ゴルカへgo to Gorkha

このゴルカへ編では,2010年10月29日カトマンドゥを発ち,車でゴルカに行くまでの写真と記事を掲載した.


カトマンドゥ北の外れのここで車を掴まえる

カトマンドゥ北の外れで車を掴まえる

カトマンドゥの10月29日,晴れた朝を迎えた.朝食がてら近くを歩き,ホテルに戻り荷物を整理する.昼過ぎ,6階からエレベータでロビーに降りる.ここの階数は英式呼称で,6階は日本では7階に相当し,エレベータには微かながら停電の懸念を抱きながらも,20kgのダッフルバッグを持って下る自信がなかったのだ.

待って少しすると,小さなタクシーで昨日会ったガイドPさんがポーターRさんを伴って現れた.Rさん,20kgの荷物よろしくね!

タクシーでタメルを出て,北の外れ,写真の辺りまでやってきた.12時半頃であった.普通のゴルカ行きバスだと到着が遅くなり過ぎるので,この辺りでマイクロバスを掴まえるという.トヨタハイエースのバスは直ぐに見つかった.といっても,そのようなバス停標識や車にそれらしき貼り紙を付けているという訳ではなく,専ら運転手や助手の掛け声を頼りに探すのだ.尤もネパールの人たちは慣れていて,こうした嗅覚はジャーマンシェパード並に優れており,すぐ嗅ぎ分けることができるのだ.ところでこうした公的営業車両の運行に許認可は必要なのだろうか?いや,多分必要ないか,若しくは無認可で営業しているように感じられる.何分にもこうした車は無数に走っているのだから.

トヨタハイエースの助手が暫く客集めでがなりたてると,乗客でいっぱい(ほんとにいっぱいだ)になり,出発した.午後1時少し前であった.


カトマンドゥ近くの新しい仏教寺院と大仏

新しい仏教寺院と大仏

カトマンドゥを出発し,20分くらい走ったであろうか,通りの左手に大きなチョルテンと3つの金色の仏像(正しくは1つの仏像と両脇の像)があった.つい2,3年前にできたばかりの仏教寺院だそうだ.3つの仏像は巨大で,金色に輝く随分と立派なものだ.チョルテンは目の描かれたネパール様式でなく,純チベット風に造られているのも珍しいように思う.チベット難民などチベット系住民の寄進で造られたのであろうか?

こうした寺院が新たに建立されるということに対しては何故かかなり驚いてしまった.日本でも新しい宗教(或いは宗派)の寺院はあちこちでしばしば見かけるが,旧来からの伝統的仏教寺院が新規に建立されるケースをあまり見かけないためであろうか?


西へと3時間ほど走り,ここで休憩

西へと3時間ほど走り,休憩

トヨタハイエースは十分に満席に見えるがそれでもなおかつ助手(車掌)がドアから身を乗り出し,声を枯らしてさらなる乗客を集める.閉口してしまうが郷に入れば仕方なかろう.車はやがてカトマンドゥ盆地を抜け,西へ西へとひた走った.途中ガネッシュヒマールであろうか雄大に聳える景観は,埃っぽい道中の慰めになってくれる.

走り始めて3時間ほどして,休憩所で停車した.ガイドPさんがこの辺では標準的,私からするといささか甘過ぎるお茶を運んできてくれた.歩いているときはエネルギー補給に丁度いいかも知れない.傍らには写真の果物屋が並んでいた.1本当たりRs5(6~7円)だという小型バナナ一房を買い求め,食べてみた.ネパールでこの種のバナナは若干酸味を含んでいる場合が多いように思える.(普通サイズのバナナは酸味なし)

ネパールはまたこの季節ミカン収穫の時期で,ここでも多く並んでいた.概ね一袋毎に1つは種があって,日本のミカンと比べて面倒くさいが味はなかなかいいと思う.値段もRs50(60~70円)/1kg程度で安いと思う.


ニワトリを抱えて乗り込む乗客

ニワトリを抱えて乗り込む乗客

トヨタハイエースはどこでも乗り降り自由だ.目的地ゴルカに近くなると降りる人が増え,すかさず助手(写真の赤いキャップ)が新しい乗客集めをする.車のルートや乗車賃も確認し(多分),今夜のおかずであろうか生きたニワトリを抱えた婦人たちが新たに乗ってきて,車は再びギュウギュウ詰めになる.なお屋根の上は筆者のダッフルバッグや穀類など本格的荷物が満載され,既に重心はかなり高くなっている,横転しないかな~?.....そうしたことにあまり注意を払わぬ方が平穏を維持する知恵かも知れない.


ゴルカに到着

ゴルカに到着

夕方5時半頃ゴルカに到着した.客も荷物も皆ここまでだ.ハイエースは明日朝また客と荷物を満載しカトマンドゥに戻るであろう.当初計画では,前日にパーミットが下り,この日朝一番にカトマンドゥを出て早い時間にゴルカに達し,午後は,旧宮殿や寺社が多いという古都ゴルカを観て廻るつもりだった.でもパーミットが半日遅れで発行されたため,ゴルカ見物はまあいいか,となった.

ゴルカ(Gorkha)はつい最近(確か2年前)までネパールを支配していたシャハ王朝の祖先が,18世紀にネパールを統一した発祥の地として知られているそうだ.最初の王の死後もゴルカ族は勢力を保ち,19世紀にはイギリス軍と戦火を交えたが,イギリス軍は勝てず,やがてその優秀さから「グルカ兵」として知られる傭兵として採用するようになったようだ.英語で(日本でも)一般に「グルカ」と発音されるが,Gorkhaのことで,ネパールの人が話すとゴルカに近い発音に聞こえる.

なおグルカではグルン族が多いようであるが,グルカ兵は必ずしもグルン族に限定される訳ではなく,他の部族の人もいるのだそうだ.


Hotel Gorkha Innの室内

Hotel Gorkha Innで一泊

グルカではHotel Gorkha Innという宿で泊まることになった.ベニア張り室内はとても質素であるが,一応シャワー付きお手洗いも備え,グルカでは最も上等なクラスの宿のようだ.3階の部屋であったが,この日はたまたまネパール農務大臣が直ぐ傍の部屋に泊まるそうで,まあ大臣が使うようであれば悪くはないのかも,と納得してみる.


ロシアンサラダと甘酢チキン

ロシアンサラダと甘酢チキン

ダイニングルームに行き,メニューを眺め,ロシアンサラダと甘酢チキンの夕食を作ってもらう.ロシアンサラダとは初めて聞くが,ジャガイモなど調理した野菜で,甘酢チキンは酢豚のチキン版であった.

ダイニングルームには日本語を話すD青年が雑用係り(多分)として働いていた.4年前,3年間ほど群馬などで働いていた経験があるそうだ.Dさんの話では,グルカにはグルン族とバウン族が多く住まうそうだ.バウン族とはこれまであまり聞いたことがなかったが,王制時代はチェットリ族とともに代表的支配階級だったようだ.王制が廃された現在もマオイストや統一共産党の上層部の大半はこの2つの部族が多いようだ.

また,この日宿でトレッカーは見かけなかったが,今の季節は結構多くの客が入るという.日本人客の場合1~2人といった小人数グループが多いそうである.

食事を終えると,ガイドPさんから「明日からダルバート以外の食事にはありつけません.宿にはもちろんシャワーなどありませんし,土間に寝なくてはならないところもあります」と,ある程度覚悟は決めていたものの改めて告げられる.まあこれはこのエリアの実状に合わせ,ネパリーに成り切る以外なかろう,と覚悟を決めた.だってそれ以外仕方ないんだもんね.

明日から歩く.楽しみだ♪



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