シガツェ滞在中,南のギャンツェを訪れた.
ギャンツェに向かうためシガツェを出ると,直ぐに広い畑が目に入る.隣が茶色い禿山なのに,一面の緑が不思議であり,また美しい.小麦や,詳しくは判らないがはだか麦が多いようである.
農村地帯であるから通りにはトラクタが行き交っている.中国時風ブランドであるが,時風とはコンテンポラリーと云った意味であろうか?もちろんトラクタだけでなく,馬車も多く,朝方は労働力である家族を乗せて一斉に畑に向かうようであった.
下は,ギャンツェへ行く途中の風景
ギャンツェに到着し,早速白居寺を見物することになった.白居寺は1418年の創建.当初サキャ(薩迦)派の寺院であったが,後シャル(葛当)派,ゲルク(格魯)派が相次いで入り,現在は各派共存の寺になっているそうだ.写真右が大集会堂と呼ばれる本堂で,左がパンコルチョルテンと言われる仏塔だ.
本尊は三世仏で,弥勒仏,釈迦牟尼仏,燃灯仏だという.ラサデプン寺の三世仏は,過去の阿弥陀仏,現世の釈迦像,来世の実族菩薩と教わったので若干違うのかな?右写真は,お堂中央にあった釈迦像で,右隣上に故パンチェンラマ10世,その下に現パンチェンラマ11世のポートレートが掲げてあった.綺麗なお供えはバター細工かな?
お堂に掲げてあったタンカだ.タンカはネパール,ブータン,モンゴル,北インド方面など含めたチベット文化圏で作られる布に描かれた宗教画.キリスト教のイコンと似た範疇と思うが,内容はもちろんのこと,イコンは額装で,タンカは軸装であるなどの違いがある.元々は仏教そのものがインドから伝わったのだが,チベット文化圏で発達したようである.
下は,白居寺の写真あれこれ
1427年建立の仏塔で,13層構造,高さ34mでチベットで最大だという.クンブムはチベット語で,十万の仏像の意味だそうだ.右周りにぐるぐる回って登っていくと,多数の多彩な壁画,仏像に出会う.
クンブムチョルテンの入り口には撮影料を徴収する係のこのお坊さんが居られた.チョルテンには75もの部屋があって,それぞれに壁画が描かれ,1体から数体の仏像,ラマ像が安置されていた.それでいて全ての撮影料がたったの10元と,他と比べて圧倒的に安い.例えば上の本堂の場合,三世仏のあるお堂だけで20元,他の部屋はまた別料金である.
一階から右回りに,つまりコルラで仏画や仏像を見ながら登ると,その道程は悟りへの過程になるように造られている,という.暫くそのようにして登って行ったが,何しろ殆ど無数に壁画と仏像があるので,とても時間内に終わりそうにない.少し端折りながら上まで行った.下の階では仏像がチョルテンの接線方向を向くように据えられ,上の階では法線方向に向くように設置されていた.特段の意味があるのか,単に建築構造上の,たとえば間取りの都合からなのか不明だ.
下は,クンブムチョルテンの仏像
ギャンツェはラサ,シガチェに次ぐチベット第3の都市.かつてインドとチベットを結ぶ幹線街道沿いにあって,交易の中心地として,また白居寺の門前町として栄えたそうである.その頃はシガチェより大きな都市だったそうだ.ただ最近ではシガチェのタシルンポ寺が栄え,町もそれに連れて人口増大したため,ギャンツェは3番目となったようだ.
ギャンツェは1903年,英領インド軍がチベットに侵入してきた時に戦場になったそうで,このとき多くの犠牲者が出たそうだ.写真丘の上は英領インド軍と戦火を交えた城だそうだ.また手前の広場には戦没者の慰霊碑が建てられ,公園になっていた.1950年暮れにはダライラマ14世が,ラサから避難の時に通過した町でもあるそうだ.
下は,ギャンツェ市内の写真あれこれ
ギャンツェを見物し,再びシガチェに戻る方向に走った.途中,シャル寺に立ち寄る予定だ.街道を走っていると,農家の塀には黒い扁平なヤク糞がたくさん貼り付けられていた.多分,ネパールなどと同様,燃料にするのであろう.
ギャンツェの間近になって,左(西)に折れ,ダートの道を進むとチュンデという小さな集落に行き当たり,シャル寺があった.シャル寺はゲルク派起源の地で,11世紀建立されたというから,とても古い.14世紀に仏教の大学者プトゥン(Buston Rinchen Drub:1290-1364)が住職をしていたことで有名だそうだ.プトゥンはチベット中から経典を集め,チベット大蔵経の編集作業を行ったり,仏典の解説書を著したそうである.なおプトゥンの門下生はシャル派と呼ばれ,それが寺の名になったようだ.
建物は中国的色彩が濃く,内部や外壁に曼荼羅などたくさんの壁画が残されていることでも知られるようだ.壁画と何ら関係ないが,壁画のあるお堂入り口で頭のてっ辺を思い切りぶつけたことが記憶に残る.
下は,シャル寺とその付近の写真あれこれ