アデンは旧南イエメン(イエメン人民民主共和国)の首都.古くから海運の要衝として注目され,オスマン帝国,エジプトの支配をへてイギリスの植民地支配を受ける.イギリス統治下で急速に港湾として機能が充実し,人口が増加し,現在約59万人に達するそうである.
タイズから一路アデンに向かった.多くは荒地であるが,緑豊かな処,旧南北イエメン国境,砂漠を越えて行った.緑から砂漠へと,国土はそれなりに多彩であるとも言えよう.
このような緑豊かな光景,筆者にとっては本来ごくありふれた"普通”の光景である.なのに,ほんの少しばかり数日続けて茶色一色の景色を見ていたがために,たまにこのような光景に出会うとやはりほっとする.多分アラブの人にとっては"普通”どころかとても並ではない光景に見えた筈で,その遭遇場面を想像すると"幸福のアラビア"と云う言葉がリアルに実感されてくる.
前ページで書いたがバスは殆ど見かけない.ここのちゃんとカートマーケットを備えたサービスエリア?でようやくこのような乗合バスを見かけたのであるが,エンジンの調子が思わしくないのかエンジンルームを開放し覗いていた.客観的に言えば殆ど廃車に近い状態だと思う.
やがて旧南北イエメン国境辺りに差し掛かる.殆ど痕跡を留めないが僅か残る税関の標識跡(らしい)で無理やりその頃を想像してみるが.....やはり無理だ.今は国境の緊張感を偲ばせるものは皆無で,このように放牧のラクダや山羊,羊がのどかに少ない草を食んでいる.
ガイドのムハマドさんに教えてもらった旧国境線をマップに書き入れてみた.正確性はちょっと置いといて,これまで通ってきた町は全て北イエメンに属し,これから向かうアデンから旧南イエメンに属するのがポイントだ.それにしても国境線で分割された領土の位置を眺める限り「南北」というより「東西」イエメンの呼称こそがピッタリするように思えてならないのだが......
ところでその南北イエメンに分裂していたころ,南イエメンは中東唯一のマルクス主義政権時代があったそうで,それゆえこれから向かう旧南イエメン地方は,例えばイエメン建築とかジャンビアの風習など,伝統的文化財,無形文化財のかなりが失われたそうである.
旧国境を越えなおも走るとやがて美しい風紋の砂丘地帯,ハゲル地帯にさしかかる.概ねどこも,こんな言葉はないのであろうが,俗にいう”土漠”であるので,やはりこのような砂漠らしい砂漠に出会うときれいだと思う.
下は,タイズからアデンへ向かう途中の風景あれこれ
タイズから南下を続け,建設ラッシュに沸くアデン郊外を通過し,ようやくここアデンに着く.アラビア海アデン湾に面した街だ.現在59万人の人口はイエメン2番目だそうだ.アデン港の小島にはイエメンモバイルの大きな広告文字が目立った.
ところで歴史を遡ると,アデンは1800年代から港町として栄え,当時リバプール(英のあのビートルズの街),ニューヨークに次いで世界3番目に大きい港だったそうだから,当時はすごかったであろう.インド洋から紅海,スエズ運河を経て地中海に至る海運の要衝として重要で,それ故一時イギリスに統治され,またソ連支配下になった歴史がある.
ゴールデンチューリップホテルのバルコニーからはアデン港が一望できた.最近イエメン各地で新たに見つかった油田から産出される石油や天然ガス製品がここから出荷されていくそうで,港近くには精製工場も見える.
かつて,2000年10月ここアデン港に給油のため寄港した米海軍イージス艦に,爆弾を積んだ小型船が突入し,米兵17名が死亡という事件があった.アデン港のどの辺りなのだろう?FBIではアルカイダやビンラディン氏の関与があると見ているようであるが....
この港に夕陽が沈むと,やがて静かなこの辺りは人影も疎らなほの灯りに包まれる.ここもネオンはあまり見当たらず,白熱灯,蛍光灯,水銀灯と専ら照明用で落ち着いた夜だ.
上述のホテルは伝統的イエメンスタイルではなくごく一般的なヨーロピアンスタイルであったが部屋が広く,昼食,夕食ともにビーフが美味しく,また珍しくビール(ハイネケン350ml)が置いてあり,しかも650リヤル(400円くらい)とリーズナブルプライスであった.これも一時イギリスに統治され,また社会主義社会を経てきたことと無縁ではなかろう.ただ付け加えておくと,これならきっとコーヒーもいける筈だ,と試してみたが,「うっ,な,なんだこれは!」というのが実感だった.
ここアデンはサナアやタイズなどこれまで訪ねた町と比較すると伝統的イエメン建築は極めて少なく,殆どがこれといった特徴のない近代建築だ.観光者の立場からするとちと寂しい感は否めない.上でも触れたように旧南イエメン社会主義政権下では古い建物がたくさん壊されてしまったのだそうである.
沖合いに見えるは街に着くとき見えたイエメンモバイルの広告文字のある小島だ.
浜辺の近くで見かけた白い住宅群,いや浜辺の別荘か?も窓が小さいなどイエメン風ではあるがイマイチ近代風であった.
ここアデン湾の浜辺では家族連れが波打ち際で足を浸し,海鳥が餌を探すのであろうか波の移動に同期してヨチヨチ歩き回っていた.また近くの別の浜では地元の人がよく訪れるであろうオープンカフェがいくつか並んでいた.紅茶が主であるが,アラブ圏の常識に漏れずいつも砂糖たっぷり,甘すぎるのにはいささか閉口する.
下は,アデン港の写真あれこれ
アデンの住宅街を過ぎ,山間のアデンタンクに向かう.この辺りは新市街なのであろう,イエメンらしさはあまり感じられない街並みだ.でもカーフィーヤに白いアラブ服,腰巻ファッションの通行人をみれば,やはりイエメンだ.
1世紀に造られ始めたという貯水池.飲料水の確保と洪水除けの役目を果たしたようだ.「シバの女王の水瓶」とも呼ばれているようだが,観光向けかな?大小18の貯水池が岩山の谷あいを利用して上手くダムでせき止め,池を形成した構造に見える.
看板によればどうやら永い間埋もれていて1854年に偶然見つかったようである.
入り口付近は多くの木立ちとブーゲンビリアなどの花の咲く公園のようになっており,地元の人々の寛ぐ姿が多く見られた.
下は,アデンタンクの写真あれこれ
この辺は旧市街クレーター地区と呼ばれるらしいが,Crater = 噴火口とすると周りは平地に見えるのでピンとこないが.....一説によれば古い噴火口跡だとも.....
で,中央の白いミナレットはあるサイトでは8世紀に建てられアデン一古いミナレット,その名もアデンミナレット,と記されていた.でもきれいでそれほど古くは感じられない.普通ミナレットはモスクに併設されるがここの周りにモスクは見当たらず,独立である.永い歴史の間に本体のモスクは破壊し,なくなってしまったのだろうか?
いや,ガイド庄司さんが灯台と言っていた.....ような気がしないでもない.でもそれはそれで変だな~街の真中だし~今となっては訊く術がなくなってしまった.
こういった分野は甚だ不得手であるが,詩人ランボー,広辞苑第5版に依れば,Jean Arthur Rimbaud:ランス象徴派の詩人.ヴェルレーヌと共に放浪.早熟な天才で16歳で書いた「酔どれ船」以後3~4年で筆を絶ったが,近代詩に大きな影響を与えた.作「地獄の季節」,散文詩集「イリュミナシオン」など.(1854~1891),と記されている.その人が1880年に来て気に入り,ここの2階でエチオピア人の女性と暫く暮らしていたそうである.
ランボーレストラン/カフェテリアの看板が掲げられており,2階から上はホテルになっているようだ.なおこの辺りはその昔英国人が多く住んでいたので英国式建築が多くみられる地区でもある.
アデンにはイエメン国民のキリスト教徒が2,000人ほどいるそうで,これはその教会.ランボーハウスからほんの少し歩いた場所だ.イスラム風のシンプルな様式を採りいれ,なかなか美しい.なお自国民のキリスト教徒はここアデン以外では皆無だそうである.
下は,アデン旧市街クレーターとアデン空港の写真
食料品,衣料品,金物,....まあ他のスークと同様種々雑多な商店が軒を連ねている.夕刻という時間帯のせいか人出はとても多い.
この人はこの辺りのカートビジネスのカオだそうで,側の者が「写せ写せ」としきりに言ってくれた.たしかにいい顔をしている.ちょっとボケてしまったのが残念だ.ここイエメンでは女性を写してはいけない,と言われるものの,男どもや子どもはよく「写せ写せ」と言ってくれるので大変ありがたい.
ところでこのスークの一画を占めるカート市場は,売る人,買う人でごった返している.イエメンでカートビジネスが一大産業であることが実感できる.
1960年代までは,カートは都市の一部上層階級の占有物で,庶民はせいぜい断食(ラマダン)明けや結婚式にのみ味わうことができたそうである.ところが近代化が進むとともに庶民の需要が増し,また痩せた土地でも栽培できるというカートの特性がここイエメンではぴったり適合し,供給面でこれに応えたようである.それと,カートは生鮮食品であるので流通システムが重要であるが,道路の整備と,我々が今回用いているトヨタランドクルーザーのような4WD,宅配便並みの高速運輸事業の普及が大いに貢献したようだ.その結果,今日のイエメンでは貨幣流通量の実に1/3が何らかのカート産業に関わっているとさえ言われているようだ.しばしばカートの弊害が問題視されるようであるが,農村へ貨幣が流れ,所得格差縮小をもたらすなど一定の効果も生んでいるようだ.
下は,スークの写真あれこれ