このリガ編では,ラトビアに入国し,首都リガを訪れたときの様子,リガ旧市街のリーヴ広場周辺,自由記念碑,火薬塔,城壁と門,聖ヤコブ教会などを見物したときの写真を載せました.
ラトビアの首都リガはバルト海リガ湾奥のマーカー3の辺りに位置している.エストニアの首都タリンからは丁度真南になる.人口70万人で,バルト三国では圧倒的大都市になるそうだ.『リガ旧市街』は世界遺産に登録されている美しい街だ.
別窓で大きなGoogleマップを開くさてこうしてバスはエストニアを抜けラトビアに入国した.双方シェンゲン協定加盟国なので出入国のチェックはなしで,そのまま通過できる.また通貨は,ラトビアも今年1月からユーロになったそうで現地通貨を買う必要がなく便利だ.
国境の先には疎らだが発電用風車が見える.きっと住宅も疎らなのであろう.
タリンからリガに至る道はほぼ真っ直ぐに南下するのだが,中程でバルト海リガ湾に沿うようになる.ただ道の両側には立派な林が続き,あまり海は見えない.稀に写真のように林が途切れ,見える場所もあった.
天気が天気だけに遠くまでは望めないが.道路は複線の鉄道線路を越えた.鉄道もまた林の中を通っている.列車の運行密度は多くはないであろうが,環境負荷の観点からも今後とも運行が続けられるのでなかろうか.
添乗Sさんがバスの中で原曲ラトビア版,ロシア版,加藤登紀子さんの日本語版それぞれの『100万本のバラ』のCDを掛けてくれた.原曲はラトビア詩人の詩に,同国作曲がソ連支配時代に書き上げたもので,マーラという母性の女神が,娘に幸せを上げ忘れた,という内容だそうだ.スウェーデン,ポーランド,ロシア,ドイツなどに侵略され続けた悲しい歴史を唄っているそうで,言葉は解らないながらとても物悲しげに聞こえる.
支配者側だったロシア版では,詩は全く無視され,曲を借りて,貧しい画家が全財産をつぎ込んで100万本のバラを一目惚れの女優に贈る,となり,ヒットしたそうだ.加藤登紀子さんの版はそれとほぼ同じようである.
バスはやがてリガの街に入ってきた.トラムの線路と架線が石畳の道路上に敷設されている.石畳ということは郊外でなく,既に旧市街なのであろうか?
バスとドライバMさんは次のリトアニアの方で,バルト三国通してお世話になる.ガイドは街ごとに当地の人で,それぞれ詳しく案内してくれる.
下は,ラトビア入国のときの写真
バスを降り,先ずは旧市街の中ほどにあるリーヴ広場に行った.芝生に幾条もの曲線状花壇がある.昔ここにはリーゼネ川が流れていたが,それを埋め立てて広場にしたそうで,その流れを花で表現してあるのだそうだ.流体力学的解釈で花の模様が一層楽しめそう....でもないか.
第二次大戦で破壊された後に作られ,脇に,ラトビアフィルハーモニーが活躍する,後述のコンサートホールがあることからフィルハーモニー広場と呼ばれていた時代もあるようだ.
中央の尖塔は後で訪れる聖ペテロ教会だそうだが,まあ随分細く鋭く建てたものだ.
私たちが先ずはリーヴ広場を訪れたのは広場に面した4 roomsレストランでお昼ごはんを頂くためだった.確か魚料理だったか,ちゃんとした記憶がないので,まあ並みの味であったのであろう.周辺はレストランだらけだが,生憎の雨でさすが戸外のテーブルは空っぽだ.
リーヴ広場の一画に,尖塔頂に尾っぽを上げた猫のオブジェを載せた『猫の家』があった.道路を挟んで対向する位置,猫の顔の向く方角に大ギルド会館,その手前に少ギルド会館,現在は双方コンサートホールとして使われているという建物が建っている.
当時ドイツ人は業種毎にカルテルを固め,強力なギルドを構成していた訳だが,そこにラトビア人ビジネスマンが加盟を申請したのだが,認められなかったそうだ.腹を立てた当ビジネスマンは,自宅の屋根に,怒りで尻尾を立てた猫を載せ,その尻尾をギルド会館に向けて(つまり今とは逆向き)抗議の意を示したということだ.ただ暫くしてギルド側と和解,若しくはギルド会館がコンサートホールに転換され,猫が流れ来るメロディに聞き惚れた....とかの理由で,180°向きを替え,現在のように頭を向けるようになった,ということだ.
下は,リーヴ広場周辺での写真
旧市街少し先,トラム通り前の広場にあり,1918~1920年,ドイツからのラトビア独立戦争で戦った兵士を祀り,1935年に完成したそうだ.石灰岩で造られ,42mの高さだそうで,基部には『祖国と自由のために』と刻まれ,頂部にはラトビア3地域象徴の3つの星を掲げる女性像が立っている.
1940年,新たな侵略者ソ連邦に併合され,この記念碑は解体されそうになったが,何とか免れたそうだ.ただこの碑に近づいた市民は反体制者として直ちにシベリアに送られ,抑留されたそうだ.ラトビアの真の独立はまだ先となった.
自由記念碑広場の縁に立つ時計塔.道を挟んで手前に在るLaimaの直営店の広告塔だそうだ.Laimaはチョコレートなどで知られるブランドだそうで,時計塔はリガっ子に待ち合わせ場所としてよく使われるという.
Laimaはここでは有名だが,有り体に言えば,まあ特段上等なお味とは....らしい.
↓イースターのネコヤナギを買う人 | ↓自由記念碑前の人力車 |
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↑Laimaの直営店 | ↑自由記念碑前行くトラム |
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トラムの車体,何だか多摩動物公園みたいですね.
火薬保管庫として最初は14世紀に建てられ,スウェーデン軍の侵攻で一旦破壊され,17世紀に再建されたそうだ.砲撃に耐えるよう石積みの壁厚は3mもあるそうだ.17~18世紀のロシア軍から受けた砲弾で被害を受けたが,中までは貫通せず,その砲弾の現物が今も内部に埋め込まれているそうだ.
この塔は城壁の所々に置かれた監視塔,食料倉庫などの塔(全部で29あったそうだ)の一つだったが,今日残っているのはこれだけということだ.
塔の脇の建物にLatvijas Kara Muzejsの表札が掛かっている.ラトビア戦争博物館の意味だそうだ.リガは古くはバルト族が住み着いていたが,9世紀頃からスウェーデン,13世紀初頭のドイツ(十字軍でリガの礎を作ったとも言えるが),ポーランド/リトアニア連合国,ロシア,ドイツ,ソ連....と幾度となく戦争を仕掛けられ,支配されていったわけで,そんな戦争の歴史が刻まれた諸資料を展示しているそうだ.私たちは単に通り過ぎただけで残念だった.
火薬塔周辺は落ち着いた静かな通りだ.多分公共であろうがレンタサイクルの駐輪場が道の真中に設けてあり,優先度を高めている様子が窺える.イスラム世界だけのものかと思っていた水パイプが喫煙具店に並んでいた.驚きだ.
↓公共レンタサイクル | ↓水パイプもある喫煙具店 |
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↑ネコヤナギを買って家路へ | ↑Figaro Artの看板 |
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間もなくイースターで,お店で買い求めたネコヤナギを手にした老婦人が行く.またアートギャラリーであろう,Figaro Artの看板はなかなか傑作だ.
現在ここに少しだけ残された城壁で,一部修復も加えられているようだ.タリンと違ってレンガ構造だ.かつては街をぐるりと囲み2kmの長さがあったそうだ.
ぐるりと城壁があった時代は城門も多くあった筈だが,残された城壁が僅かになり,従って城門もここ一箇所になったようだ.スウェーデン軍兵士が城壁外の宿舎と城内を行き来するために設けられた門で,スウェーデン門の名が付いたそうだ.
その昔城内のリガ女性は外国人と会うことを禁じられていたそうだが,あるリガ娘がスウェーデン兵と恋に落ちたそうだ.そして娘さんは咎められ,城門に埋め込まれたしまったという.何ともお気の毒な仕打ちだと思う.真夜中にここを通ると娘さんのすすり泣きが漏れてくるそうだ.
スウェーデン門をくぐった先の路地の真ん中にこんな金属柱があった.消火栓かな~と思ったら車止めのようだ.確かに車が入ってきたら歩行者が避けられないくらい狭い通りだった.ここもとても中世っぽい.
城壁前の通りは地元の人も,観光客も多く通る.凸凹だがこれも世界遺産であるし,味でもあろう.
↓城壁前のトゥアルニャ通り(Torna iela) | ↓道標か? |
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↑スウェーデン門から望む旧市街 | ↑お使いから戻る婦人 |
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手にしたのはパンと見て,勝手にお使いの帰りとした.違うかも.
標記の教会は古めかしいレンガに濃い緑青色,見るからに歴史のありそうな外観だが,1225年カトリック教会として建立され,15世紀に一度建て直され,1522年にラトビア初のプロテスタント教会に転換され,布教拠点になったそうだ.そして後に,再びカトリック教会に戻った歴史があるそうだ.
80mもあるという尖塔の中間に突起が見えるが,かつてここには『哀れな罪人の鐘』が吊るされていたという.この後訪れる市庁舎広場で行われる罪人の公開処罰の執行を市民に知らしめる鐘が鳴らされたそうだ.さらに不貞を働く婦人がこの鐘の近くを通ると,自動的に鐘が鳴り,それがバレてしまったそうだ.と云う訳で女性からは不評を買い,取り外させてしまったとか.
上述のスウェーデン門の壁埋め込みと言い,この鐘の自動鳴り響きと言い,当時の女性は不当に虐げられた立場にあった......いや,鐘を撤去させ,堂々と....だから,寧ろ強い地位にあったか?
聖ヤコブはスペインのサンティアゴデコンポステーラ大聖堂に埋葬されたイエスキリストの12使徒の1人として有名だ.(なおサンティアゴは聖ヤコブのスペイン語発音だそうだ)主にスペインにおいて布教活動を行い,エルサレムに帰還したが,ヘロデ王によって死罪になり,最後の殉教者となったそうである.
この日4/13は日曜で,ミサの最中であったが,許可が出てそっと中を見させてもらった.カトリックの教会にしては装飾は少なくシンプルな内装だ.途中プロテスタント教会に変換された経緯も関係しているかも知れない.
聖ヤコブ教会のお向かいにはラトビア国会議事堂があった.サエイマ(Saeima)と称するそうで,当初1867年に建てられ,1903年にかけて拡張されたそうだ.かなり大きな建物で,入り口には白い包帯の両サイドが血に染まったというデザインのラトビア国旗が掲げられている.
この周辺も全て石畳の通りで,建物のデザインや色は皆異なっているが,何れもシックな色あい,或いは古色蒼然がぴったり当てはまる街並みだ.
聖ヤコブ教会裏側に三角形のバリケード記念碑があった.ラトビアが独立宣言した1991年の直前,1989年当時ラトビア人による独立運動の最中,ソ連の特殊部隊が,人間バリケードを築き,この国会議事堂などを守ろうとしていた非武装のラトビア人を攻撃した.多くの犠牲者が出たというその記念碑だ.
↓聖ヤコブ教会裏側のバリケード記念碑 | ↓聖ヤコブ教会前の通り |
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↑創設の1225年が記された入り口 | ↑ラトビア国会議事堂 |
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街を行く女性の装いも概して落ち着いた色が多い気がする.