ホールルーリ遺跡Khor Rori

このホールルーリ遺跡編では,2016年11月17日ホールルーリに行き,ホールルーリ遺跡を見物したときの写真を載せました.


ホールルーリ遺跡21付近のGoogleマップ

ホールルーリ遺跡21は,ミルバット18とサラーラ19に中間に位置する港町で,サラーラのアルバリード遺跡とも関連深い.

ホールルーリに行くgo to Khor Rori

サムフラム(Sumhuram)考古学公園入口

サムフラム考古学公園入口

ジュベルサムハンを下った後,西に走りこのサムフラム(Sumhuram)考古学公園入口にやって来た.昔この辺り一帯はサムフラム(Sumhuram)の街と呼ばれて栄えたところという.またホールルーリ(Khor Rori)入江に面したサムフラムの城と捉えていいのだと思う.

この公園入口看板にユネスコ世界遺産のマークが記されているが,当ホールルーリは,サラーラのアルバリード遺跡(サラーサのページに記載),シスルの考古遺跡,ワジダウカの乳香公園(ルブアルハリ砂漠のページに記載)と合わせて『乳香の土地』として2000年に文化遺産登録されているそうだ.


サムフラム考古学公園はラクダ放牧が盛ん

サムフラム考古学公園はラクダ放牧が盛ん

公園ゲートを潜ると,なぜかラクダがたくさん歩いている.放牧が盛んなようだ.公園内で放牧....とちょっと不思議だが,長い伝統なのであろう.

ところでラクダは大変執念深いそうで,幾つかの出来事を話してもらった.何れも事実だそうである.

一つは,街道で母子連れラクダに乗用車が衝突し,子ラクダは死亡,車は大きく破損したそうだ.母ラクダはドライバの顔を覚えていて,一年以上隔てた後,該ドライバが別の車(前のは衝突で壊れたので)を運転し,同じ場所を通りかかったとき,母ラクダは復讐のためそのドライバ目掛けて体当たりを仕掛けてきたそうだ.幸い衝突は避けられたそうだが.

もう一例は,長い年数ラクダを叩くなど乱暴に使役させた年配の男がおり,ラクダの性質をよく知っており,そのうち復讐に来られるな....,と恐れ,夜はラクダの上れない屋根の上に寝て過ごすことにしたそうだ.


ホールルーリ遺跡ruins Khor Rouri

ホールルーリの世界航路図

ホールルーリの世界航路図

車はホールルーリ遺跡前に到着した.遺跡入り口には航路図と解説が掲げてあった.

解説によれば,BC3世紀~5世紀ADの古代都市サムフラムに築かれたホールルーリ,イスラム以前ドファール(Dhofar)地方の最重要定住地で,また乳香生産地の中心であった.南アラビア文字の碑文(下参照)が城壁ゲートに刻まれている.城壁の外では街の第一段階BC3世紀~1世紀ADの小さな寺院や構造物が発掘されている.

金属工房の存在,また大量の鉄やブロンズ製品が見つかっていることから,この街はまた南東アラビア,銅産出のオマーン北部沿岸との内部交易の中心であったとも見られるようだ.

航路図の矢印を見ると行き先は紅海(エジプト),ペルシャ湾,アフリカ東海岸やマダガスカル,インド,ビルマ,中国などとなっている.


ホールルーリ遺跡街の石積みは殆ど修復されたもののようだ

街の石積みは殆ど修復されたもののようだ

街(城)の石積みは色が新しく,殆どは積み直され復元したもののように見える.見つかったオリジナルの基礎部分やドキュメントを元に積み上げたのではなかろうか.


ホールルーリ遺跡南アラビア文字の碑文

南アラビア文字の碑文

これが上述の南アラビア文字の碑文であろうか.確かにアラビア文字ではないし,ギリシャ文字やローマ字でもない.

ここでググって見ると,南アラビア文字は現イエメン周辺でかつて使われていた古代南アラビア語を表記するために用いられており,29の音素文字から成り,左から右へ書かれるという.またそこに記された文字と本写真を照らし合わせて見ると,そのように見える.ただこの石は新しく,とても2000年も昔の碑文には見えない.レプリカではないだろうか.


ホールルーリの街(城)は入江に面する

ホールルーリの街(城)は入江に面する

ホールルーリの街(城)は乳香交易の中心であったのでアラビア海の入江に面している.ホールルーリのホール(Khor)とは正にその入江の意だそうだ.ホールルーリの入江の港にはロープで外板を固定し,組み立てたというダウ船が行き交っていたであろう.

碑文や発掘品の調査から,この街は当初ハドラマウト王国(BC8世紀~3世紀AD,現イエメンの一地方が中心)により創建され移民がBC2世紀くらいから暮らし,1世紀AD頃ここに城を築き,同王国の支配下に入ったと見られるようだ.尤もハドラマウト王国自体はシバ王国の支配下にあり,属国的地位にあったようでもある.


ホールルーリの街(城)内部

ホールルーリの街(城)内部

ホールルーリは19世紀終わりにJames Theodore Bentによって見つけられ,1950年代初めにアメリカの財団が発掘し,1994年からはイタリア隊が発掘しているそうだ.

そうした発掘調査の結果,城壁内部には神殿,居住エリア,乳香の貯蔵庫等々あったと判明したようだ.


さてこれはバスタブか

さてこれはバスタブか

形からするとバスタブのように見えるが,さて何でしょう.バスタブにしてはかなりラフな表面で,ちょっと違うかな~という気も.


ここは神殿跡の一部であったか

ここは神殿跡の一部であったか

はっきり思い出せないが,神殿の跡であったか.神殿はハドラマウト王国,従って宗主国シバ王国宗教の神殿ということになろうか.そして同王国では月の神を頂点とする天体信仰が主流であり,月の神を祀る神殿が建てられていたというから,ここもそれに準じているのかもしれない.


ホールルーリ遺跡観光客も訪問

観光客も訪問

私たちが訪れたときだれも居なかったが,見終わってそろそろ引き上げて,博物館に行こうかというときに他グループの人たちが現れた.いいタイミングだ.


ホールルーリ遺跡見ごたえある博物館もある

見ごたえある博物館もある

遺跡から少し離れた場所には博物館もあって,発掘されたものが収容されている.陶器や鉄器,自然石に刻まれた南アラビア文字の碑文など,なかなか見ごたえある展示だ.写真不可なのが残念だが.


さてこうしてホールルーリ遺跡の見物を終えると,サラーラのホテルに引き上げた.


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