このツェレへ編では,2017年5月20日のトレッキングマップ,カグベニで朝を迎え,歩き始め,タンベりんご園前を通過し,タンベ村に至りランチそして同村を見物,歩き再開後奇岩エリアを過ぎ,チュクサン村を通り,アンモナイト河原で化石探しをし,ムスタンゲートを通過し,ツェレ村に到着したときの写真を載せました.
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トレック2日目の5月20日は,6:カグベニから,7:タンベ,8:チュクサン,9:ムスタンゲートを通り,10:ツェレまで歩き,ここで宿泊.赤い線が歩いたGPSのトラック.
この日のGPS記録では
歩行距離:17.2km
歩行時間:4時間42分
総時間:7時間46分
終点の標高:3,074m
だった.
5月20日朝がきた.南東を眺めるとニルギリノースが赤く焼けてきれいに見えていた.見事だ.この分では今日も晴れてくれるであろう.
カグベニのロッジで朝食を頂いた後,北に向けて出発した.
カグベニ北外れ,チョルテンとメンダンが連なり,脇にツーリストチェックポストのある辺りに来た.チェックポストではサーダーBさんがまとめて申請手続きを行い,私たちは歩きを継続した.
チェックポストを過ぎると,前日予め聞いていたようにカリガンダキ左岸の丘に上りはじめた.トレイルからはカリガンダキも周りの様子もよく眺めることができる.
暫く上り振り返ると,そこにはカグベニの様子が一目瞭然に広がっていた.密集した集落の周りに広大な扇型畑が展開されている.畑と集落は平坦な地に恵まれているのみならず,この乾いた地にあっても十分な水が得られる水源と水路が確保されているのであろう.実に見事なものだ.
さて丘を暫く行くと対岸(右岸)に小さな集落が見えた.4,5軒の住居があるようだ.それに見合って緑の耕作地も決して広くはない.こうして見ると,耕作可能な土地面積と居住者数が比例するという古来から長年真理であったであろう公理的事実が頭に浮かんだ.尤も近代都市になるほどそれが当てはまらなくなるであろうが.
トレイルを暫く行くとやがて自動車道になった.たまに通過する車は大量の砂を巻き上げ,名物カリガンダキ風に乗せられる.まあ,車道が開かれた今時歩いている方が悪いのであろうが....そのうち舗装されれば両者とも助かる.
馬のキャラバンも私たちを追い越していった.馬はかなりの負荷を負っているのに速い.
暫くして車道を離れ砂利のトレイルに入った.一見脆そうな岩峰の合間を縫うような場所もある.私は行ったことがないのだが,写真で見るドロミテの景観に少し似ているような気もする.
さらに進むと上とは逆に極めて人工的,アーティスティックとも言える岩壁を望む場所になった.垂直な岩壁には縦横色々刻まれた文様が展開されている.地層毎に侵食され易さが異なるためであろうが,おもしろいものだ.
暫く行くとタンベりんご園(Green Tangbe Ltd.,Organic Apple Farm)の丘に出た.このりんご園はかの有名な近藤亨氏の指導下で始められたそうだ.氏は新潟大学農学部助教授,新潟県園芸試験場研究員を経て,JICAネパールに派遣され,その後もネパール,ここムスタン地域開発協力会 (MDSA)の理事長として果樹栽培,学校や病院建設に尽力され,昨年2016年6月9日94歳で死去されたそうだ.
氏はブータンのダショー西岡氏と共に他国の農業に著しく貢献した日本人として,多くの人の心に刻まれていると思う.
ここのリンゴはネパール一美味しいと評判で,私も以前マルファ辺りでここ産のアップルジュースを頂戴した経験がある.
りんご園はかなりしっかりした土塀で囲まれていた.家畜,あるいはドロボーの侵入防止か.そこで少しよじ登って撮ってみた.リンゴの木はマトリクス状に整然と植えられている.比較的小振りだ.ここでは給水が大変だと思われるが山の水源から引いているのであろうか....
りんご園から少し先に行くとタンベ村の緑地が見えてきた.山からの水脈があるようでそれに沿うように緑のベルトと面が茶色のカンバスに描かれている.
谷あいのタンベ村まで砂地のトレイルを下った.急坂だ.りんご園で働いている人は,高台のりんご園と谷あいのタンベ村の間を行ったり来たりしているであろうから,毎日なかなか大変だ.
タンベ村のバッティに到着した.ここでランチの予定だ.
キッチンスタッフの人たちが調理を済ますまでまだ間があるということで2,3人で連れ立ち集落の中を見物に行くことにした.
タンベ村は緩やかな傾斜地に貼り付くように住居が建てられていた.その上部入り口には崩れかけたチョルテンが据えてある.石を泥で固めた構造に漆喰を塗り,赤い顔料で彩色したように見える.雨が極端に少ない地ではあるが,さすが長い年月経たためか崩れかけている.
朝発ったカグベニの村がそうであったように,このタンベ村もまた要塞的作りだ.狭い路地の両側には壁が建ち,所々路地を覆うトンネル構造が採られている.2つの村の都市計画策定者は同一人物であったのであろうか.
なお路地脇の壁はサキャ的色合いの彩色が目立つ.
斜面の路地をどんどん下ると,白赤黒ストライプに彩色されたサキャ派の小さなゴンパがあった.坊さんの常駐はない規模で,実際扉は閉じられていた.
ゴンパの並びには多くのチョルテンもまた続いている.集落の規模にしては数が多い.
チョルテン近くの壁の絵.鎖に繋がれているのが強調されている(と思う).魔物を捕らえた,抑え込んだ....とかの象徴かな?いや判らない.
ということでGoogle画像検索に頼ってみた.ただ出てきたのは例えば関内駅の落書き的画像が多く,ちょっと違うような......いや待てよ,この鎖絵もただの落書きなのかも知れないな~
チベット系部族女性は多色ストライプの着衣が特長だ.チベット族,シェルパ族....などストライプは星条旗などと同じように横向きが一般的だと思う.
ただここの女性は斜め45°くらいのストライプだ.こうしたデザインはドルパなどでも見られるが,きっとムスタン族の伝統なのであろう.多分.
ところでアッパームスタンの人々の言葉は,チベット語にとても近いそうだ.会話すると互いにかなり理解できるということだ.
山から引かれた用水路が村まで続いている.おばあさん,いやおばさんは川に洗濯に出掛け,桃が流れ来るのも待つのだ.桃が来なくとも井戸端会議もできていい場所なのだ.
洗濯を終えたら,脇の木の枝先や砂利の上に広げる.乾いた地なので早く仕上がるであろう.
なおちゃんと電気は引かれている筈だが,まだ電力量は小さく,洗濯機も一般的ではないのだろう.
写真上に車道が見える.ただタンベ村の辺りは谷底で,車道は曲がりくねり,効率が悪そうだ.多分この工事は一部橋を架け,楽な通りにするためのものではなかろうか.
この現場では男女ともに働き,金網に砕石を詰め石ブロックを作っている.かなり手作業に頼っており,長くかかりそうだ.
タンベ村を過ぎ,暫く進むと地面にニョキニョキ生えた筍状の奇岩が見えてきた.おもしろい.
奇岩の傍までやって来た.意外に大きいな~
それとこの巨大筍の表面を見ると,石ころを泥で固めたような脆そうな岩に見えるのだ.もし実際そうであれば,いち早く風化し,崩れ去り,地面に石ころと泥が貼り付くであろうが.....多分,実際は崩れ落ちにくい岩なのであろう.そう言えば氷河の氷塔のような感じだ.
これまで通過した村同様,茶色の大地に豊かな緑が展開されている.道脇には入り口のチョルテンが,奥には集落の建物が見えている.
チュクサン村は往きでは通過するだけだが,帰りはトレッキング終了点で,ここから四駆に乗り,ジョムソンに下る手筈になっている.
チュクサン村の皆さんがペットのヤギを連れて散歩中だ,と思ったが左4人はともかく,右の青年だけは散歩ではなくヤギを連れて餌場に追っているところだ.
上青年の連れたヤギ(殆どが子ヤギ)はこんなにたくさんいた.子ヤギながら斜面を素早く登る.ところでこの地方のヤギは黒いのが多く,成長するとまるで羊のように大きくなる.そうした種のようだ.
チュクサン村の畑の前になった.主に大麦でしょうか,よく育ち既に黄ばんできたところも見える.
ゲストハウスの看板も見える.店名Bhrikutiは,チベット初期の皇帝ソンツェンガンポ(SongtsänGampo:605-650年)の二人の妻の中で,ネパール王国から嫁いだBhrikuti王女の名に由来するようだ.
なおもう一人の奥さんは,一層有名な唐の皇女であった文成公主であろう.
チュクサン村集落の入口になった.チョルテンが数基並んで建てられている.皆白いので,以前Iさんに聞いたように観音菩薩の象徴であろう.
これまで通過し,見てきた集落の構造同様,ここチュクサン村もやはり城塞的構造で,通路脇の壁,トンネル...で構成されている.
トンネル入口にはこのような動物の頭蓋骨が掲げてあった.村のお守りだという.カグベニのあの愉快な守護神とはエライ違いですな.それにしても口の長い動物ですが何でしょう...?
チュクサン村出口側にもチョルテンが数基並んでいた.屋根付きの少し大きいのも見える.
この出口の先にはまたカリガンダキの河原が見えている.
チュクサン村を抜けるとアンモナイト河原に出た.この辺りではアンモナイト化石がよく見つかるということだ.
画面左下に3,4人の採集者らしきが見える.私たちの馬組の皆さんのようだ.採れたかな~?
さて私たちも一斉にアンモナイト化石探しに加わった.最初採取手法を聞く.黒っぽい石を見つけ,それを大きな台石に置き,別の大きな石で叩き割る,ということだ.中には既に割れていてアンモナイトだとはっきり見えるものもあるそうだ.
私は幾つか割ってみたが,タダの石で....ちょっとセンスが無いことを改めて認識した.中には3つも探し当てたメンバー(女性)もいるので,やはり能力の差が大きい.
ガイドTさんはさすがプロだ.こんな立派な化石を見つけた.合わせて3個探し当てたという.
それにしても割る前の外見は普通の石と差がないように見えるのですが.....あるのでしょうか?秘伝かな?
化石探しを終えてカリガンダキ河岸を歩いた.脇の茶色い岩壁は必ずしも堅固ではなく,部分的に崩れ落ちてもおかしくない地質に見える.
川縁を進むと衝立岩がトンネル状に抉られ,そこをカリガンダキが流れている.カリガンダキの川幅に比べればあっけないほど小さな穴に見える.たた広いカリガンダキ川幅も実際流れている部分はごく狭く,殆どは砂利原であるからこの穴で十分なようだ.なお何らかの要因で大きく増水したときは,衝立岩の脇をバイパスするそうである.
さてところでこのトンネルがムスタンゲートと呼ばれる由は,ちょうど奥のムスタンへの入り口辺りに位置している,ということらしい.
ムスタンゲートから続く橋でカリガンダキ右岸に渡った.チベット仏教圏の慣わしに従い,橋の欄干にはタルチョー(またはルンタ)が結ばれている.
ただこの辺りの風は半端ではなく,かなり引きちぎられているように見える.私たちも砂つぶてを顔に浴びて,痛いし砂まみれになった.
ムスタンゲート橋を渡りきったところで,ゲート側を眺めると岩壁中腹に16の洞窟が見える.ムスタン洞窟(Mustang Caves)とか空中洞窟(Sky Caves)と呼ばれるそうで,累計10,000人もの人手で掘られたらしい.前面は垂直壁で50mの高さにある穴なので背後から掘り進められたようだ.そもそも2,000年昔の古代に,住居や穀物貯蔵,さらに銅や宝石,ガラスビーズを纏った遺体の埋葬地として使われた痕跡もあるらしい.
そして比較的近年のものでは古い仏教の装飾美術や壁画,写本,陶器,600年前の人骨,仏教とボン教ミックスの写本の彩飾などが見つかっているということだ.そうしたことからここは修行僧が篭って瞑想した場所でもあったと推定されているようだ.
16洞窟を眺めた後,ツェレ村への道を上った.強風が何とか弱まってくれれば,という一心で歩いた.河原から少しでも離れればきっと幾らかましに....
今夜の宿泊地ツェレ村に到着した.この村もやはり傾斜地に住宅が建ち日常生活に筋力が要りそうだ.
写真はちょうど村のゴンパの脇で,マニ車が並んでいる.ゴンパは小振りで常駐の僧は居らず,門は閉ざされていた.
ツェレ村の途中にゴラパニというか馬の水場というか,小さな池があった.現に近くに馬が休んでいる.
この池の周りには結構太い幹の先が切り取られ,そこから多数の小枝が伸びている.この樹はムスタンに入ってからあちこちで,さらにこの先でも随所で見かけることになる.ガイドJさんに訊いたらネパール語では『チベットの菩提樹』のような意味合いの呼び名があるそうだ.普通の菩提樹のように葉先に長いとんがりが無いが少し似ているかも.
さて幹を途中でちょん切り,小枝を出す理由であるが,この地方で一般的な住宅は石や,日干しレンガ製であるが,床や屋根,梁などは木材に頼る以外なく,そうした用途に小枝(とは言っても直径15cmくらいはある)を供するためという.確かに太い幹はゴンパなどの大建築には必須であろうが,数が必要な用途には小枝を多く出さないと間に合わないのだ.
さてツェレ村テントサイトに到着した.テントを張ってもらい,たらいのお湯を配ってもらう.砂だらけの顔だけに,ありがたみもひとしおだ.
なお夕食は,サイトオーナー経営隣のロッジダイニングルームで私たちのシェフ調理の品を頂戴した.
ところでこのサイトでは夜間犬がギャンギャン吠えて,やかましいし,怖くてお手洗い(あるいは立ちション)に行くのもままならなかった.ひょっとして立ちション防止のため,サイトオーナーの命で吠えてたのかな~
夕食まで大分間があるのでツェレ村を歩いてみた.斜面の土地に白い家々がひな壇状に建てられている.屋根にはやはり大量の丸太が載せられている.ただこれまでの村と違って城塞的様相は見られない.戸建住宅がそれぞれ建てられているといった感じだ.
当家の大旦那さんであろうか,お孫さんと遊んでいる場面であろう.あまり寒くないのに耳あてキャップはちょっと過保護かな~
キティちゃん(パクリ?)も,階段後ろのビール瓶の箱(拉薩ロ卑酒)も,やはり相当中国パワーが入り込んでおりますね.
たしかゴンパ近くで見かけた香木焚き炉.チベット仏教文化圏では普通朝に香木(炉の左に置いてある)を焚くのをよく見かける.この辺りは植物一般少ないので香木集めに苦労があるかもしれませんね.