モカからタイズに向かう.タイズはサナア,アデンに次ぐイエメン第3の都市で人口約40万人だという.南部山岳地帯の標高3,006mのサビル山の北斜面中腹に広がっている.イエメン王国時代1948年から62年までは一時国の首都であったそうだ.
モカからは一旦元来た道を東にに引き返し,そのまま砂漠っぽいところを東進し続ける. やがて左手に山が現れ,南部山岳地帯に入ってくる.左の写真のように道端にはごみが散乱している.例えばエジプトなどアラブの他の国や,インド,中国などアジアでもごみはそれなりに多いが,辺り構わずという普遍性(?)からするとイエメンのごみは残念なことにワーストワンではなかろうか?日本の山などでも昔はごみは普通だったが,最近は皆持ち帰る.やがてきれいになっていくものと期待したい.
南部山岳地帯のいくつかの町や, 村を越えて,やがて夕陽が山の斜面を照らす頃タイズの町に入ってくる.
ホテルの部屋に入り窓を眺めると,東のモスクのミナレットに灯がともり始めたのが見える. この宿のキブラとコンパスを並べるとやはりメッカは北の方向で,タイズは概ねサナアから南下した位置にあることが想像される.
モカで受けた砂嵐を風呂で洗い落とし再び外を眺めると,夜の帳がタイズの街を覆っていた.
上の写真と同じ方向を眺めるとこんな風に見えた.右手の山の稜線には城砦が築かれているのが目に入る. 目を凝らすととても多数のモスクが見える.道理で今朝のアザーンが尋常でない,つまり未明の4時半頃から5時半くらいまで別々の方向から別々の音色,リズムで引っ切り無しに聞こえてきた訳だ.これまで経験したどのイスラム都市,普通は未明に1回,と比べても圧倒的に際立った回数と音量だ.
ところでお祈り(サラート)の呼びかけ,アザーンは1日5回のお祈りの少し前にモスクのスピーカーから流される訳であるが,このタイミングは添乗庄司さんに伺ったところ,
ということだった.よって普通の太陽暦の時刻とは日によってズレ量が変化し,また国毎に,およびその国の標準時位置からの経度の差異に応じてアザーンの時刻が変わってくるのが判る.
またこれで4時半頃から5時半くらいまで別々の方向からアザーンが聞こえてきた理由もはっきりした.つまり,それぞれのモスクのアザーン担当者毎に視力の差があり,暁の礼拝用=白糸と黒糸が見分けられる頃....これに個人差が生じた結果に違いない.
山の中腹に作られた街なので自ずと坂が多くなるのだろう.場所によってはとても日当たりが良くなるが,この灼熱の国では日当たりはむしろ歓迎されないどころか,積極的にそれを避けた都市計画が結構一般的なようだ.具体的にはこの後訪れるシバームなど,建物を密集させて日当たりを避ける例も多いようである.
宿泊したタージシャムサンホテルの近くを朝散歩すると,珍しく斑点のあるラクダを連れた運送屋さんがお店の前で集荷作業を行っていた.イエメンだからといってこのような光景を頻繁に見かけるということはなく,普通のトラック運送が殆どだと思われる.
下は,タイズ市街,と言ってもタージシャムサンホテル近くの写真だけであるが
アシャラフィーアモスクは白い2つのミナレットが特徴だ.タイズの街を見下ろす高台にある.
2つのミナレット正面方向から眺めると「パリのノートルダム寺院と少し似ている!」という意見があるそうである.ただ,筆者は「たしかに2つの尖塔という共通点があるも,色も形も全く違うし,あのように精緻かつゴテゴテした感じも受けないし,.....」と甚だ懐疑的である.
13世紀のラズーリ朝時代から200年を費やし名にもなっているスルタンアルアシュラフが建立したそうで,お墓が内部に設けられている.写真の扉がその永い歴史を伝えている.
内部の天井や柱の装飾が素晴らしいが,相当傷んでいる.現在はコーラン学校として使われているそうで,モスク内部では数人の男による修復作業が行われていた.
下は,アシュラヒアモスクの写真あれこれ
ここはサビル山の中腹.右に見えるのが山頂....の筈.残念ながら標高3,006mという山頂は車の通る道がないのか,それとも軍の施設なので立ち入り禁止とも.....
稜線に沿って城壁が築かれているのが見える.アルカヒラ城塞と呼ばれ,オスマントルコが支配していたころのものらしい.
こちらも稜線に沿って城壁が築かれている.眼下のタイズの街を挟んで遥か向こう側にも山並みが見えるが,ここにも城壁があるのであろうか?
右下に2本のミナレットがそびえるアシュラヒアモスクが見える.他にも大小のミナレットがいくつか見える.やはりイスラムの国だな~と実感する.あまり木の生えていない山で囲まれたミナレットのあるこうした街並みはモロッコのフェズを思い起こさせる.
一般に女性は黒づくめの人が多いが,このスークではこのようにカラフルな衣装で顔も覆わない女性を結構見かける.この人たちは山の上に住む部族で,その地方の産品をこのスークに運び,売り,そして帰りに自分たちで消費するものを仕入れて家に戻るという話だ.手で支えずに頭で物を運ぶ技はなかなかだ.首がメチャ太くなってしまう!という見方もあるが.
世界どこでも似たようなものであろうが,日常衣類,野菜,炒子や乾物類,日用雑貨,香辛料,お茶類.....等など,多分普段の生活に必要なものは大体揃うのではなかろうか.
筆者がここのある店先でカーフィーヤ(ターバン)の布をちょっと覗いていたら,次から次へと,これは幾ら,あれは幾ら....と売り込んできた.「う~ん,イマイチだな~アラファトのみたいな模様のない?」と言ったら,自店では在庫がないからとわざわざよその店へ探しに行って仕入れてきた.そうまでされると引っ込みがつかなくなる.最初2,000リヤル(Yemeni Riyals)と言うので,「高いな~」と何度か言ったらYR1,400にしてくれた.円換算では1,000円くらいか?アラファト柄はプリントではなくちゃんと刺繍されたもので多少高め(他の2倍くらい)の値段だったのもそのためか?翌日以降早速これを頭に巻き,強い日差しを避けることができた.ただ2日目くらいからそのアラファト刺繍は早くもほつれ始め,その辺に引っかかってちょっと困った.まあ旅のおしまいまで何とか実用性を維持(単なる頬被りだが)してくれたからいいとしよう. さて背景のサビル山が夕陽で輝き出した,そろそろホテルに引き上げなくては!
下は,スークの写真あれこれ
1962年王政打倒革命が起こり,当時の北イエメンを支配していたイマームのアフマド,実質的に王様,が打倒されたようだ.アフマドの息子アルバドル王子などイマーム一族はサウジアラビアへ逃れたようである.後8年間北イエメンは内戦状態に陥り,やがてイマーム体制は完全に排除されたようである.ここは革命までそのイマームの居城であったそうであるが現在は博物館として当時のイマームたちの生活ぶりを公開しているようである.~のようである....などと歯切れが悪いし,せっかくここまで来て単にここ外から眺めただけで引き上げるのは甚だ残念だ.とりわけ筆者にとってイマームと言えばシーア派にとっては特に重要なイマームアリなど預言者と同等以上の聖なる存在なのにどうして?と云う疑問に対する糸口が欲しく思うのだが.....
この中庭の先(写真で左端)は現在サッカー場になっているそうであるが,当時は反政府運動者に対する斬首などの公開処刑が執り行われたようだ.中庭に面するテラスからその様子が窺えたようである.それにしても1962年と言えば筆者の生まれた年のず~っと後で,割と最近のことなのだ.歴史ってそこに居れば日常のことかも知れないが,外から観るとか,後の世から観れば大きな変化であったりする場合があり得るのだろう.