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メケレ再びMekele Again

このメケレ再び編では,2020年1月23日エルタアレ火山近くのアファール家族を訪ねてから,アフデラ塩湖に来て,ここでランチ.その後メケレに至り,3日前と同じホテルに戻り宿泊.翌1月24日朝のメケレを眺めながら次の訪問地に向かったときの写真を載せました.

メケレ再び付近のGoogleマップ(静止マップ)map around Mekele

メケレ付近のマップ(Googleマップのスクリーンショット)

この日エルタアレ火山下山後,近くのアファール家族を訪ねた以降,アフデラ塩湖経由でメケレに戻った.

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アフデラ塩湖Ahudella Salt Lak

溶岩混じりの砂漠を行く

溶岩混じりの砂漠を行く

エルタアレ近くのアファール家族を訪ねた後南に進んだ.溶岩が風化し砂漠が広がっているが,黒い岩石が散らばっている.多分砂の下には溶岩が大規模な塊として存在するのではなかろうか.あたかも海洋に大きな氷山の一部が突き出ているように.


大型トラックの休憩町

大型トラックの休憩町

アフデラ塩湖近くの町で,2連トレーラーなど大型車がたくさん停車している.そして道脇にはレストラン,カフェ(の安食堂)が並んでいる.ドライバは容易に停車でき,食事やお茶を楽しむに格好のエリアだ.


アフデラ塩湖

アフデラ塩湖

街道近くにアフデラ塩湖があった.面積は115km2で,猪苗代湖より若干大きいようだ.

ここの水面も海抜-102mと低い(周囲の土地も概ね同じくらい低地).湖底からさらに100mくらい下に地下水脈が流れ,また水脈と湖底間に塩の層があり,水脈から湧き上る水が塩分を溶解し,塩水となるそうだ.


アフデラ塩湖の塩分濃度は25%

アフデラ塩湖の塩分濃度は25%

アフデラ塩湖では湧き上る水で満たされるのだが,高温乾燥地帯にあるので,水分はどんどん蒸発し,塩分濃度25%くらいでバランスしているそうだ.これだと死海と同じ程度ということになろうか.

私は入らなかったが,仰向け浮上を試した人もいた.ここはやはり新聞を持っていればさらに尤もらしかったですね.


アフデラ塩湖脇に温泉もあり

アフデラ塩湖脇に温泉もあり

アフデラ塩湖湖岸にはうまい具合に温泉も湧いている.あまり熱くはないが,塩湖から出た後に身体を暖めるのにちょうどいい.なおこちらも少し塩分を含んでいるようだ.


アフデラ塩湖脇の塩田

アフデラ塩湖脇の塩田

アフデラ塩湖は上述のように高塩分濃度で,周りは高温乾燥環境である.ということで塩田が多く設けられている.塩田にはアフデラ塩湖からポンプと送水管で壁いっぱい水が注入され,後は暫く放置し,水分を飛ばし,どんどん濃縮,やがて塩だけ残る.

写真は半ば干上がった塩田であろうが,石とセメントで作られた壁内側には黒い水漏れ防止シールが貼られている様子が見える.多分シールは塩田底部も含めて全面貼られているのであろう.表面は真っ白でないが,いくらか砂の成分が混じっているのだろう.


出荷待ち塩の山

出荷待ち塩の山

塩田で出来上がった塩は,保管場所で山に積み上げられている.買い手のトラックが現れると,この山を切り崩し,荷台に載せるのだろう.

塩山の表面が黒いのは積まれた後に風に乗った砂の堆積で,内側の茶色は塩田で蒸発中に混じったものでしょう.意外と不純物が多いことにちょっとがっかり.


おやつの時間

おやつの時間

アフデラ塩湖近くのレストランに入り,おやつの時間となった.この日はランチが早かったので特別だ.BCでシェフに頂戴してきたピザ,それにお店で出してもらったビールやコーヒーを頂いた.美味しかった.


湖畔のエチオピアンコーヒー

湖畔のエチオピアンコーヒー

レストランは海の家のような造りで,湖畔に相応しかろう.エチオピアンコーヒーは取っ手付きカップに注いてくれてます.頂きます.


メケレへreturn to Mekele

エリトリア難民キャンプ

エリトリア難民キャンプ

アフデラ塩湖でおやつの後,4WDは一路メケレに進路をとった.しばし行くと砂漠の中にバラック群があった.この日のドライバもミカエルさんで,あれはエリトリア難民キャンプです,と教えてくれた.そしてこの人達はバラハル村やアハメッドエラ村,他で出会ってきたアファール族と同じアファール族だという.なので同じ言語で意思疎通に問題なく,難民の多くはエチオピアに流れ込んでいるという.

エリトリアでは1960年代から30年間エチオピアからの独立戦争が続いた.そしてその後解放戦線を率いたアフェウェルキ氏が大統領に就任,事実上独裁政権を握る.だがその圧政ぶりは「アフリカの北朝鮮」と評されることもあるそうで,こうして難民として外国に逃れる人が多いようである.

ところでエチオピアではテグレ族も結構多いが,オロモ族(Oromo)と次のアムハラ族(Amhara)が圧倒的で,二者だけで60%を占めるそうだ.ミカエルさんによれば言語面ではアムハラ語が実質的公用語として通用している.ただし小学校からは英語と同様,国語としてではなく一教科として学ぶという.他の科目は各部族語で講義されるということだろう.また各部族毎に文字があるそうだが,南部の少数民族は持たないのもあるのでは.....と想像する.


雨強くなる

雨強くなる

さて海抜マイナスの砂漠地帯から,標高2200m程度のメケレには起伏を越えながら徐々に高度を上げていった.そうした地形が天気にも影響するのであろうが,途中かなり降るようになった.なぜが霧が深いエリアもあった.昨日のエルタアレ火山もそうであったが今年は天気が悪いようだ.


2枚ブレードの風車群

2枚ブレードの風車群

悪天候の中を進むとウィンドファームがあった.2枚ブレードの風車で,普通3枚が多く,2枚タイプは滅多に見ない.ジェネレータのサイズからすると出力は大きくなさそうだ.

ただし半分は廻ってない.ちゃんとメンテナンスされてないのだろう.ちょっと残念だ.


メケレ郊外に入ってきた

メケレ郊外に入ってきた

ミニ三輪トラックが走っている.またその背後には十字架を載せた教会のドームが見える.都会即ちメケレの端に入ってきたようだ.

話は飛ぶが,ミカエルさんは真顔でこんなことも言った.「日本のアベ(安倍)首相は,日本人に人気のアベベ選手の名を元に付けたと聞くが,ほんとか?」思わず吹き出してしまったが彼は真顔で話していた.首都で大勢の日本人観光客をアベベ・ビキラの墓を案内しそんな風に思ったのでしょうか.

さらにこんなことも教えてくれた.エチオピアは今年中に最初の衛星を中国のロケットで打ち上げるそうだ.何の衛星なのかまでは聞き漏らした.


メケレのホテルに到着

メケレのホテルに到着

3日前に泊まりバッグをデポジットしたMekele Planet Hotelに戻った.シャワーを浴び,食事し,部屋で就寝.


朝のメケレin the morning at Mekele

朝のメケレ風景

朝のメケレ風景

プラネットホテルで明けて1月24日朝になった.写真はサッカースタジアムとは反対側のメケレ風景.ホテル近くではトタン屋根の家が立ち並んでいる.現在の建設の勢いから見ると,何れこの辺りは再開発の対象エリアになりそうな気配だ.

その先は中低層のコンクリート建築が多く,街全体が山で囲まれている.つまりメケレは盆地状の地形にあるようだ.


ティグレ人民解放戦線のモニュメント

ティグレ人民解放戦線のモニュメント

プラネットホテルで朝食を頂いた後.小型バスで出発した.そして最初に標記のモニュメントを眺めた.

既に別ページにも記したことだが,1974年,長く続いた帝政を攻めた急進派組織(デルグ)はハイレセラシエ皇帝を廃位し,メンギスツ共産軍事政権を打ち立てた.

だが同政権は急激な社会主義化を推し進め,農業を荒廃させ,数十万人もの餓死者を出し,旧ソ連や北朝鮮同様多くの反対派も粛清したという.

それに対し,1991年,同政権に対し,現政権の母体となるエチオピア人民革命民主戦線が立ち上がった.そしてその連合組織で中心的役割を担ったのが,ここティグレ州のティグレ人民解放戦線ということだ.そして最初に樹立された民主共和国首相にティグレ人民解放戦線リーダー:メレス・ゼナウィが就任した.氏も元はマルクス主義者だったが,経済自由化を進め,今日の民主共和国の基礎を築いたという.

写真のモニュメントは共産軍事政権との戦いで犠牲となったティグレ人民解放戦線の人たちを悼み,また戦勝を記念するものという.なお同じ形のモニュメントは他の街でも設けられている.


朝のメケレ

朝のメケレ

朝のメケレは,ビジネス街近くでもラッシュアワーで車の洪水といったことは全くなく,通りは空いている.結構なことだ.

それに今日は天気が持ち直しそうな気配だ.


メケレの街を抜ける

メケレの街を抜ける

そのうちメケレの街を抜け,郊外になった.家の壁が土色に見えるが....ひょっとして日干しレンガであろうか.

さてこの後は,同じティグレ州内であるが最も古い時代に築かれた教会を見に向かう.