シルヴァンシャー王朝は861年から1539年まで,独立で若しくは隷属的ではあっても継続し,イスラム世界の中では最も長く続いた王朝であるようだ.途中,1235年モンゴル軍侵入で壊滅的被害を蒙るなど,いろいろとあったが,巧妙な政治力が政権を長く維持させたようである.
現在の宮殿遺跡は,市城壁の内側に位置し,15世紀に建てられたイスラム建築様式で,宮殿本体,地下墓地,ミナレット付きのシャー(国王)のモスク,Seyid Yahya Bakuviの霊廟,東の入り口,貯蔵庫,浴場などから成っているようだ.宮殿本体には確か100とかの部屋があって,子供たちはそれぞれの部屋が与えられていたようだ.ただ見物した限り,電気がなかったから暗かったのでは....と思った.
はてさてこれが何であったかは思い出せなくなった.コーランの一節であったか.....もともとアゼルバイジャンではアラビア文字が使われていたそうで,アラビア文字だからといってコーランに直結する訳ではなさそうだが....とても大きなレリーフが興味深い.
バクーは城砦都市で,このページの下にあるように高い砦が今に残る.内側は旧市街で,ユネスコの世界遺産の対象若しくは近接区域なので,左写真のような趣き深い路地が保存されているのであろう.
二階部分から張り出したバルコニーは大きな特徴だ.車は通れないが,人通りは結構多く,今も多くの住民が生活を営んでいる様子が窺える.
下は,少しのシルヴァンシャー宮殿の写真と,周辺の写真.
城壁には複数のゲートがあったそうだが,最も重要なゲートはこのシェマハ門であったようだ.現存の門は12~14世紀に作られたものらしい.東西を行くシルクロードのキャラバンはここを通らずしてビジネスを行うことはできなかったであろう.
下は,城壁やシェマハ門とその周辺の街の様子
バクーはシルクロードの要衝であったであろうし,ここはキャラバンサライとしてはかなり規模が小さいように見える.きっとキャラバンサライが幾つかあったのではなかろうか.中庭の周囲は宿泊室やラクダの寝場所が取り囲んでいて,地下には食料貯蔵庫など配され,典型的な隊商宿形式だと思う.
現在,地下室はレストランになっており,ここで夕食を食べることになった.
夕食はショー付きで,バンド演奏に引き続き火を飲んだり,真剣や針むしろの上に載ったりする男が出て,最後はこのダンサーがベリーダンスを披露してくれた.ベリーダンスはやはりイスラムの香りを感じさせてくれる.
ここの赤ワインは美味しかったが,料理は確か白いチーズに,生野菜に,....魚だったか?
下は,キャラバンサライでの写真あれこれ
アシアさんによればオリジナルの塔は紀元前67年に遡るという.ただし現存の建物は12世紀頃に再建されたものであるそうだ.塔の主要目的は防衛のため見張り櫓であったという説が有力なようである.石灰岩が主建材で,直径16.5m,高さ28m,内部は8層になっている.東側面の出っ張り(写真で左側の張り出し部)は階段と,さらに別の用途があったような....
近年カスピ海の水位が下がり,海岸線からは大きな通りを挟んで大分離れているが,昔,塔は海水に漬かっていたそうである.
その昔,父であるモンゴル帝国のハン王に言い寄られた娘が,塔の上から海に身投げしたといわれるところから,乙女の塔の名が付いたという伝説があるそうだ.異民族の権力者から結婚を強いられた地元の娘が,それを嘆き悲しんで命を自ら絶つ伝説は,シルクロードの土地ではほかにもいくつもあるそうであるし,普通によく分かるストーリーだ.でもここでは実の父なのかな?その辺はイマイチ理解できていない.
乙女の塔に隣接し,中世,1400年頃の市場の遺跡が復元展示されている.また他所にあった動物の石像などもここに運んで展示されているものもある.塔と比べると新しいが,中世ここで商品取引,自由経済が行われていた訳だ.
下は,乙女の塔と屋上,周辺の写真あれこれ
この通りはバクーで一番の繁華街だそうだ.歩いて見ると比較的小さなショップが多く,百貨店のようなものは見当たらなかった.あるいは初めてざーっと歩いただけなので見逃したのかもしれないが.
目立つのはケータイのお店だ.この店AZEARCELLの看板からして,きっとDocomoに相当するようなブランドであろう.日本でもケータイ店は多いが,ここはやたらめったら多い印象だ.
下は,ニザミ通りの写真あれこれ