トビリシから空路,アゼルバイジャンの首都バクーに来た.
先ずトビリシを離陸,コーカサスの白い山並みを眺め,1時間もすると夕刻になり,バクーに着陸した.バクー空港ターミナルビルはアジアのパゴダのように見える.
アゼルバイジャン共和国の首都バクーの人口は180万人余というから,横浜の半分くらいか.都心部の通りはとても混み合っていて,なかなか進めない.既に訪れたアルメニアとグルジアに比べると新しい車が多い.またその2つの国と同様に大小様ざまなサイズの東急コーチ的な乗合バスがコース番号を掲げて走っている.
デニムのパンツやスカートなど,全くイスラム戒律にのっとっていないことに驚かされた.別にこのような若者たちだけでなく,街行く人々は皆そうである.イスラムファッションで身を固めた人を探し出すのは殆どできないであろう(多分).
ガイドのアシアさん(女性)に依れば,アゼルバイジャンのイスラム教徒はイランのように熱狂的なことはなく,穏健だから,ということだ.とは言っても,筆者的には気が抜けるほどイスラム色がなく,ちとがっかり.
これは宿泊したホテルの窓からの光景.ホテルであろうか,オフィスであろうか?バクーのあちこちでクレーンが立ち,建設ラッシュのように見える.やはり中東産油国同様,原油で潤っているためであろうか?
バクーという名前は,ペルシャ語で「風が吹きつけた」という言葉に由来するとか,バクーは風の街と言われるそうであるが,実際強い風が吹いていた.普通,晴天で乾燥しているが,寒気と暖気がぶつかることで時折強風が吹き付け,また濃い霧を発生させるようである.タイミング悪かったのか,あいにくそんな濃霧にぶつかり,カスピ海クルーズの船が出航できなかったのだが.
都市バクーに関する最古の記録は885年のもので,その頃にはすでに油田の存在が知られていたそうである.ペルシア湾の油田が開発されていなかった20世紀初頭では世界の原油生産の半分を占めたそうだ.それだけに諸外国,イギリス,ソ連,ナチスドイツ等々のターゲットになり,守るために多くの血が流されたようである.
下は,バクー市街の写真あれこれ
バクーがイスラム国に見えない理由の一つに,街を見渡したときモスクがなかなか見当たらないことと,アザーンもなかなか聞こえてこないことがある.そう思っていたら,丘の上に上がり,このモスク(スンニ派だったか?)に案内されることになった.割と小規模で新しい外観だ.礼拝堂ではお祈りしている姿が見られた.ちょうど金曜日,ムスリムの集団礼拝の日にしては多くない.アゼルバイジャンでは学校やビジネスでは金曜は休みでなく,キリスト世界同様日曜を休みにしているのだそうだ.だから日曜日に礼拝に来る人もいるが,多くはない,とアシアさんの話があった.
印象としては,政教分離を進めるトルコとかと比べても,遥かに宗教色が薄く,日本のように薄い,と感じてしまったのは筆者だけであろうか?
モスクからさらに上ると墓地があった.アルメニア戦戦没者,ロシアに抵抗して命を落とした一般市民を含む墓,など区分けされて並んでいる.墓石には顔写真が刻まれているものもある.黒い石(花崗岩か?)の表面を境面状に磨き,そこにタガネを打ち,白くし,白点の密度で明るさをコントロールしてグラデーションを作り出している.なかなか見事な技だ.
大きな慰霊碑もある.向こうにはテレビ塔も見えている.アルメニアで頻繁に見かけた凝灰岩(トゥフ)のような色の石でできている.
墓地は緑が多く,見晴らしがいい.公園のように整備されているので,市民がよく散歩に訪れるようである.
下は,墓地の写真
ここのレストラン(FAYTON Restaurant)は昼食を食べたところであるが,地下が中東一帯でよく見られるバザーなどの建築構造と同じ造りだ.インテリアもなかなか凝っていて楽しい.感心して眺めていると,ウェーターがこっちも見るところがあるよ!と手招きしてくれた.アゼルバイジャン食,確か比較的硬いビーフやチーズ,生野菜....とかだった.ビールはちゃんとアゼルバイジャン製だった.
帰り際アシアさんから,ここはイスラム式レストランですよ~と案内があった.え~っ,何がイスラム式?と皆が訊く.なぜなら,ワインもたくさん並べてあるし,ビール(しかもアゼルバイジャン製の)も飲めたし,ごく普通に食事をしたのに.....と思っていたからだ.私たちは異教徒の外国人だから,一緒のテーブルだったけど,地元の人は男性用席と女性用席とで分けられているの,一緒に店に入ってきても別々に食べるのよ,と実際そのように,別々の専用テーブルで食事している場面を案内してくれた.またいくらイスラム色が希薄と言っても,例えばポークは決して食べることはないそうだ.
下は,イスラムレストランの写真