ミルバットMirbat

このミルバット編では,2016年11月17日朝,サラーラの宿から東へ行き,聖者ビンアリ墓所を参拝し,ミルバットの港を見物したときの写真を載せました.


ミルバット18付近のGoogleマップ

この日朝,サラーラ19から東に向かい,ミルバット18に至った.

なお20はこの後訪れるジュベルサムハン.

サラーラから東へgo East

サラーラビーチの朝

サラーラビーチの朝

さて11月17日,Salalah beach villaホテルで朝を迎えた.バルコニーから海を眺める.いい天気だが地平線近くは淀んだ感じだ.


サラーラから東へ向かう

サラーラから東へ向かう

サラーラのホテルで食事し,ランクルに乗り,東へ向かった.前日シュワイミヤからサラーラに来る途中通過したことのある村だ.今回は見物に訪れる.

サラーラからミルバットに至る沿岸道路は拡張であろうか,工事中だ.土地はいっぱいありそうだし,国有であろうから買収で手間取るといった心配はなさそうだ.


聖者ビンアリ墓所Mausoleum of the Muslim saint Mohammed Bin Ali al Qalayi

聖者ビンアリ墓所に到着した

聖者ビンアリ墓所に到着した

聖者ビンアリ墓所の駐車場に到着し,墓所に向かい歩く.

写真右白いとんがりコーンの建物がビンアリ墓所で,左の石塔群は一般人の共同墓地だ.

ところでオマーン全国ではイバード派(Ibadi)が主流なのだが,ここサラーラ地方一帯だけはスンニ派(Sunni)が多く,イバード派,それにシーア派教徒が少数住むそうだ.そしてここ一般人のお墓はイバード派とスンニ派の区別なく埋葬されるそうである.


ミルバット一般人のお墓

ミルバット一般人のお墓

一般人のお墓は極めて多くの墓石が並ぶ.多くは涸れ川キャニオニングの終点シク村で見た不定形自然石と同じように,やはり文字など一切刻まれない不定形自然石だ.少なくともイバード派では,墓石には文字など一切刻んではならないという教えがあるのだそうだ.

なお墓石が2つ並んでいるのは男性の墓,3つ並んでいるのは女性用の墓だそうで,そうした決まり事もあるようだ.


コンクリートなど人造物は文字や模様可

コンクリートなど人造物は文字や模様可

これはコンクリート板にアラビア文字や縁に模様が入った墓石だ.自然石を加工するのはならぬが,こうした人造物であれば文字や模様を入れるのは構わないのだそうだ.

こうした人工物の墓石,多くは四角い板状,その板面の向きは揃っており,メッカ方向から90°廻った向きだ.この下に埋葬され,右に傾げた顔がメッカ方向になる筈だ.


聖者ビンアリのお墓

聖者ビンアリのお墓

白い聖者ビンアリのお墓は左手に入り口があり,入ると直ぐに手前壁に並行する横長四角形礼拝堂となっている.ミフラーブは右壁の凹みとして示されている.

礼拝堂を越えて行くと聖者ビンアリの石棺が横長拝堂と直行し,頭が入り口方向になるよう置かれている.

聖者ビンアリのフルネームはモハメドビンアリアルアラウィ(Mohammed Bin Ali al Alawi)と長く,ただものではない家柄を感じさせる.実際シーア派始祖アリの血筋を引き,その7代目(いや19代目か)のようだ.イエメン南部ハドラマウト渓谷地方,タリム(Tarim)に生まれ,イスラム科学やコーランを最上レベルまで学び,学者およびイスラム法学のイマームとして知られたそうだ.後にここミルバットに移住し,イスラム暦556年(西暦1161年)この地で没したという.


共同墓地の墓穴掘り

共同墓地の墓穴掘り

共同墓地の空いた一画では墓穴掘りが行われていた.最近亡くなった人がいて,その人の墓穴を掘っているわけではなく,これから必要になったときに直ぐに提供できるように準備しているのだという.

穴掘り作業をしている人たちはバングラデシュからの出稼ぎだという.同じイスラム教徒であるし,心得もあろうし適任だ.


共同墓地空き地に完成している墓穴

空き地に完成している墓穴

このように既に完成した墓穴が2つほどあった.現在掘っているのも含めて全部で幾つ掘るのか.


ミルバットの港Mirbat Port

ミルバット町の入口ゲート

ミルバット町の入口ゲート

車はミルバット村の入口ゲートに入ってきた.今はごく普通の平和な村に見える.マップと歴史のページで少し年表に記したのだが,この辺りは1960年~1975年『ドファール地方の反乱』が起こり,ミルバットの戦い(Battle of Mirbat)の舞台になったところと思う.

ミルバットの戦いは,1972年,300人の重装備したオマーン解放人民戦線(Popular Front for the Liberation of Oman:PFLO)が砦の9人の英特殊部隊(Special Air Service:SAS)兵と三十数人オマーン兵からなる小さな駐屯部隊を襲撃した事件のようだ.反乱の目的はカブース王(1972年なので現国王の筈)の新政策に対する反発とサラーラ間近な町でさえコントロールできない政府の弱さをアピールすることにあったようだ.


ミルバットの町

ミルバットの町

ミルバット町の一部は海に面している.浜辺には廃船など散乱している.この辺りの建物は屋根に砦のような連続凹凸デザインが見られるが,かつては砦であったのだろうか.多分そうであろう.

なお上述のミルバットの戦いの舞台は海岸縁だったようだ.


ミルバットの港風景

ミルバットの港風景

ミルバットの港は大きな湾の内側に形成されているようだ.水深もありそうで,漁村アルカールフの港や,マドラカ岬の漁港と違って,ダウ船タイプの大きな漁船も桟橋に接岸している.

またヤマハ船外機を装備する小型漁船も浜に引き上げることなく,海面に係留したままである.やはり上2つアルカールフやマドラカ岬の砂浜と違って,漁に出るにも,戻って水揚げするにも,ぐっと楽で素早くできるだろう.


ミルバット港,大きな魚網に仕掛ける

大きな魚網に仕掛ける

大きな網だ.一箇所,入れるが,出られない,かえしの付いた開口のある網だ.中に呼び寄せる餌を入れ,海底に沈める.さてこれは何を捕るのか?魚か,タコか,カニか.....


ミルバットの港並んだダウ船タイプ漁船

並んだダウ船タイプ漁船

桟橋にはずらりとダウ船タイプ漁船が並んでいた.どういったタイミングで漁にでるのか?前日サラーラビーチでイワシが水揚げされた時間からすると,これから出かけるのかな~....ちょっと遅いようにも思えるが.

ダウ船のデザインであるが,傍で眺めるとやはりFRP製のようだ.いろいろな点でFRPが無難なのであろう.

ダウ船タイプ漁船のキャプテンはオマーン人であるが.他のクルーは殆どバングラデシュ人であることが普通だそうだ.日本船でフィリピン人とかが多く働くのと似ていよう.


ミルバットの港岸辺には魚がうじゃうじゃ

岸辺には魚がうじゃうじゃ

海を覗くと岸辺には魚がうじゃうじゃいる.いわしとかその仲間かな.ここに釣り糸を垂れれば素人でも釣れそうだ.投網を下ろせば,一網で大漁,といった群れだ.いや~びっくりした.


さてこうしてミルバット見物は終わった.次はジュベルサムハンだ.


Cannergy'sホームへ