アルマトイからキルギスに入り,先ず首都ビシケクを訪ねた.
キルギスの首都ビシケク(Bishkek)はマーカー2の辺りに位置している.
アルマトイ同様にシルクロード天山北路の通過点だったと云う説もあるようだ.
カザフ/キルギス国境で,うんざりするほど出入国に時間を費やし,キルギスに入国する.国境にはチュー川(River Chu)が流れ,この地方はチュー地方と呼ばれるそうだ.この川の恵みも大きいのであろう,それまでの茶色の光景がキルギスに入った途端に畑が増え,緑の絨毯が広がる.小麦,大麦,トウモロコシなどが多いようで,この光景はビシケクまで続く.
車でビシケクの街を一通り走ると,圧倒的に緑豊かな田舎町,と云った印象を受ける.日本を含めて世界でこれほど豊かな並木が続く街はないのではないか,と思った.前述のアルマトイも緑豊かであるが,それをさらに田舎風(大きな建物や店舗が目立たないという意味で)にした感じだ.中央アジアのスイスと称されるそうであるが,確かにそのような一面がある.
ビシケクはキルギスの首都にして,海抜750mに位置し,人口は約100万人というから,それなりの規模がある.キルギスには天山山脈の支脈が走り,国土の90%以上が標高1,000mを超え,さらにその約40%が3,000m以上の高地だそうだ.なのでビシケクは比較的低地にあり,天山山脈の雪解け水が,この盆地に注ぎ,見事な樹木を育むようである.
下は,ビシケクの街の写真あれこれ
右から2枚目の写真は昼食を食べたNemoというレストランであるが,スズキだという美味しい魚料理が出された.スズキは普通海の魚だと思っていたが,この辺りの湖や養殖場,であれば淡水のような....で捕れた魚だという.ちょっとまだよく判らない.
天山のキルギス語呼称がアラトー(Alatoo)でその名を冠した広場が国立歴史博物館前に位置していた.大統領府もすぐ近くで,街の中心部だ.キルギスはここビシケクも含め,国のどこからもアラトーが望めるそうで,同国の象徴となっているようだ.カザフと違って地下資源には恵まれず経済は低迷しているというが,良質の水だけは豊富で,広場の噴水で戯れる市民の姿も多かった.一部,水は将来石油以上に価値が高くなると云う見方もあり,キルギス国民はそれに一縷の希望を見え出しているようである.
最近も暴動があったようであるが,このアラトー広場は大統領府のすぐ脇で,国の式典が行われる中央広場でもある.しかして反政府デモなどでもよく活用されるようだ.そういった場合はあまり近づかない方が良かろう.
白地に黒い線画模様を付したフェルト製の山高帽の男性が行く.白い顎鬚,肌色から観るにモンゴル系キルギス人であろう.シャツはバーバリーか?この後訪れるウズベキスタンやトルクメニスタンに比べて,ここキルギスやカザフでは民族衣装を着ている人は少ないと思ったが,たまにこのような伝統ファッションに出会うのは嬉しいものだ.
下は,アラトー広場の写真あれこれ.中央のブロンズ像は自由の像だそうだ.2003年頃まではこの場所にはレーニン像があったそうである.
先史時代から,中世,近年ソ連邦時代,独立までいろいろ展示されている.織物や楽器など所謂伝統工芸品的な展示が比較的多いように思った.ここは撮影料を払えば写真が可能で助かる.
キルギスの多くは高地で,遊牧を生業としてきた祖先が多いようだ.そんな遊牧生活の必須用品である伝統的なテント,ユルタ,いやキルギス語ではボージが正式だそうだ,が展示されていた.内部は装飾品やカーペット,生活用具が実生活に即して配置されていた.男性は入り口から見て右側,女性は左側と座る位置が決まっているそうで,なかなか興味深い.日本における上座の概念等と共通するところがあろうか?
定住化が進みボージの出番は少なくなったがそれでも儀式,例えばお葬式では今も多く活用されるという.人が亡くなるとボージが設営され,遺体は性別で定まる所定の位置に,遠所からの縁者が集うに必要な所定日数安置される.女性は傍らで延々と泣き,男性は....(バスの中で書いたメモが読めない).駆けつけた弔問客には馬肉料理を振舞うのが正式とされるが,一頭US$1,000もするので,最近は羊で代用されることも多いそうである.なお馬肉は弔いやお祭りのときだけに供されるそうである.
ボージ内に所定日数安置された遺体は,真っ直ぐに仰向けになったとき,頭のてっ辺がメッカに向くように墓地に埋葬されるという.以前他国で,「仰向けに寝かせて,顔を右に向かせ,それがメッカの方向を向くように埋葬する」と聞いたことがあった.キルギスの埋葬方法だとそれよりπ/2だけ位相が進んで埋葬されることになる.同じイスラムで埋葬方法が違うのも変なので,筆者の聞き違いかも知れない.機会があったらまた他国で訊いてみたい.
死者に借金がある場合,縁者の誰もが負債の返済を申し出ない限り墓地には埋葬されないという.だが実際問題,ボージ内にず~っと置くこともままならないであろうが,とても不名誉なことであるそうだ.お金に関してイスラムの掟はなかなかシビアであることを改めて知った.
もう一人はだれだったか?この他に,正面玄関から入ったホールにはレーニンのブロンズ像や著作物もあったし,いずれにしてもソ連邦の社会主義共和国時代の遺物も歴史の一齣として収蔵してあるようだ.政治体制が変わって,何がなんでも打ち捨てるのではなく,このような方法がやはりいいと思う.
下は,国立歴史博物館の写真あれこれ
ツムデパートはビシケクで一番大きいデパートだそうだ.店内は暗めで,正直とても洗練されているとは言い難い.まあその方が観光的には面白い.一つのお店というより,デパートの中の専門店街,いや,小さなブースがてんでバラバラに並んだ雰囲気に近いか.
下は,ビシケクのツムデパート界隈の眺め
ガイドのアイザーダさん(左/日本語ガイド)とレギーナさん(右/英語ガイド).2人ともここビシュケクの住民で,カザフとキルギス両方を案内してくれた.今回訪れる国の中で,キルギス語,カザフ語,ウズベク語,トルクメン語などはチュルク諸語というファミリーで,大まかには互いに理解可能だそうである.タジク語だけはペルシャ語系で文法も全く異なるという.なおレギーナさんはロシア系でロシア語もごく普通に話し,アイザーダさんもかなり話すようである.総じて中央アジアの人々は多言語を操るようだ.
ビシュケクではアクケメホテルに宿泊した.ここからはアラトーがよく見える.山の天気は常に不安定で油断できないが,夕暮れ時ベランダで眺めていると,山脈の一部で雲が晴れ,少し赤く輝いた.峰名は判らないが夕暮れの赤味を帯びた白い頂はやはりきれいだ.
下は,アクケメホテルとそこから眺めたアラトー