ウズベキスタンのサマルカンド(Samarkand)市街部の拡大マップ.
シャーヒジンダとは「生ける王」若しくは「蘇った王」の意だそうだ.クサムブンアッバースとティムール一族が葬られているそうである.中でもクサムブンアッバース廟はサマルカンドで最も古い建造物で,彼は預言者ムハンマドの従兄弟であるという説があるそうだ.
クサムブンアッバースはイスラム布教のためサマルカンドにやって来て,アフラシアブの丘でイスラム寺院を建て布教活動に励んでいた.当時,サマルカンドはゾロアスター教で,イスラムのアラブとはよく戦火を交えていた.あるとき,クサムブンアッバースがモスクで礼拝中,地元のゾロアスター教徒に襲われ,首を跳ねられてしまった.ところが彼は動じることなく礼拝を済ませ,自分の首を抱え深い井戸へと入った.そこで彼は永遠の生命を得たという.
そのクサムブンアッバースの墓は一番奥まったところに位置しているようであったが,....ムハンマドの従兄弟となるとかなり時代が古い筈でちょっと時代が合わない気もしないでもないが.....筆者にはよく判らない.
先ず最初の感想として「きれい」が漏れる.ここのタイルの青は青のサマルカンドと称される源になったと思われるくらい別格の色あいだ.実際ここで最初に使われた色相の顔料のタイルが幾つかあり,他とちょっと違うな~という実感は正しいみたいだ.
シャーヒジンダ廟はたくさんの建物から成る複合施設で,モスクも備えられている.その内部もまた見事なタイルで装飾されていた.ここではよく判らないながら僧職の方の話を聴いたりした.内容が判ればもっと良かったであろうが.....
下は,シャーヒジンダ廟の写真あれこれ
アフラシャブの丘と呼ばれる小高い丘に登った.周りがよく見渡せるいい所だが現在空き地になっている.歴史的な場所で国の保護下にあるためだそうだ.土の塊について幾らか説明を受けるが,素人にはとっても理解できない.長い歴史を有するので,時代毎の地層からいろいろ判るという.よく判らないながらそれでも傍らに建設された博物館にいろいろ出土品が展示されていると聞くと興味が湧く.何でも,モンゴル軍によって徹底的に破壊される前までは,サマルカンドの中心はこの丘にあった.アフラシアブの名は,この辺りで活躍したソグド人の最初の王から名付けられたようだ.
アフラシアブの丘の歴史は古く,紀元前既に城壁で囲まれた街が形成されていた.紀元前328年にはアレキサンダー大王の襲来もあったようだ.時代は下り,上述のイスラムに攻め入られ,やがてこの地もイスラム化されたのだ.そして13世紀になるとチンギスハンの襲来で徹底的に破壊されたようである.館内にはそんな時代毎の品々が展示されている.
なお,そのサマルカンドを蘇らせたのが英雄ティムール(1336~1405)だ.彼はサマルカンドを帝国の首都として再興し,当時の美術,建築技術の粋を集め,グルエミル廟など建設したのは概述の通りである.
手っ取り早く言うと高松塚古墳の壁画クラス,或いはそれ以上であろう.フラッシュなしであれば撮影可能というので,カメラを柱に押し当てて何枚か撮ってみた.
かって,6~8世紀の頃,この辺りはソグド人がシルクロード交易で繁栄したという.それで下の壁画は当時のソグド人の王宮を飾っていたものだという.左上の船上の人々の図から右下の男たちの図まで結構内容が見えると思う.
この中で,右下の写真左上に白い四角形が見える.上手く写せなかったが,仔細に見るとここには文字のようなものが描かれていた.これはソグド文字と言われ,西方のアラム文字から発展した文字の一種で,後世のモンゴル文字や満州文字の元になっているという.壁画では黒い不鮮明な塊が縦方向に連なり,縦書きができる文字だったのだな~ということぐらいしか判らなかった.
現在日本では高松塚古墳の壁画の剥ぎ取り工事が行われているが,剥ぎ取り工法やその後の保存法については参考になることがあるのかも知れない.
レギスタンとは砂の広場の意味だという.3つのメドレセ(神学校)がコの字状に並んで建つ眺めはウズベクの象徴としてあちこちで登場する.ティムールの時代,ここは市場だったそうだ.後,ティムールの孫ウルグベクが1400年に先ず左側のメドレセを建てた.なので,現在ウズベクメドレセと呼ばれている.入った訳ではないが,ウルグベクの書斎も残っているそうであるし,実際ここで自ら教鞭をとったこともあるそうだ.彼は著名な天文学者でもあったので,一つには天文学の講座もあったに違いなかろう.
中央は,一番新しく1660年建立のティラカリメドレセ.ティラカリは金のことだそうで天井に金箔が多く使われている.このメドレセはモスクを兼ねており,左側の青いドームは当初未完のままであったが,暫くして完成したという礼拝所だ.
右側は1636年建立のシェルドルメドレセ.授業料や寮費が高額で,金持ち以外は入学できなかったそうである.
人の顔に動物!な,何なのだ!と最初に見たときは驚きのあまり声を上げよう.少なくともアラブなどでは,人や動物は偶像崇拝を禁じるイスラムの教えに反するので,ご法度,実際見ることはまずないと思う.シェルドルとはライオンのことだそうで,ライオンメドレセなのだ.言われなければ,いや言われても虎に見えてしまうが....まあそれはいいとして,そのライオンが鹿を追い,人顔の太陽が見下ろしている.で,意味するところは?学問の飽くなき探求と,支配権力の誇示.....だったかな~?
現在ウズベキスタンのムスリムはあまり厳格ではなく,例えばポークを食する人さえいるという.なのでこのユニークな偶像はウズベク政府がお札の図柄として使っている.ただ今後どうなるか判らないが.......
このミナレットは大小,様々な色のタイルが散り嵌められ,実にきれいだ.一番大きなアラビア文字,多分コーランの一節,は,画素数の少ないビットマップフォントのようだ.斜線部分に激しいジャギーが見られる.ただしこの場合はメモリサイズ縮小とか処理速度向上とかの目的ではなく,純粋にジャギーを活かしたデザインを目指したところに特徴があろう.
下は,レギスタン広場の写真あれこれ.2,3日後,2年毎に開催されるという東洋音楽祭の予定があり,リハーサルも行われていた.
ウルグベクはティムールと並んでガイドが最も口にする名前だ.まあ,それだけ良く知られた人である訳だ.ティムールの孫で帝国第4代統治者であったウルグベク(1394~1449)は,政治と外交手腕が高く,文化に対しても深い理解を示す非凡な施政者だったという.さらに,自身が科学者であり,当時世界でも著名な天文学者だったそうだ.ウルグベク天文台はそんな彼が建設した天文台の跡だ.
ウルグベク天文台には現在弧長が63mもある巨大な六分儀の地下部分が残っている.天体や物標の高度,水平方向の角度を測るための道具.ここでは天体の高度測定に使われているが,船舶などでは自身の位置の割り出しなどにも利用されるようだ.このように巨大だったのは精度を高めるためであったのであろう.
天文台跡には資料館が併設されていた.ここで一年の長さの計測値が展示されていたので見てみよう.
展示資料に依れば,ウルグベクが計測した一年の長さは365日6時間10分4秒,現代通用しているのは365日6時間9分6秒.58秒の違いしかないのだ.この頃日本では足利時代であるから,天文学,物理学といった言葉自体もあったかどうか?と思われるくらいなので,まあ驚くばかりだ.
下は,ウルグベク天文台跡の写真あれこれ
ホテル近く大通りは,プラタナスであろうか,大きな木が歩道を覆い,気持ちよく歩ける.
ところで最近日経夕刊で,ある女流作家の街の大樹に関する随想を見かけた.同氏によれば,東京は他の日本の都市に比べて街路には圧倒的に大樹が多いという.例えば,氏は大阪出身であるが,大阪の街路では樹は殆ど見ないし,友人の住む京都も通りには少ないという.東京に次いで,千葉や埼玉の都市に比較的大きな樹が多いとも記されていた.また,気候が樹を大きく育てるのであろうか,とも述べていた.
ここサマルカンドもそうであるが,今回立ち寄った中央アジアの都市は何れも街路樹は立派で,日本一とされる東京はこの足元にも及ばない,と感心してしまう.
ウズベキスタンで著名な建築家が設計したという,クリエフ家の豪邸で夕食を食べた.献立は,普通の肉じゃがのようなごく普通のウズベク料理であった.とても広い部屋があって,空けておいても仕方がないので有効利用のため,レストランでもやるか~となったのかな~?
街のあちこちに池があるが,決まって子供たちが水浴びをしている.あまりきれいな水とは言えないが,まあ慣れているから平気なのであろう.ただし,男の子だけで,女の子は水辺にいない.一応イスラムの国だから要所は抑えているのかな.
下は,サマルカンド市内あちこちの風景
下は,さらにサマルカンド市内