メケレMekele
このメケレ編では2020年1月20日夕刻アジスアベバを飛び立ったフライトは夜になってメケレ空港に到着し,メケレのホテルに宿泊.翌21日朝そこを出てメケレの街を眺めながら,アファール族の村に至るときの写真を載せました.
メケレ付近のGoogleマップ(静止マップ)map around Mekele

メケレはアジスアベバの真北,エリトリアに近い辺りに位置している.
別窓で大きなGoogleマップを開くメケレに到着し宿泊arrive at Mekele

アジスアベバ上空
ティムカット祭見物を終えて搭乗したエチオピア航空ET108便は,アジスアベバを飛び立ち北に向かった.アジスアベバ周辺は標高が高いせいか,あるいは雨量が少ないせいか,南のアルバミンチやジンカ上空からの景色と比べてかなり緑が少ない.

真っ暗になったメケレに到着
フライト中徐々に暗くなり,1時間20分のフライトでメケレ空港(Alula Aba Nega Airport)到着.既に真っ暗になっていた.
メケレはティグレ州の州都で,標高は2,254mと高めにある.

荷物を受け取る
ローカル空港でフライト数は少ない.コンベア前で荷物を待つのは私達の機の搭乗者だけでひっそりしている.
荷物が出ると,これを持って私達を待つ4台の4WDに向かい,乗り込む.4人のドライバーさんは本社のある首都から当4WDでここまでやって来たようだ.ご苦労さまです.

メケレプラネットホテルに到着
空港から4WDで,2,30分走ったであろうか,メケレプラネットホテルに到着した.セキュリティゲートを潜りレセプションに行く.そしてその前に既に1月20日だというのにクリスマスツリーがあることに驚く.尤もここが最初というわけでなく,他でも遠目で見てはいたが.
これはエチオピア暦,従ってエチオピア正教の暦では,一般的な西暦の日付とはずれてくるためという.どのようにずれるかは複雑で.....まあ,いいことにしよう.

先ず夕食
到着が遅くなったので,私達は部屋に入る前に,二階レストランで夕食を頂戴した.野菜サラダやミートボールのソテーなどだったと思う.それにAMBO水,ビールなどだった.
食事が関係したかどうか定かでないが,しばらくして腹具合がおかしくなった.そして翌朝の食事は止めておいた.

メケレプラネットホテルの部屋
夕食後部屋に入った.明日から2日間テントや野天泊で,その間の荷物を,ラクダ運搬などのため小振りなバッグに分け入れ,そして普段運んでいるバッグはこのホテルにデポジットする.3日後ここに戻った晩はまたここで一泊することになっている.
ここはエアコンがあったので暖房したが,あまり効かなかったかな.....カシオで標高を見ると2000m以上ある.
メケレの街city of Mekele

モスクあり
明けて1月21日朝になった.窓から眺めると,2つミナレットの大きめのモスクが見えた,そう言えば朝方アザーンが聴こえたかな....でもジンカなどで聴こえていた正教会の聖歌の方がなんぼか賑やかだ.
ただメケレはティグレ族が96%を占め,またエチオピア正教徒が92%,イスラムは6%と多くはないようだ.

サッカースタジアム
サッカースタジアムが見えた.メケレは人口32万人を擁するティグレ州州都で,またサッカーは国民の人気一番のスポーツということで,結構大きなスタジアムに見える.ただ財政難でまだ完成していないのだとか.

メケレプラネットホテルの入り口
昨夜通過したメケレプラネットホテルの入り口には荷物の透視装置,人体検査装置が備えられ,空港並みだ.まあ,他国でもこうした設備は多い.無くて済むのが理想だが,現実は仕方なかろう.

メケレプラネットホテル正面
その玄関口を出て,ホテルを見上げたらこんな形だった.

メケレの街
写真はホテルの前辺りだが,州都であるが建物は密集しておらず,比較的樹木も多いと思う.建設中の建物も目立ち,景気がいいのかな~と思う.
エチオピアは帝政の後一時期イタリアに占領されたが,イギリスがイタリアの占領軍を滅ぼしハイレ・セラシエ1世が再びエチオピア帝国を建国.しかし皇帝ハイレ・セラシエ1世に対する反乱軍が組織され,ここメケレ周辺を占領された.その後ハイレ・セラシエ1世はイギリス空軍メケレ空爆の協力でメケレを奪還.
暫くしてエチオピア内戦が起こり,反政府軍がハイレ・セラシエ1世を処刑し,エチオピア人民民主共和国を建国する.ただこの社会主義国家は人々の信頼が得られず,反共産政府ティグレ人民解放戦線が組織され,クーデターで人民民主共和国を倒し,エチオピア連邦民主共和国を建国した.そしてそれが今日まで続いているわけだ.
ということで,ここメケレを本拠地とするティグレ族は建国の中心的役割を果たしたわけで,今日もティグレ族の皆さんは誇りとし,政府の要職に就き活躍しているということだ.

メケレの大通り
大通りであるが混み合っていないのがいい.車はトヨタの乗用車,4WD,いすゞのトラックが非常に多い.これほど独占的な国は稀有なことと思われる.
ここも建設途中の建物が多い.首都でも工事が多かったが,経済成長率が高いのであろう.

街を行く人
白い装束で街行く人ははてクリスチャンであろうか,モズレムであろうか.エチオピアではどちらの女性もスカーフ着用者が多いので判りにくい.あほか,ただの旅行者の便宜などもちろん構ってられないよ.

丘からメケレを見下ろす
丘に上り,メケレを見下ろしてみた.天気はいいのだが霞んで見える.砂地の多い土地柄ゆえ細かい砂が舞うのであろうか.
工場のような大きな建物も見えるが,アパレル関係と言っていたか....

乾燥地帯を進む
メケレを見下ろす丘を越え,引き続き半砂漠的景観の大地を東へと進む.どちらかと言うと先入観点から覚えるアフリカの光景に近づいたような気もする.
時々小規模な集落や孤立した農家に出合ったりする.
アファール族の村Afar Village

小さな砂漠の集落
ここはそうした小さな砂漠の集落の一つだ.住宅は四角形日干しレンガトタン屋根造りが多いようだ.多分この辺りは年間を通じて雨が少ないのであろう.
家と家の間隔は十分あり,砂漠っぽい環境にしては樹木が茂り,また家畜も普通に飼われているように見える.

砂漠の中の畑
砂漠ではないが砂漠っぽい土地に,畑が現れた.ちょっと感嘆する光景だ.地下水なり,湧き水なり,何らかの水源があるのでしょうね.

水を運ぶロバのキャラバン
暫く進むと,水を運ぶロバのキャラバンに出合った.ロバはドラム缶を2つに割り,ヒンジで繋げた鞍に黄色い水タンクを載せ,西へと進んで行った.この辺りの多くの住民は水が十分でなく,大変な労力の末ようやく得ているのだ.

峡谷を見下ろす
赤い堆積岩(?)が抉られて深い峡谷が形成されている.谷の形はV字状であるので,氷河ではなく水の流れで形成されたのであろう.
この辺りでは他の日本人グループに出会った.でも総じて観光客は少ない.

ラクダのキャラバンも行く
遊牧民の移動ではなく,物資を運ぶ運送業者のラクダのようだ.こうした乾燥地帯遠距離輸送にはラクダが適しているのだろう.ただ徐々にトラックに置き換わっているようだ.

ダロール地区境界に至る
道の両側にある村はアファール族(Afar people)のバラハル村(Berahle)で,この辺りがダロール地区(Dallol)との境界となるそうだ.

バラハル村の枯川と橋
バラハル村には大きな川(枯川)が流れ(る筈),そこの大きな橋が掛かっている.多分この写真で手前が上流側と思われる.
住民は皆アファール族なのだが,この橋の手前側はキリスト教徒が,向こう側はイスラム教徒が多く暮らしているという.

バラハル村イスラムエリアの人たち
橋向こうの住民はイスラムなのでスカーフ,厳格な人は顔も覆っている.ただ装束は派手目の色柄で,中東辺りとちょっと異なる雰囲気だ.

バラハル村の流木ハウス
バラハル村の住宅は,曲がりくねった材木を柱と壁(列柱)に用いた,言わば流木ハウスが多い.
この辺りは禿山で木は育たないが,雨季の豪雨で上流から流木が運ばれてくるので,それを拾い集めて建材に利用するそうだ.そしてなぜか流木集めから流木ハウス建築の施工は全て女性の仕事なのだそうだ.それは大変そうですね.
なお壁はなく流木を並べただけで,スカスカだが,普通は熱いのでそれがいいようだ.ただしこの日は天気も悪く,例年になく寒いようだ.

仕立て屋さんは男性
アファール族の仕立て屋さんはやはり男性だった.エチオピアではミシンを使う仕事は男性と,添乗Iさんの経験からほぼ断言できるそうだ.

バラハル村クリスチャンエリアの木材店
流木ハウス以外に普通の真っ直ぐな木材で壁あり住宅もある.木材は他の地方から運ばれてくるのであろう.当然建設コストは高くなり,家のサイズが大きいので多分男性が施工するのであろう.

バラハル村を抜けダナキル低地(砂漠)に向かう
バラハル村を抜けダナキル低地(砂漠)に向かった.最終地までいい舗装道が続く.
例年ここから徐々に灼熱地帯に入っていくのだが,今年はどうした訳かその気配が感じられない.2号車ドライバさんは今日のディスティネーション,アハメッド・エラ周辺で,これまでに52℃の体験があると言っていた.
さてこれでメケレとその周辺のページは終わり.