アルメニアArmenia

モスクワから3時間くらいのフライトでアルメニアの首都エレバンに到着した.さてアルメニアを概観してみよう.

地形

黒海とカスピ海の間の内陸にあって,トルコ,グルジア,アゼルバイジャン,イランに囲まれている.南にアゼルバイジャンの飛地がある.逆にアゼルバイジャン領内にアルメニアの飛び地も存在するそうである.山脈と高原が広がる山国で,国土の90%で標高1,000mを超え,3,000m級の山岳も多いようだ.最大の平地は首都エレバンが位置するアララト盆地で標高800mあるようだ.バスで通過した範囲では少なくとも平野はなく,ネパールほど急峻で険しくはないにしても「どこも山地」の印象を受けた.大まかに言えば山の名は小コーカサス(カフカス)山脈で,現在トルコ領に属しているアララト山(5,165m)が最高峰であるが,アルメニア領では4,120mのアラガット山が一番高いそうである.山間部には岩石がころがった禿げ山が目立ち,樹林は必ずしも多くないようだ.

禿げ山が多いが石材は豊富で,特に凝灰岩(トゥフと呼ばれるようだ)が加工し易いためであろう,集合住宅やオフィスビル建築に多用されている.エレヴァン市内も郊外も大多数の建物にトゥフが使われていると言ってよさそうだ.若干ピンクがかった白に見える.凝灰岩は火山から噴出された火山灰が地上や水中に堆積してできた火成岩でまた堆積岩.他に,玄武岩,花崗岩なども建築材料として使われているようだ.

問題は海に面してなく,トルコとアゼルバイジャンとの国境は封鎖され,辛うじてイランとグルジアに抜ける道が開かれていることであろう.2国には首根っこを抑えられているようなものだ.

気候

一般に,標高差による気温の較差が激しいものの,アララト盆地を含めて雨が少なく乾燥したステップ気候....とされているようだ.期待していたが,タイミングが悪かったのであろうか,エレバンでは雲が去らずアララト山が見えなかったのは残念.セバン湖は標高が2,000mと高いため,粉雪が舞っていた.気温に関しては訪ねた時は東京と似たような感じで,快適であったが,エレバンでは夏はときに40℃を越え,冬の最低気温は-25℃,たまに-35℃になることさえあるそうで,どうやら楽ではなさそうだ.火山帯に位置するため地震も多発するようで,日本と似ている.

歴史

紀元前6世紀頃には国際的な商業活動を盛んに行い,紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築き繁栄した.しかし後にローマ帝国の属州となったこともある.

1世紀頃にはキリスト教の布教が進み,紀元301年には世界で初めてキリスト教を国教とした.その後ササン朝ペルシアの支配下に入り,アラブの侵攻も受けるが,9世紀半ばには再び独立を回復.だがほどなくセルジューク朝やモンゴル,ティムール朝などの侵入が相次ぎ,10世紀に多くのアルメニア人が故国を去ったそうだ.

1636年にアルメニアにはオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアに分割統治され,1828年一部はロシア領となる.19世紀後半になるとオスマン帝国支配下のアルメニア人は反発し,対立は激化,多くのアルメニア人が虐殺され,生き残った多くは欧米やロシア領に逃げ込んだ.

オスマン帝国領内でのアルメニア人迫害のうち,一度目は1894年~1896年,二度目は第一次世界大戦中の1915年~1916年.二度目の迫害ではおよそ150万人の犠牲者が出たとも言われているようだ.

1936年にソビエト連邦を構成するアルメニア社会主義共和国となる.1988年にアゼルバイジャンにあるナゴルノカラバフ自治州でアルメニア帰属運動の衝突が起った.1991年のソ連解体により独立したが,現在アゼルバイジャンの西部にあり,アルメニア人が多く住むナゴルノカラバフ自治州を巡るアゼルバイジャンとの紛争は現在も続いている.

社会

アルメニア人の自称はハイ(Hay),ノアの箱船が漂着したというアララト山は現在トルコ領であるが,本来ここの民はアルメニア人と自負しているようである.コーカソイド人種のアルメノイド型で,インド/ヨーロッパ語族のアルメニア語を話す.首都エレバンだけで全人口の1/3余りと人口が集中する.上述のような厳しい地形と気象,しかも多震地帯で,牧畜や商業が主たる生業となってきた.加えて繰り返し異民族支配の下にあったことがアルメニア文化の性格を規定したようである.

また前述のトルコによる迫害では多数殺害されたと同時に,80万人が難民となって逃れ世界各地に移住したそうである.ロシアを含めた旧ソ連圏に100万人程度,アメリカにも100万人程度住んでいるようで,国内の総人口よりも海外にいるアルメニア人総数の方が多いそうである.移民で成功し,母国に経済援助をしているアルメニア人も多いそうだ.例えば今回見学したエチミジアン大聖堂付属の博物館は,名前は思い出せないがそのような人物の一人が建てたと聞いた.またアルメニア地震後の住宅整備や,幹線自動車道の整備など,多額の資金を要するインフラ整備はこうした援助に依るところ大であるようだ.

トルコやアゼルバイジャンとの争いが一段落した以降も海外への流れは止まず,出稼ぎの人々が国内に残った親族へ送金をして生活を維持しているそうだ.ガイドのハジミクさんの話では,例えばセバン湖方面にあった名称は思い出せないが半ば山間のアルメニア第3の都市では,市民の生活は海外への出稼ぎ家族の月100ドル~200ドル程度の仕送りによって成り立っているという.また,国民性として,国より家族が大切,親戚縁者や家庭の絆が強い,との話であった.

アルメニアはその昔,東洋と西洋を結ぶ交通の要衝にあり,自他共に認める商売上手な民族だそうだ.東はカムチャツカから西のウクライナまで,旧ソ連圏の大きな市場には必ずアルメニア商人がいたそうである.だから海外への出稼ぎや移住は,中国人などと同様割と普通の行為なのかも知れない.

産業

ちょっと見ただけでほんとのところは判らないが,厳しい地形でとても豊かな農園は営めそうもない.ただブドウ,オレンジなど果樹栽培は盛んで,上質のワインと高級ブランデーを製造する.ワインはグルジアが発祥の地とされ,現在も有名であるらしいが,通の間ではアルメニアのワインはさらに名高いとも言われるようである.

旧ソ連の中では銅採掘/精錬,金属加工,機械,石油化学,軽工業など比較的鉱工業の発達した地方であったが,1991年のソ連崩壊以降の産業連関の崩壊にともない,ほとんどの企業が操業停止に追い込まれたようである.実際バスから眺めていると壊れかかった工場があちこちで放置されていた.再生するだけの資金がないのだそうで,それがまた失業者を多くしているようである.失業率は極めて高いそうである.都市部のサラリーマンの給料は月US$150~250くらいで,地方や職種によってはさらに安いそうである.

就職に有利であろうと国民の70%が大学に行くが,職を見つけるのは容易ではないそうだ.ハジミクさんは外語大で日本語専攻,日本にも少し滞在しトレーニングして,旅行社に入ったそうだ.



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