アクスムAksum
このアクスム編では,2020年1月24日午後テグレの岩窟教会見物後A2街道を北上し,エリトリア国境近くアディグラットでブレイク後西に向かいアクスムに到着,ホテルチェックインし,夕食.明けて25日朝食後オベリスクフィールド,シオンの聖母大聖堂,バスケット市場,アクスム土曜市,シバの女王宮殿,エザナ王の戦勝記念碑,カレブ王の墓,シバの女王沐浴場を順次観て,ホテルにて休憩で昼下がりのアクスムを眺める.その後ヤハ神殿を訪問し,アクスム郊外の夕景と夕食の写真を載せました.
アクスム付近のGoogleマップ(静止マップ)map around Aksum
テグレの岩窟教会を去り,A2街道を北上し,エリトリア国境近くアディグラットで西に折れ,アクスム15に至った.
別窓で大きなGoogleマップを開くアクスムへgo to Aksum
テーブルマウンテン見える
テグレのレストランで食事後A2街道に入り北に進んだ.砂利っぽい段々畑の向こうにはテーブルマウンテンが見えている.この辺りテグレ山地(Tigray mountains)は概して少しくすんで見えるのがちと惜しい.
アディグラットに来てコーヒーブレイク
そのうちエリトリアとの国境の街アディグラットに入った.街灯が整備され,糸杉なども植えられている.ガイドFさん馴染みのカフェに入り,コーヒーブレイクをとった.
ブレイクの後は西に進路を変えて進んだ.
アディグラット先の峡谷
この辺りもテグレ山塊の一部であり,深い峡谷が走っている.バスを降りて眺めて見たが,この時期は水位が低く水面は望めない.
そして驚くことに,峡谷両脇の比較的傾斜の緩い土地には段々畑が作られている.今は収穫後なので何も栽培されていないが,雨季は一面緑になるのでしょう.
どこからか子供が駆けつける
近くに民家がない辺りに停車した筈だが,どこからともなく子供が駆けつけてきた.どこかで監視しているのだろうか,私達を発見するのも,駆けつけるのも速い.将来は刑事かな.
バス停で待つ人達
標識は出てないがバス停のようである.どこでも手を挙げればバスは停まってくれるのであろう.バスでなくても停まってくれる車もあり,そうした場合はバス相当料金を支払うようだ(不確かだが).
耕された畑
きれいに耕された畑だ.この辺りでは9月に麦を撒き,10月末に収穫すると,聞いたように思うが....いくら何でも成長が速すぎるような....聞き違いか.
アトワ山地の夕暮れ
アクスムに近くなった.そして夕暮れとなり,西の山に陽が落ちていった.
この山はアトワ山地(Adwa mountains)と呼ばれ,かつてイタリア軍との戦いで勝利した地だそうだ.これは1896年,メネリク2世率いるエチオピア軍がエリトリア海岸から侵入してきたイタリア軍6,000人以上の将兵を死傷せしめ,これによって植民地化されることから逃れられたという.アフリカで植民地化されなかったのは稀だ.
アクスムのホテルに到着
暗くなってアクスムのヤレドゼマ国際ホテル(Yared Zema International Hotel)に到着した.バスドライバさんご苦労さまでした.
直ぐに夕食
チェックインすると,お腹が空いていたので個室レストランで直ぐに夕食となった.これを見るとバフェで一緒くたに節操なく盛り合わせたように見える.多分美味しかったと思う.
夕食後は部屋で落ち着く
この日の行程は全て終わり,部屋に入ると,ゆったり過ごし,眠りに就く.
オベリスクObelisk(Stelae) Field
朝のアクスムの眺め
さてヤレドゼマ国際ホテルで朝が明け,1月25日になった.部屋の窓を眺めると天気は良さそうだ.そして比較的樹木が茂り,低層建築の多いアクスムの街が見えた.建築中の建物が目立つのは他の都市と同様だ.
現在アクスムの人口は48,000人で,その3/4はエチオピア正教徒,残りはイスラム(スンニ派)や非正教系クリスチャンという.
かつてイエス誕生以前に興きて,徐々に栄えたアクスム王国の中心地だったそうである.同王国は東ローマ帝国の半同盟国として海上貿易(当時は海に面した領土在り)で栄え,既に当時からキリスト教に改宗したというから驚く.なおエザナ王の洗礼名アブレハは,前日見てきた岩窟教会の名に冠していた.だがイスラムの勃興でアレクサンドリアやコンスタンティノポリスといった主要市場との貿易が絶たれ,かなり衰えたのでは....という説があるようだ.
さらに伝説では紀元前10世紀,シバの女王国首都だったとも言われるそうな(あくまで伝説レベル)
ヤシの並木を行く
この日は先ずオベリスク(ステッレとも呼ばれるようだ)を見に行く.ホテルを出るとヤシの並木を通過した.これまで廻った他都市ではあまり見なかったので,これもなかなかいいな~と思った.
オベリスクフィールドに近づく
オベリスクフィールドに近づいてきた.トゥクトゥクも目立つがラクダが闊歩し,ロバ車も通っている.なかなか楽しい光景だ.
複数のオベリスクが立つ
オベリスクフィールドに着いた.複数のオベリスクが並んで立っている.後ろには小型タイプも立てられている.一部は近年他から移設されたそうである.こうしたオベリスクは,表面にドアや窓などのレリーフ模様が施され,主に墓標を意図したのではないかとされているようだ.
全て一本の硬い花崗岩製で,写真中央は全高26m,170トンのエザナ王のオベリスク(King Ezana's Stele)という.このオベリスクは一時支配されたムッソリーニが3分割してイタリアに持ち去り,70年間ローマに立てられていたそうだ.やがてイタリア軍を打ち負かした後,交渉の末ようやく2005年に返還され,つなぎ合わせて立てたのが今見ている姿という.
倒れた巨大オベリスク
フィールド左端に倒れた巨大オベリスクがある.全長33m,重さ250トンで,ムッソリーニが運んだものよりさらに大きい.これは寝かした状態で加工し,仕上げた後,縦に起こそうとして失敗,倒れて地面に打ち付け,破壊した,と考えられているそうだ.3世紀ラムハイ王のオベリスクとして立てる予定だったようだ.
住居を模したレリーフなどが彫られている.花崗岩なので長い年月でも風化が少ないですね.
なお近年では,ワシントンDCのモールに169mという非常に高いオベリスクが立っているが,これは多数の石ブロックを積み上げた構造で,一本石とは大きく異なっている.
オベリスク脇の地下墳墓
オベリスク脇には大きな石で作られた地下墳墓があった.写真はそこに下る階段口だ.
地下墳墓の玄室
地下墳墓の玄室には複数の石棺があるが,世の常として盗掘され,空っぽだったという.
ところで石組みの精度は圧倒的に高い.インカの石積みではカミソリの刃一枚も通らない,と言われるが,ここアクスムの石積みも同じように見える.時代はず~っと古いが.
鋼鉄のジョイント
積まれた石は互いにズレないように,並ぶ石の双方にT型窪みを彫り,I型鋼鉄製ジョイントを嵌め込んでいる.これで精度維持,耐久性は相当向上すると思う.
当時鉄や鋼の技術は相当進んだ段階に達していたのだと思うが改めて感心する.せっかく見せて貰って礼を失するかも知れないが,レベル的にはジンカのアリ族鍛冶屋さん以上かも.
シオンの聖母大聖堂Church of Our Lady Mary of Zion
シオンの聖母大聖堂外観
シオンの聖母大聖堂に行った.外観は円筒状本堂に十字形に張り出した部分があるようだ.私には円筒状教会建築はエチオピア正教独特,若しくは稀な形態に見える.
この教会では代々のエチオピア皇帝が礼拝し,一時中断したが,帝政の終焉まで再び歴代皇帝が礼拝していたということだ.
歴史をたどれば,元々モーセの十戒石板のアークを収めるためソロモン王がエルサレムに建立した神殿の場所がシオンの丘だった.そして前述のエザナ王の時代(4世紀),1,400年前にソロモン王から奪い取ったアークを保管するために,シオンの名を冠してこの教会が建てられたという.以来イスラムの破壊や,また女人禁制の伝統があったので,ハイルセラシェ皇帝が女性も参拝可能な形に近年建て替えたとのことだ.
シオンの聖母大聖堂入り口前で結婚式
ここはシオンの聖母大聖堂の信徒入り口前,即ちここから入れば礼拝堂前室のある場所と思われる.
ここで楽隊入り結婚式(或いは披露宴)が執り行われていた.礼拝堂の中ではなく,外という点が風変わりだ.中ほど傘の下が新郎新婦であったか.参列者はミサの場合とかと同じように白い装束を纏っている.
シオンの聖母大聖堂礼拝室
本大聖堂は1960年ハイルセラシェ皇帝(別ページで記したが急進派組織デルグに倒された最後の皇帝)が在位中に建設した.
丸く広い主礼拝室は全周明り取り窓があり明るく,周囲は旧約聖書や新約聖書の内容を解りやすい絵にして掲げられている.
突き当り中央が至聖所,右側が懺悔室(正教でもあるのか?)の並びかな....
びっしりではないが正教なのにベンチも設けてある.ちょっと珍しいかな.
シオンの聖母大聖堂のお坊さん
この方はシオンの聖母大聖堂のお坊さん.いろいろ説明して下さった.黄色い袈裟いつも右手にエチオピアンクロスを携えている.
1000年使用のバイブル
もう一人のお坊さんが1000年間使用のバイブルを書見台に開いて見せてくれた.このページは左:聖ジョージ,右:聖母子像ですね.このように文字に比べて絵がふんだんに使われ,何人にも理解しやすい工夫が見られる.
印刷媒体は羊皮紙のようであるが,何より1000年使われているにしては印刷が非常に鮮やかだ.印刷染料若しくは顔料がそのように長く持つかな.....些か疑問に....
石版を収めた礼拝堂
ここはシオンの聖母大聖堂から少し離れた厳重な柵の中に建てられている礼拝堂.ここには契約の聖櫃,つまり十戒の石版と容器アークが納められているとされる礼拝堂.建物自体は1665年建造でかなり新しい.
ここはもちろんお坊さんも含めて立ち入り禁止で,私達観光客や信徒は,男性のみ柵の外側まで歩いていける.でも完全に女人禁制で,柵の外にも入れない.イスラムモスクのようでびっくりした.
バスケット市場basket Market
道路で結婚披露宴
シオンの聖母大聖堂を出てバスケット市場に向かった.途中オープンカーの花嫁花婿を祝して車の周りを踊りまくる親類縁者の皆さん御一行に出会う.先ず公道上ということ,それとそこで大々的に繰り広げられる 歌舞音曲.これには改めてたまげてしまった.
大きなフィカスマグノリア
テグレの岩窟教会でも見たあの大きなフィカスマグノリアの木があり,大勢の人が集まっている.主にバスケットを売買する市場があるそうだ.
並べられたバスケット
市場で並べられたバスケットはこうしたもので,インジュラなど食品容器,そうした容器の蓋など色々.所々色付きの模様を入れたデザインなどでアピールしている.
はみ出たお店
大きなフィカスマグノリア傘に入り込めないバスケット以外の日用品店などは,はみ出て営業している.いろいろ商売も大変ですね.
アクスム土曜市Aksum Saturday market
穀類のお店
バスケット市場の後はアクスム土曜市を訪れた.写真は穀類や豆類のお店で,掘っ建てアーケードの下なので常設店であろう.地味な商品ながら必需品なので季節を問わず安定した売上が確保できそうだ.
八百屋さん
こちらは地面に広げられた最も一般的な八百屋さん.キャベツは一番上の皮(葉っぱ)を剥がして販売しているのが印象的.うちの近くのスーパーは保護のため剥がしてないのが一般的だ.
はみ出たお店のタイヤ飼い葉桶
市場に入り切らないお店は入口辺りの路上で商品を並べている.ピンク壁手前は古タイヤリユースの飼い葉桶専門店だ.以前ベトナムのシンチェン水曜市でもほぼ同形式の飼い葉桶を見たことがあった.古タイヤリユースのサンダル(ホーチミンサンダル)と共にベトナム人と発想が似ているのでしょうか.
ラクダやロバが待機
路地では買い上げた商品を自宅まで運んでくれるラクダやロバの運送屋さんが待機している.特に穀類など重量物,あるいは市場の卸売り店から大量に仕入れた小売店には重宝であろう.車が通れない狭い隙間も歩けるのが強みだ.
なお朝一番は出品者の商品を運び入れるのに働いたものと思われる.
シバの女王宮殿Queen of Sheba Palace
シバの女王宮殿
小型バスでシバの女王宮殿とされる広い石積み構造物見物に行った.石積み壁の下部はかなり整然としており,上部はあまり丁寧ではなく修復されたように見える.また内側には廊下の跡であろうか,きれいに敷石が貼られている.
こうした壁などの構造物は5世紀頃の地層の下に,5層の石積みの痕跡があるという,しかしシバの女王はおよそ紀元前1000年ころの人物で,1500年も離れているので,やはり伝説の域を出ないのかな~ということだ.
パン焼窯の跡か
遺跡の一画にパン焼窯のようなものがあった.周囲も含めてかなり雑な造りで,あまり年数も隔っていないように見える.やはりシバの女王時代ではなさそうですね.
それと一般にはシバの女王はイエメンの人,というが通説だと思うが......だが,エチオピアには,あるエチオピア女性(実はシバの女王)がソロモン王と一夜の契りを交わし,息子メネリクを授かる.やがてメネリクは成人となり,父ソロモン所有のアーク(十戒が刻まれた石板を収めた契約の箱)を奪い,エチオピアに持ち帰った.そして現にそれが上記シオンの聖母大聖堂の別棟礼拝堂に厳重に保管されている.というのが根拠だそうだ.
なおメネリクは最後の皇帝ハイレシェラセの先祖ということになっているそうだ.
そしてそのアークのミニチュアレプリカ「タボット」が全国の正教会に保管され,それを祝うティムカット祭も年々大々的に繰り広げられていて,現に私達もつい先日祝ってきたではないか.....ということらしい.
エザナ王の戦勝記念碑Ezana Stone
アクスム王の遺跡
現在アクスム王の公園と呼ばれる遺跡を訪れた.ここには,上述の最大オベリスクの主,アクスム王国最盛期のエザナ王(Ezana)が戦勝を記念し4世紀建立のエザナストーンと称される石碑が置かれている.
これがエザナストーン
エザナ王が多神教からキリスト教に改宗したこと.当時の軍事経済大国ヌビア(クシュ)のメロエ王国を攻め,大勝したことが,ゲエズ語,サバ語,ギリシア語で記されているということだ.
この写真の部分はゲエズ語でしょうか?ゲエズ語は文字を含めてこの頃から使われだしたが,10世紀頃には日常語としては廃れ,聖書など専ら宗教用語として継続されているようだ.実際シオンの聖母大聖堂で見せてもらったバイブルはゲエズ語だったようだ.
三カ国語で記されているところはロゼッタストーンのようであるが,4世紀と比較的新しいので,解読には多分問題なかったのではないでしょうか.
カレブ王の墓Tombs of King Kaleb
6世紀の地下墳墓
6世紀頃に建造されたとされる宮殿の地下墳墓.898年にドイツの考古学者が発見し,現在も発掘調査継続中とのことだ.カレブ王,お妃,息子カブラマスカル王の石棺が並んでいるが,やはり空になっていたという.
精密な石積みに刻まれた十字架
ピッタリ精密に積まれた石に,十字架が刻まれていた(中央から少し右).
カレブ王は,6世紀にエチオピアの版図を広げ,イエメンまで支配下に置いたということだ.
シバの女王沐浴場Queen of Sheba's Bath
石畳の道を行く
カレブ王の墓の後,シバの女王沐浴場に向かった.街の中ではないのに石畳の道というのはそう多くない.
これがシバの女王沐浴場
これがシバの女王沐浴場という.片側は自然の山がプール壁になっている.ちょっと巨大な露天風呂のような形態だ.しかし残念ながら水は凄まじく汚れており,一気にがっかり感で満たされる.
ここもまた前記シバの女王宮殿同様,歴史的根拠は希薄なようである.
水汲み場として活用
少年とおねえさんが沐浴場階段を降り,黄色い水タンクに水を汲み,また階段を登りロバに載せる.見た目はとても濁っているが,飲料には差し支えないのかな....いや,洗濯などに使うのでしょう.それでも気になるがやむを得ない事情があるのでしょう.
昼下がりのアクスムin the early afternoon in Aksum
結婚披露の馬車パレード
午前の観光が終わり,ランチとシェスタのためにホテルに戻った.そして目の前の道を結婚披露の馬車パレードがあった.馬車とはまた,皇室とか王室並みですね.この日3組目の出会いであるので,大安吉日といった日和なのでしょうか.
ホテルのSt.Yared画
ホテルレセプション背後に掛かっていた大きな絵にはSt.Yaredと記してあった.そう言えばこのホテルはYared Zema International Hotelで,その聖ヤレドの名を冠していたのだ.
聖ヤレドは505年ここアクスム生まれで,聖書研究学者にして作曲家,楽譜(記譜法)の先駆者.そしてなぜか木のてっぺんに登ることに固執したとも.エチオピアでは聖人として知られるが,外ではあまり知られていないようだ.
何れにしても今日の賑やかなエチオピア正教の礎を築いた人なのかも知れない.
この日のランチ
ヤレドゼマ国際ホテルレストランで頂いたランチはこれだった.ビーフのようだ.
ホテル前のバス通り
部屋で一休み後玄関を出てみた.ホテルと平行に走る道路は並木があり,路線バスが通っていた.バスはそれなりの頻度で運行されているようだ.
直交する通りはヤギ通り
バス通りと直交する通りはヤギ通りだ.結構街の中でもヤギが飼われているのですね.いい光景だ.
ヤハ神殿Yahweh Temple
アトワ山地を眺め進む
ホテルで休憩後ヤハ神殿を目指した.前日アクスム到着前に見えたアトワ山地(Adwa mountains)を,また通過した.イタリア軍を退けた辺りだ.
リュウゼツランや雑木の合間に狭いながら畑も作られている.
教会の門をくぐり,ヤハ神殿遺跡へ
ヤハ神殿遺跡は実際活動中の正教会の敷地内に存在する.ということで門をくぐり抜けた.正教会庭にはこの村で亡くなったであろう信徒の墓石が多く立てられていた.
これがヤハ神殿
これが正教会庭にあるヤハ神殿.ヤハ(Yah)はヤハウェ(Yahweh)の短縮形で,唯一神を表す語と解説したサイトがある.
ヤハ神殿という言葉自体は非常に古く,ソロモン王(紀元前970〜930年)が建設した記録があるそうだ.
一方添乗Iさんの記録ノートではヤハ神殿は太陽神と月の神を祀った神殿で,サハラ砂漠以南で最古の建造物と記されている.しかし年代については不明だ.
石積み四角形の建物は非常に大きく,上部は崩れ落ち,さらに崩壊が進まないように鉄柵で支えている.今は何もないが天井は大きな梁を渡した屋根があったのであろう.大木が必要だったと思う.
ヤハ神殿内部
壁の石は全く隙間なく積まれている.
また一画には大きな洗礼盤のようなプールが設けられている.洗礼盤であれば,ヤハはユダヤ教若しくはキリスト教の唯一神ということになろうが....
生贄を捧げる台や,血を流す窪みと見られる構造もあった.
ヤハ神殿の資料館
ここは正教会の資料館で,ヤハ神殿とどういった関わりあるのかどうかはっきり思い出せない.古いレリーフ文字の入った石版など見せてもらった.
正教会の古い聖書
また羊皮紙に印刷された正教会の古い聖書も見せてもらった.絵が多く入っており,古い時代のものにしては鮮明である.
発掘調査中のヤハ宮殿跡
ヤハ神殿から少し離れてヤハ宮殿跡があった.かなり大きな規模だ.現在発掘調査を継続中ということだ.この先いろいろ判ってくるであろう,楽しみだ.
ヤハ宮殿近くのお土産店
ヤハ宮殿近くのお土産店ではエチオピアンクロスやイコン,絵画など並べてあった.エチオピアンクロスは街や教会毎にいろいろあるのだそうで,店先のクロスも様々だ.
アクスム夕景Evening View in Aksum
ヤハ神殿のある村も暮れてきた
フィカスマグノリアと思われる大きな木が生えたヤハ神殿のある村に,陽が低い位置から射し込んできた.遊んでいる子らも間もなく家に帰るであろう.
そして私達も小型バスに乗り込んでホテルに向かった.
夕焼けのアトワ山地
途中またアトワ山地手前を通過した.山も畑も夕陽で照らされいい眺めだ.
この日の夕食
ホテルに戻り,レストランでこの日の夕食を頂いた.トマトサラダにパスタ,ミートボール....一緒に装ったようだ.ビールは顔の描かれたやつだ.それにアンボの炭酸水だ.