このタリン編では羽田からフランクフルト経由でエストニアの首都タリンへ行くとき,着いたタリン旧市街でトームペア城,アレクサンドルネフスキー聖堂,タリン大聖堂,展望台から望むタリン旧市街,城壁,三人姉妹(建物)を見物したときの写真を載せました.
ルフトハンザのフライトの関係で,マーカー1の中継地ハンブルグ(ドイツ)で乗り換え.
エストニアの首都タリンはバルト海に面した北の外れ,マーカー2に位置している.ストックホルムやオスロとは大体同緯度で,ヘルシンキとはバルト海フィンランド湾を挟んで直ぐで,実際80kmくらいだそうだ.街は『タリン歴史地区』として世界遺産登録されている.
別窓で大きなGoogleマップを開く2014/4/11午前,JRと京急を乗り継いで羽田空港ツアーの指定場所に向かった.やはり羽田は成田と較べて便利だ.圧倒的に短時間で電車は到着した.京急ホームから写真のエレベータで直接搭乗ターミナルに行ける.ただこのエレベータ周りのデザインは,パネルをボルトで仮止めした工事中のような印象で,ちょっと.....だ.まあ,好きずきであろうが.もち論視認性や実用性は良好で,何より羽田の利便性は優れているのだから細かいことに拘らない方が良かろう.
指定場所に行くと添乗Sさんが待ってくれており,諸事項聞き,レシーバーや搭乗券を受け取る.ルフトハンザのツアー客は団体チェックインのようで,既に気を利かせて通路側シートを取っていてくれた.ありがとうございます.
ルフトハンザのカウンタで荷物預け,前回紛失して新たに作ったスターアライアンスのマイレージを加算してもらう.今度は耄碌して落とさないようにしなくては.
LH-0717便搭乗ゲートへ行くと機材は既に横付けされていた.ただどうした理由か不明だが,出発が3,40分遅れた.フランクフルト到着も少し遅れ,乗り継ぎ時間が減り,同行の2人の方が次の便に乗り遅れる要因にもなった.
LH-0717便は,ANAやJALでは使われなくなったB747ジャンボジェットだ.ただ主翼両端に上向きのウィングレットを備えたB747-400(B744)機で,1988年初飛行と比較的新しいタイプのようだ.翼の他に制御系などあちこちに改良が加えられ,クラシックジャンボの3人から,航空機関士が乗務しない2人乗務になり,また燃費も向上しているそうだ.ただB777等と比べるとやはりまだ劣り,いずれアフリカのエアライン等に売却されるのではなかろうか.そして買われた先では,どうしても古い機体の故障率が上がるのであろう,事故率が高くなるようである.
LH-0717便は11~12時間のフライトであるが,幸いオンデマンドの映画があり,日本語版もあるので楽しめる.リモコンでなくタッチパネルで,本来操作性がいい筈だがレスポンスが著しく悪く使い勝手はイマイチだ.
二度の食事に加え,水やジュースを頻繁に持って回ってくれている.この頻度は著しく高く,多分世界一ではなかろうか.
モニターを眺めると,長くロシア上空を飛び,やがてバルト海上空に入り,エストニアの首都タリンに達してきた.後2時間ほどでフランクフルト到着の筈だ.
私たちの目的地はタリンなので,ここで降りればタリン←→往復分4時間+乗り換え時間が節約できるのだが,直行便は無いそうだ.しかしバルト海対岸のヘルシンキ(フィンランド)への直行便はあるそうで,一旦ここに飛び,フェリーで眼と鼻の先のタリンに渡れば大分時間が短縮されるのではなかろうか.少なくとも『行って/戻る』と云う『何か損した感じ』は抱かなくて済むであろう.
フランクフルトにはやはり30分ほど遅れて着いた.添乗Sさんの『時間がないので急いで行きましょう』との号令の下,荷物検査,入国審査に進む.どちらも長い列で,なるべく待ち行列の短いところを狙う.Sさんが搭乗時間が迫っているので前に行かせて欲しいと係員に頼むが,受け入れてくれない.他空港であれば寧ろ係員が案内してくれたり,カートで誘導してくれるところもあるが,フランクフルト空港ではそうした配慮は皆無のようだ.
入国審査を済ませ(これでエストニアなど他国では審査なし),タリン行きLH-0884便の搭乗ゲートに来た.ただ同行者お二人がまだ姿を見せていない.既に登場中で,間もなく締め切りだそうだ.総遅れになるとまずいのでゲートに到着した人たちはバスで搭乗タラップに向かった.添乗Sさんはお二人を探しに行くため,LH-0884便(これがタリン行き最終便)に乗らず,次の日にタリンに行くことになった.
LH-0884便は同じルフトハンザで,エコノミークラスは3-3シート配列のA300-200だった.何れにしても同じルフトハンザなので,最初の便が遅れたのに拘らず,安全検査や入国手続きの列の割り込みも認めてくれず,LH-0884便の出発も待ってくれなかった.きっと定刻運行,ルール命が社是なのであろうが....
LH-0884便は深夜定刻(23:55)でタリン空港(ウレミステ空港/Ulemiste Airport)に到着した.確かに定刻が深夜であるので,少し出発を待つと翌日になり,困る人ももち論居ようが.....
小雨の空港には旅行社の現地支店のMs.Iさんがバスを伴って待っていてくれた.Iさんは上手な日本語を話すが,エストニアで日本語を話す人は少ないそうだ.Iさんはロシア系で,エストニアにはロシア人も多く住むそうである.昨年秋引退した元大関把瑠都関はエストニア人であるが,帰国後の現在,エストニア一地方でホテル経営を行い,あの綺麗な奥さんはロシア人だそうだ.エストニアの人はロシア語も話せる人が多いのだそうだ.まあこれもかつてのロシア帝国の支配,ソ連の占領などに因るもので必ずしも喜べるものではなかろうが.
バスは30分位走ったであろうか,都心のホテル,メリトングランドコンファレンス&スパ (Meriton Grand Conference & Spa Hotel) という長い名のホテルに到着した.チェックインし部屋に入るとテレビのガイド放送にはAqua &Sauna Centerの画面があった.このホテルは2連泊なのでプールやサウナを楽しむにはちょうどいいのだが生憎風邪をひいてしまって止すことにした.
意外なことに,こうしたプールやサウナはこの後も2,3箇所あったのだが,風邪のせいもあり楽しんだのは最後のワルシャワヒルトンだけであった.寒い地方だけにプールやサウナは人気があるのであろう.
広々した部屋は大きなバスタブを備え,ヨーロッパでは必ずしもあるとは限らないコーヒーセットもありなかなかいいホテルだ.なお暖房は,前回の南バルカンではちょっと寒いところもあったが,今回はここも含めて皆十分暖かであった.
4/12朝,部屋で一夜を明かしスパホテルレストランに降りた.入り口に仏頭が据えられている.仏教徒は殆ど皆無であろうのでちょっとびっくり.前年訪れたアルゼンチンのホテルでも仏像が座していたが,深い意味はなかろうが,少なくとも異教徒を排しない姿勢には好感が持てる.
食事は好きなものをよそうので美味しい.サプライズはクロワッサンのような風味のロールパンの中に鮭の入った,言わば鮭パンに食い付いたときだ.サンドイッチやハンバーガーのように2枚パン挟みや,またホットドッグのように切れ目を入れたパンでもなく,アンパン同様完全密閉,食べて初めて中の具に出合うタイプだ.鮭おにぎりの鮭と比べ塩味は殆ど無いが,フレーク状でなく塊で,美味しい.アンパンは日本のパン屋さんの発明と聞いていたが鮭パンはエストニア生まれでしょう,きっと.普通スモークドサーモンを中に入れたら....と思いつきそうだが,それでは多分衣と具の硬さが違いすぎてマッチしないであろう.そして加熱した切り身を使ったところがミソだ.
朝食の後ガイドさん(右)と,昨日タリン空港でピックアップしてくれた通訳担当のIさん(左)が,ドライバMさんのバスでホテル前まで迎えに来てくれた.どうぞよろしく.寒いが雨は降っていないようだ.
下は,羽田,経由地フランクフルト,到着地タリンでの写真
私たちのバスは先ずタリン旧市街のトームペア城に向かった.ホテルは新市街にあるが,実は旧市街のトームペア城は眼と鼻の先程度の近さだ.ただそこは観光旅行,何がなんでもバスで行くのだ.(午後時間があったのでもう一度歩いてみたが)
旧市街はユネスコ世界遺産なので建物は古いまま保存,補修されないとならないが,新市街はそうした制約がなく新しいビルが建設されている.主要産業の一つに観光が含まれるようだ.またIT産業も活発で,WiFiの普及率など高く,実際宿泊のメリトングランドコンファレンス&スパホテルの部屋など何の断りもなく繋がった.代わりに市中の公衆電話は殆ど無くなったそうだ.また例として,マイクロソフト社によって買収されたSkype(コミュニケーションソフト)は,元はここタリンで開発されたそうである.
人口は42万人で,藤沢市や町田市と同じくらいのようだ.ただ国籍はエストニア人52.3%,通訳Iさんたちロシア人38.5%,ウクライナ人3.7%,他5.3%だそうで,非エストニア人が半分近く占めるということに驚く.言語もエストニア語以外に,ロシア語,フィンランド語,英語,ドイツ語など幅広く話され,宗教はルター派プロテスタント30%,ロシア正教会28%,カトリック3%だが,実質的に信仰を持たない,若しくは希薄な人が多数を占めるらしい.
バスが進むとトラムの駅にSLが展示されていた.新橋駅前のSL(今はもうないのかな~?)のようにかつて活躍し,今は退役の記念碑であろう.国鉄のD51とかより動輪の数(5つ)が多いように見える.
バスは小高い丘のトームペア城(Toompea Castle)に着いた.1219年デンマーク王バルデマー2世が十字軍を率いて侵攻し,この場所に築城したのが始まりだそうだ.タリン(Tallinn)の名はそれに因むという.
1285年にハンザ同盟に加盟した後の1346年,デンマークはバルト東海岸植民地をドイツ騎士団に売却し引き上げたそうだ.そのドイツ騎士団も1561年には解体し,少ししてスウェーデンに割譲され,やがて1710年大北方戦争の結果ロシア帝国支配下に下ったそうである.ただハンザ同盟やドイツの影響は20世紀まで尾を引いたようで,トームペア(Toompea)は独語『聖堂の立つ丘』の意に相当するそうだ.
城は石造りで,ベースの石灰岩の丘を一部切り出して使ったのではなかろうか.途中幾度かの改修があったであろうが,今日はエストニア国会議事堂及び一部政府機関のオフィスとして機能しているそうだ.ただ写真のように国会議事堂前庭広場は,訪れたのが土曜日であったためか,警護の物々しさとか全く見られす,市民が普通に散歩を楽しんでいる様子だった.
お城(国会議事堂)角には46mという大きな円形の塔,のっぽのヘルマン(Pikk Hermann)と称するそうだ,が立っている.デンマーク軍をはじめとして,以降各征服者のこの地を抑えた象徴として軍旗や国旗が掲げられてきた歴史があるそうだ.この日は当然『青空と自由の青,かつて失われた独立と祖国への愛着の黒,労働と明るい未来を表わす白』のエストニア三色旗が翻っていた.なお当初砦であった時代は当然敵軍監視塔として築かれたものであろう.
なお,なぜのっぽのヘルマンと云う擬人的名称になっているかについては聞き漏らしたが,すこし後で『ふとっちょマルガレータ』とか『三人姉妹』とかの愛称付き建物を見物することからすると,こうした命名は一種の文化なのであろう.
先ほど見物したトームペア城のお向かいに在って,玉ねぎ型ドーム屋根からロシア正教の教会と判る.1710年大北方戦争からロシア帝国の支配下となっていた1900年に建立されたそうである.2世紀近く続くロシア支配に高まる反露意識の中で,ロシアが宗教的に,政治的にロシア帝国支配を再強化するために建立されたようだ.タリン最大の正教会で,しかも前述のようにロシア人が住民の38.5%というからには現在も重要な役割を担っているのであろう.
なお同名の教会はソフィア(ブルガリア)でも見せてもらったことがある.それと較べてタリンは規模こそ小さいが外観デザインはよりロシア風に映る.
冠した名の如く両者とも聖アレクサンドルネフスキー(St. Alexander Nevsky)に奉納された聖堂だそうだ.氏は1242年のペイプシ湖の戦いでドイツ騎士団の東進を防いだ中世ロシアの英雄として讃えられているお人だそうだ.
で,正面の人物像は聖アレクサンドルネフスキーかな....と思って眺めたが,どうやら違い,キリストや大天使のようである(多分)
正面入口をくぐると主礼拝堂があり,お祈りの方々が居られた.正教会なので壁に多くのイコンが嵌め込まれ,オルガン等は見当たらず,椅子はなく立ってお祈りを捧げている.壁や床の装飾,ステンドグラスが大変美しい.
石畳の横丁(タリン旧市街は全ての通りは石畳のようだが)からアレクサンドルネフスキー聖堂の高い尖塔が見える.尖塔は円塔,玉ねぎ球,窓も軸対称でどこから見ても同じ,識別容易だ.
ところでエストニア長年のロシア支配下から1991年に独立し,主権を回復したのであるが,当然ロシア支配の象徴とも言えるこのアレクサンドルネフスキー聖堂を破壊しようという動きがあったそうだ.ただ上述の如く現にタリンではロシア人が1/3も占める街であって,それがまた新たな別問題を引き起こす可能性が高く,取り壊し案は見送られたと聞く.まあそれで良かったのではなかろうか.
アレクサンドルネフスキー聖堂から少し北に行くとタリン大聖堂が現れた.大聖堂はカトリックの場合街に一つだけ置かれた主教座のあるカトリック教会だそうで,サイズ的な呼称ではないと聞いている.ただエストニア観光情報局のページを見ると,『ルター派の教会』(つまりプロテスタント)と記されており,現在はきっとそれが正しいのでしょう.
タリン大聖堂は正式にはタリン聖母マリア大聖堂(The Cathedral of Saint Mary the Virgin in Tallinn),さらに地元ではトーム教会(独語トーム/toomはドームのことで,つまりドーム教会/dome church)とも通称され,13世紀デンマーク王バルデマー2世が十字軍を率いて征服したときに創建されたそうだ.(なお,正教会では主教座有無に拘らず,大きく,由緒ある聖堂であれば大聖堂と呼ばれるそうだ)
エストニアでは最古の教会で,現在の建物は17世紀の火災で消失後の再建だそうであるが,信仰の歴史的には意義深いであろう.そのデザインはゴシック様式,尖塔はバロック様式なのだそうだが,色使いを含めて大変シンプルでさっぱりした印象を受ける.
まだ時間が早いためか礼拝者の居ない礼拝堂を見せてもらった.バロック様式なのだそうだが,一見してカトリック教会にしては装飾が簡素,色やデザインが所々ドイツ風....と入った印象だ.
1285年のハンザ同盟加盟以来,ドイツ商人や貴族が居住し,その人達の主教会であったであるから,ドイツ風要素が感じられるのは当然であろう.
とてもクラシカルで落ち着いた街並み,美しいと思う.建物は皆バラバラの様式でユニーク,道も折れ曲がり傾斜や凹凸ある石畳なのだが,少なくとも旅行者には味わい深く感じられる.
終わりの2つは,売り子の装束やワゴンのアイコンが大聖堂と関連ありそうで,インセンティブになっているようだ.
丘の大聖堂からさらに北に進むと,展望点があり,平地に展開されるタリン旧市街がよく見渡せる.先ず赤い屋根に尖塔が目立つ.そして先にはバルト海が見えている.左側の一際高い塔は,屋根の銅板の修復の跡であろう,部分的に緑青が見える聖オレフ教会のようである.
そしてさらに左の複数連なる赤い三角屋根の塔は,これから見物する城壁の所定間隔に設けられた物見台であろう.
少し目を右に転じると,尖塔を持つタリン旧市庁舎も見える.塔の頂には,ちょっと写真が小さいが旗を持った番兵の像が見える.『トーマスおじいさん』と呼ばれるそうだが,再雇用契約でこうして頑張っているのであろう.
左の金色の風見鶏は勇敢な面構えで,気に入った.どなたの家の屋根でしょうね?
さらに右に目を向けると大きな船の停泊するタリン港が見える.対岸のヘルシンキ(フィンランド)やストックホルム(スウェーデン)には多くのフェリーが運行されているそうだ.前者は高速船で1時間半で行けるそうで,特に夏場は多く利用されるという.
ところでタリンは相当高い緯度にあるので陽の光を大切にしているであろう.....でもこうして家々の向きを眺めると必ずしも南向きとかには拘っていないように見える....違うかな?
一段高い丘の展望台から階段があり,ここを降りた.丘周囲は天然の城壁となっており,階段下りはその外に出ることを意味する.そしてそこは旧市街の外であるので比較的新しい建物がさほど密集せず建てられている.
展望台の脇に瑚珀(アンバー)のお店があった.なおここに限らずタリンにはあちこちで瑚珀が商われている.瑚珀と聞くと,映画ジュラシックパークで,恐竜の血を吸った蚊入り瑚珀,擦ると帯電する....などが思いされる.誘電体は別に瑚珀に限らず擦れば帯電すると思うが,古来,静電気発見の実験材料として有名なのであろう.まあそんな訳で瑚珀は松ヤニが固化したものだそうで,当然あまり硬くないものと思い込んでいた.固くなれば虫入りなどない....と.しかし実際の瑚珀は鉱物ではないものの,同じ程度に硬いのだそうだ.そしてあのアンバー色はとても美しく,こうして装飾品に加工され売られている訳だ.
瑚珀はエストリアだけでなく,バルト海沿岸でたくさん採れるそうで,寧ろポーランドの海岸辺りでさらに多く見つかるそうである.
上の瑚珀ショップでも見えるが,毛糸で作っ看板人形があちこちに見える.タリン特有か,或いはエストニアの慣わしか,素朴で優しい感じがいいと思う.
展望台を降りて少し行くと,2km弱残っているというタリン城壁と所定間隔に設けられた塔,監視塔であろう,が望める緑地公園に出合う.城壁の一部は要塞のような建物になっている.いい眺めだ.この緑地は毎年開催されるフラワーフェスティバルの会場としても使われているそうだ.
城壁はデンマーク王の十字軍侵攻から半世紀ほど後の1265年に開始され,改修や補強が加えられ,現在の輪郭は14世紀に固まったそうである.16世紀の最盛期には高さ14~16mで全長2.4kmに及び,要所要所に塔が46もあったそうだ.塔の数は減ったではあろうが,それでも結構な数が残っているように見える.
城門をくぐり城壁の内部に入ってきた.城壁内側の石畳の通りはラボラトゥーリウミ通り(Laboratooriumi)と称するそうだが,ラボラトゥーリを冠するのはその昔,ここら一帯に化学や薬剤の研究施設が多くあったためだそうだ.一部城壁が決壊し,断面構造がよく見える場所があった.で,ここの壁は高さ15m,厚さ3mほどあるそうで,石が漆喰(セメント)で積み上げられたソリッドな構造だ.日本の城の石垣とかと比べると構造材が固着されているのでちょっとやそっとでは打ち破れないように頑丈に見える.
セーターやマフラー,手袋など,いかにも北国らしい商品の露店が並ぶ場所があった.この辺りの城壁はずばり『セーターの壁(Wall of Sweaters)』と呼ばれるそうで,伝統的柄模様が無機質な石壁を背景に映えていた.なおこの通りはムーリヴァヘ通りと呼ばれるそうだ.
城壁の所々に設けられた監視塔には観光用に開放されているところがある.塔の上に上ると監視窓のある監視室に出た.この部屋も分厚い石材でできている.
この場所から連なる壁上部は通路として,歩けるようになっている.また通路は多分後年付加されたのであろうが,写真のように赤い瓦の屋根で覆われている.この監視室から眺めると,この辺りは壁の内外を問わず建物が密集している様子が見て取れる.城壁外部の路地に潜む敵兵を探しだすのは大変そうだ.多分平和な時代に建設された建物なのではなかろうか.
壁には墓石が展示されていた.脇の説明書きに依れば,何でもアレクサンドリア聖カトリーヌ教会にあったタリンの領主,Blackheads(註)や大ギルドの同胞などの墓石だったそうだ.石は薄く大きいので,元は地面に並べられ,人に踏まれるようにしていたのであろう.踏まれることで生前の罪状が消されるという言い伝えがあるようだ.今も他国でもやはりそうした墓石を見ることがある.私の感覚ではちょっと不思議な気もするが,まあそういうものだそうだ.
(註)ブラックヘッド(Blackheads)とは,ギルドには加入できないドイツの未婚商人(←ちょっときつい差別のような...)が結成した組合だそうだ.この組合は街の防衛と春の祭典を任されており,まあ用心棒役でしょうか.組合の守護聖人モーリシャスが色黒であったことからブラックヘッド組合と名乗るようになったそうだ.後日訪れるラトビアのリガでも同じ組織があったようで,立派な会館が残されている.
幾つかの城門の中で,ヴィル通りの端に建つ2つの円柱塔から成るのがヴィル門(Viru gates).オリジナルは複数の壁と門があったが,近年大半は壊されバス乗り場などになっている.残された構造物だけでもアミューズメントパーク並みのみの楽しさが感じられる.
下は,タリン城壁での写真
壁にロシア初代大統領エリツィン(Boris Yeltsin)のパネルが嵌め込まれていた.1900-1991年,エストニアの平和的独立に貢献してくれたためのようで,そうかロシア人でもこうして敬意を集める人がいるのだと感心した.昨今緊張のウクライナ情勢であるが,エストニアを含むバルト三国とポーランドが次のロシアのターゲットではないかとのNATO側観測もあるらしい.平和であって欲しいものだ.
三人姉妹とはまた妙な名だが,3つ連なる建物の呼称だそうだ.チェーホフによる日本語では同名の戯曲もあるそうだが全然関連はなさそうで,3連長屋でもおかしくない,いやより適切なような....(←怒られそうだが).何でも15世紀に建設されたというとても古い建物で,当時の日本は足利時代辺りで,多分日本では寺社以外そのように古い建築はあまり見当たらないであろう.歴史を感じさせる.元々ギルド商人の住まいだったが,寄り添うように建つ女性的エクステリアから三人姉妹と呼ばれるに至ったようだ.
これらの建物,特に真ん中のそれは2003年に大改装され,超高級ホテルになったという.エストニア訪問時天皇皇后両陛下や,またエリザベス女王がお泊りになられたそうである.最高級の部屋は『ピアノスイート』と称され,皇后さまは備えられたグランドピアノをお弾きになられたそうである.ちょっと見の外観からは,単に幾らか古い建物だな~程度に感じられたが,実は全く畏れ多い建物だったのだ.