう.
料理はまあそれなりであろうが,ビールは普通に美味しい.私の場合,ビールに関しては殆ど美味しいのであるが.
2014/4/16朝,ホテルで朝食後,西の旧市街に出掛け,先ずは赤いレンガ色のカウナス城,ただし写真の城壁の一部にあった塔であるが,を見る.石造りの基部にレンガを積み上げた構造か.テーパーの付いたレンガを用いるのであろうが綺麗に円錐形屋根が組まれているものだ.
塔に連なる城壁は屋根が付いた珍しい構造だ.防御の兵が積雪時でも十分に動けるようにするためか....?
カウナス城は,13世紀のドイツ騎士団侵攻を防御するために建設されたそうだ.実際幾度となく騎士団の攻撃を受けたそうだ.15世紀初頭,トラカイのページで述べた,トラカイ城を完成させたあのヴィタウタス大公(Vytautas:在位1401~1430年)の時代に,こちらカウナス城は砦の役割を終えたそうだ.そしてまた,後の17~18世紀の戦禍で大半は破壊してしまい,残ったのが写真のこの塔と城壁の一部ということだ.尤もこのようにほぼ無傷で残っていたわけではなく,最近大幅に修復の手を加えて,こうして綺麗に蘇ったということだ.
カウナス城の前では道路工事中だった.4つのキャタピラに大きなベルトコンベアを備えた機械が動いていた.同行のAさんによれば,ドイツ製の機械で,舗装材を掘り起こし,機内コンテナにそれを保管.また補修後の道路に,保管した舗装材を戻して敷き詰める機能があるそうだ.迫力がある.
カウナス城近くの駐車場脇4階建てビルの壁面に大きな壁画が描かれていた.赤いパジャマの男性が大きなパイプを吸っている.パイプには星座のようなものが描かれている.面白い.描いたのは二人のリトアニア人アーチストで,スプレーペイントを用いたようだ.そう言えばリトアニアの街には落書きが多いが,その延長,いや発展形であろうか.
上のカウナス城のごく近くにあり,1468年に建設が始まり,1503年完成というゴシック様式の教会. シトー会の修道院(Bernardine Monastery)も併設されていたようだ.レンガ造りのようで,比較的シンプル,濃いレンガ色と相まって力強い外観だ.
1656~1659年の戦争中,モスクワ軍のために3度も火災に遭い,また暫くしてナポレオンはここを倉庫にしてしまったそうだ.ソ連占領時代も薬品庫とされていたという.
そしてリトアニアが主権を回復した後の1993年,大変傷んだ状態ではあったが,修道院が戻ったそうだ.さらに完全な教会機能を果たし,また折々のコンサートが開けるように,ルネッサンスとバロック様式を併せ持つ素晴らしい内部の改修工事は今も継続中であるそうだ.
旧市庁舎手前の緑地には十字架が立てられている.十字架ではあるが一種のアートとして,作者が好きにデザインするそうだ.こうしていろいろデザインした十字架を立てるのはリトアニア独自の伝統なのだそうだ.確かに普通,十字架はカトリック,正教....毎に違いがあるが,それぞれ定まった形があると思う.
塔を持つ白い建物がカウナス旧市庁舎(Kaunas town hall).私には教会のように見える.16世紀半ばに建設され,1775年,『白鳥』にも例えられると云う現在のバロック様式の優美な姿に再建されたそうだ.ロシア支配下時代は政治犯の刑務所,後に皇帝の別宅....等々変遷し,現在は結婚式場や婚姻届の提出場所となっているそうだ.
市役所の前は広場となっており,タリンでも旧市役所前に広場があったのと似ている.
旧市庁舎の左手に見えるのは,17世紀建立で,修道院併設のイエズス教会(St. Francis Church & Jesuit Monastery).他の教会同様,ソ連占領下では他用途に転用され,独立回復後教会に復活したそうだ.
ぱっと見,イエズス教会が市役所,旧市庁舎が教会に間違えそうな雰囲気もある.
旧市庁舎はカウナス旧市外の中程に位置しており,周囲の通りは石畳で,そこに建つ建物は皆クラシカルな雰囲気だ.
下は,カウナス旧市庁舎と周辺の写真
カウナス大聖堂(Kaunas Cathedral)は正式には聖ペテロ&パウロ大聖堂(St Peter and St Paul's Cathedral)と呼ばれ,聖ペテロと聖パウロに捧げたカトリック教会だ.つい前日首都ヴィリニュスで見せてもらった聖ペテロ&パウロ教会も同じ名を冠してあった.
赤いレンガ造りの外側は直線主体の比較的さっぱりした形態だが,ゴシック様式だそうで,1671年頃建てられたそうだ.そして1655年の戦禍で被害を蒙り,1671年にいくらかルネッサンス様式を付加して再建したそうだ.
さっぱりした外側に対し,内部は多くの彫刻やフレスコ画で埋められ,とても見応えがある.ヴィリニュスの聖ペテロ&パウロ教会が白一色のイメージ(実際は天井のフレスコなどカラーあり)だったが,こちらは壁や柱が淡いピンクやパープル等で彩色され,所々に金箔が貼られ,華やかだ.こうした色使いで,ケバケバ感なくして落ち着いた美しさを演出していると思う.
改装の一環として,1771年にポーランドリトアニア共和国最後の国王スタニスワフアウグストポニャトフスキ(Stanislaw August Poniatowski:在位1732~1798年)が内部装飾の基礎を作ったそうである.1775年には聖書台や聖歌隊席が設けられ,現在の形態になったのは1800年からのさらなる改築の結果だそうだ.
この教会が大聖堂の地位を得たのは1895年からで,著名リトアニア人の廟が幾つか備えられているそうだ.
下は,カウナス大聖堂での写真
カウナスの街外れ住宅街に,第二次大戦中,ここに置かれた日本領事館であった建物がある.現在,当時カウナスで領事代理として勤務し,大勢のユダヤ人の命を救った杉原千畝(すぎはらちうね)氏の記念館となっており,氏に関する諸資料が展示されている.
杉原千畝記念館はこの建物の一階部分が充てられ,二階は地元大学の日本学センターとして使用されているようだ.建物の前には,かつてこの地に一緒に滞在された幸子夫人が,お亡くなりになる少し前に寄贈されたという桜が咲いていた.
私たちは入館し,最初に福井テレビ局制作のドキュメンタリーを見せて貰った.福井県敦賀港は発給されたビザの経由地であり,6000人ほどのユダヤ人難民を受け入れた所縁の地であった.歳取った元難民が当時を振り返り,杉原氏や敦賀市民に感謝の言葉を述べるシーンは実に重みがあり,改めて氏の人道的振舞いに感動させられた.
この執務室で必死にビザを手で書き続けたそうだ.部屋の右手の窓からは,ナチスの追手を何とかかわしながら命がけで並ぶユダヤ人難民が長い列を成しているのが見えて,日本政府の指図に背きながらも,何とか彼らの命を救いたいと思いやる気持ちからだった.それとカウナス日本領事館も畳むよう迫られており,そちらの時間もまた無かったので,本国外務省とやり取りする余裕もなかったそうだ.
1940年,ナチスドイツはポーランドに侵攻,そしてそこに住む多数のユダヤ人はリトアニア(独ソ不可侵条約で,ここはソ連占領下だった)に逃れた.しかしナチスは欧州全域を執拗に追い,ユダヤ人が死を逃れるには,もはやシベリア鉄道でウラジオストックに行き(これはソ連が認めたそうだ),船で敦賀(や神戸)に渡り,そして最終地アメリカやオーストラリア,香港,上海等に逃れるしか道がなかった.
当時日本政府はナチスドイツとは同盟を結んでいた.ナチスの対ユダヤ人(及び反体制者,障害者など)政策,つまり迫害であるが,を妨げる訳にいかず,日本政府はビザ発給条件を極めて厳しく設定,実質的に発給不可能としたそうである.しかし追い詰められたユダヤ人を目の当たりにし,杉原氏はあくまで人道的見地からそれに背いたのだ.
机には当時の様子を模して,三人のお子さんの写真と,自身の写真が立ててあった.後者は多分後に他の人が置いたのであろう.そして氏の略歴(抜粋)は
記念館壁に刷られた『命のビザ』の写し.昭和15年8月9日発給で,行き先の漢字が読めないが,敦賀上陸と記されている.このようなビザをおよそ1600発行し,一つのビザで家族全員が有効,よって6000人ほどの人が敦賀に渡ることができたそうだ.
なお,チウネの名前は外国人にとって甚だ発音が困難,そこで氏は自らをセンポと音読みで呼ぶようにしていたという.そのため難を逃れ,生き延びたユダヤ人難民が,後に命の恩人『センポ』さんを,日本や中国で探し出そうと試みたのだが,日本ではチウネのみが通用していたため,長年見つけ出せなかったという.
下は,杉原千畝記念館での写真
ところで杉原千畝氏を『日本のシンドラー』と呼ぶ向きがあるが,同列に扱うのはおかしいという見方もあると聞く.つまりドイツのオスカーシンドラーはナチス党員で,収容所のユダヤ人を救ったのは,自らの事業の労働力とするのが主目的(←この辺は見解いろいろ)で,杉原氏が専ら人道的見地から救ったのとは次元が異なる,と云うことだ.ただ,シンドラー氏は杉原氏と同じように,助けられたユダヤ人やイスラエル政府側から感謝されているし,目的はどうあれ結果として1200人ほどの命を救ったのは事実であろう.
杉原千畝記念館の後,カウナスのレストランで昼食を頂いた.ボルシチ(呼び方はリトアニア名)のスープにチキンのクリームソース添えだった.ここでリトアニア最後となるので,残りの通貨リタス(Lt)全部払ったらワインが注文できた.並みの味ながら大きなグラスだった.
レストラン脇の階段でマウンテンバイクの少年がワザを見せてくれた.階段をドンドンドンと下るのだが上手いものだ.ただペダルを漕いで上るのはちょっと急過ぎるので,手で押し上げていた.
カウナスで交わる2つの川,ネムナス川とニャリス川のうちの前者ネムナス川(Nemunas)を渡り,南に向かった.渡った後で対岸を振り返るとやはり教会の尖塔が目立つ.いい街だ.
バスは南下し,郊外に出て,農業地帯に入った.そして暫く走り,ポーランドとの国境は間近になった.高いところにコウノトリが見える(が写真は間に合わない)
下は,他辺りでの写真
さて次はポーランドの首都ワルシャワだ.国境越えの後,ワルシャワまでは相当距離があり,時間もかかるようだ.