このベオグラード編では,2013/12/21(土)ボスニアヘルツェゴビナのヴィシェグラードからセルビア国境を越え,暫く走りベオグラードへ行くときの風景,ベオグラードの聖サヴァ教会,チトー記念館,カレメグダン公園を訪ね,クネズミハイロ通りの街並みを眺め,周辺のセルビア正教大聖堂やゼレニベナッツ市場などを見物し,あくる日12/23(月)朝ベオグラードを発ってイスタンブールに到着,暫く待って乗継し機中泊の長いフライトで12/24(火)昼ごろ成田に到着し,旅行終了するまでの写真を載せました.
セルビア共和国の首都ベオグラードはバルカン半島のパンノニア平原の中で,ドナウ川とサヴァ川の合流地辺りに位置している.
ヴィシェグラードから短時間走るとボスニアヘルツェゴビナ/セルビア国境に至り,出入国をする.審査は手間取ることなく短時間で終えた.
国境から程なくこの標識が見えた.ウジツェと読むようで,人口10万人くらいのズラティボル郡の郡都であるそうだ.
少し行くとこのような木造建築と云う大変珍しい教会が目に入った.とても小さく,しっとりしたデザインだ.屋根の十字架の形状などからすると,セルビア正教の教会ではなかろうか.
なおこうした木造の教会はこれだけでなく,例えば墓地を隣接した木造教会などもあって,興味深い.
周囲に比較対象物がないので比べにくいが,まあ随分と大きな干し草の束,いや山だ.崩れないように上手く積み上げたもんだ.冬場を過ごす牛の飼料であろうか.
国境から1時間ばかり行くとこの街があり,通過した.写真はちょうど鉄道駅のある辺りだ.添乗Kさんが街の紹介をしてくれていたのだが....思い出せない.何れにしても,国境からベオグラードに行く間で最も大きな都市だった.
上述の大都市を除くと,あとは小さな街や村と云った印象だった.写真のこの辺りの農家は庭に柵が設けてある.家畜囲いであろう.まだ午後3時位であるが,陽射しはかなり低い位置から照り付け,若干赤みも帯びているように見える.緯度(ベオグラードは44.83°)が日本の北端辺りに相当する位置のようなので,ほぼ冬至のこの時期は特に陽の位置が低いのであろう.
陽が落ちてから結構長く走り,2013/12/21(土)午後5時半過ぎベオグラードのズラトニクホテル(Hotel Zlatnik)に到着した.新市街エリアの住宅街にあるのが面白い,というか変わっている.今回ツアーでは一番格が上とのことであるが,換言すれば造りが古いとも言えよう.
夕食は有名という併設レストラン(Zlatnik Restaurant)で頂戴した.写真がないし,はっきり覚えてないが多分美味しかったであろう.少なくともクラシックなインテリアは大変雰囲気が良く,素晴らしい.
なお,あくる日朝のZlatnik Restaurantの朝食は生ハムなどもあり,特段に美味しかった(←ヨイショ気味かな).
下は,ベオグラードへ行くときの風景
2013/12/22(日)ズラトニクホテルで朝を迎えた.ホテルレストランで美味しい朝食を頂き,バスに乗り込んだ.
バスは広い区画に現代建築が多く聳えるビジネス街を抜け,サヴァ川(Sava river)に架かる橋を渡り,旧市街へと向かった.
聖サヴァ教会(Cathedral of Saint Sava)に到着した.とても大きな建物だが,正教系教会では世界最大級だそうだ.写真は正面であるが,側面も,素人目にはほぼ同じような格好に見える.真上から見るとどちらも同じ長さのずんぐりした十字に見えるのではなかろうか.実際そうした十字はギリシャ十字と呼ばれ,正教では一般的な形ということだ.
本大聖堂はセルビア正教会の創立者聖サヴァ(St. Sava:1175頃~1235年)を祀った教会で,ここは1595年異教徒であるオスマン帝国のスィナンパシャ(Sinan Pasha)によって聖サヴァの遺体(不朽体というそうだ)が焼かれた跡地で,そこに建てられたということだ.
中に入って眺めると随分高いドームの天井だ.そして骨組みは完成しているが,内装工事は進行中で,しかもまだその初期段階のように窺える.
内装工事中であるが,左側にはこのような仮設の礼拝所が設けられていた.工事中ではあるが多くの信徒がお祈りに訪れるようで,その便宜を図っているようだ.
キリスト像背後に見える中央にアーチ型天井を持ち,イコンの貼られた壁はイコノスタシス(iconostasis)で,一般信徒はこの手前まで行きお祈りし,僧職の方はその奥(至聖所)に入るそうだ.
ところで工事は1935年に開始されたが,途中ナチスドイツの侵攻やコソボ紛争等などで中断もあって,手間取っているそうだ.果たしていつ頃完成するのであろうか?
正門から入って直ぐのところにも数枚のイコンが掲げられ,ろうそくを灯すことができるようになっている.また近くに売店が置かれ,ろうそくなどを買うことができる.
そして写真の女性のように,多分お使いの途中など,短時間訪れてここでお祈りして帰っていくようであった.
下は,聖サヴァ教会での写真
聖サヴァ教会を後に,私たちはチトー記念館,正しくは『花の家(House of Flowers)』を訪れた.旧ユーゴスラビア大統領時代,ここに居宅があったそうだ.尤も広いユーゴスラビアのあちこちに住まい,別荘があったそうではあるが.生前花や植物が好きで,下の写真,ガラス天井の温室を作り,観葉植物など栽培していたそうだ.
写真のブロンズ像は軍服姿で,うつむき何やら思案している風である.うつむきスタイルの銅像は他所ではあまり見たことがなく,印象的だ.
チトー(Tito:1892~1980年)はユーゴスラビア共産党に入り,人民解放軍(パルチザン)の総司令官を務め,後ユーゴスラビア首相兼国防相を務める.そして1953~1980年ユーゴスラビア大統領となり,何と言っても多民族多言語多宗教のユーゴスラビア,後に『7つの国境,6つの共和国,5つの民族,4つの言語,3つの宗教,2つの文字,1つの国家』と言われた大変な国を束ねたことで有名だ.
温室の奥に大きな墓石があり,TITOと記されている.TITOは本名でなく,ニックネームであるが気に入っていたそうだ.
温室の両サイドはチトーの記念館となっており,所縁の品や写真が展示されている.この写真で,ガラスケース内には,年に一度催されたという全国都市駅伝のようなマラソン大会で用いられたバトンのようなものが展示されている.バトンは各都市が工夫を凝らし,競ったそうである.華美に行き過ぎたケースも出たそうだが.
モノクロのマスゲームの写真があった.上記全国駅伝で集まった各エリアの選手が,チトー大統領の前でこうした演技を披露したそうだ.
これを見て北朝鮮の現在を思い浮かべる.チトー大統領もある意味独裁者であったから,少なからず北朝鮮と似た面があったのではなかろうか.
花の家敷地内に別途博物館(正式名は不明)があった.ここには各地の伝統衣装や道具,昔から武器,チトー大統領に贈られた諸国からの品々...などが並んでいる.例えば日本からの兜なども見えた.
なおこの館の他に,もう一つ立派な館もあって,各種出版物等が並んでいた.
下は,チトー記念館での写真
チトー記念館はベオグラードの高級住宅街にあり,周囲には大使館なども多いそうだ.
私たちはチトー記念館を後にして,国会議事堂前など通過し,カレメグダン公園にやってきた.
カレメグダンはベオグラードの要塞,カレメグダン城が在ったところだそうだ.最初2世紀,ローマ軍団がここに駐屯地として要塞を建設したのが始まりで,以降18世紀のオーストリア占領下での建設まで,幾度か破壊,再建,補強が繰り返されてきたそうだ.
現在は城壁の内外含めて一帯が公園となっており,緑豊かな園内は市民で賑わっている.
なおカレメグダン(Kalemegdan)は長いこと支配したオスマントルコの言葉で,カレ(Kale)は,何日か前に見てきたマケドニアのスコピエ城砦(Skopsko Kale)のそれと同じく城,城塞で,またメグダン(megdan)は広場の意だそうだ.
私たちはお堀を挟んで二重の城壁の間に架かる橋を渡り,スタンボルゲート(Stambol Gate)をくぐって内城に入った.
オスマントルコ進出前後に建てられたという城壁もゲートも実に頑丈な石造りで,ちょっとやそっとでは壊せない感じだ.
ゲートの先の尖塔はセルビア正教の聖母教会(Church of the Holy Mother of God /Ruzica Church)ということだ.
二重城壁間のお堀,いや水がないので単に窪み,溝か,には戦車や高射砲,迫撃砲といった兵器展示場が,また少し離れてテニスコートが設けられている.
なお窪みに水がないのは最近枯れたということではなく,脇を流れるサヴァ川もドナウ川もここからは水位が低く,引けなかったのではなかろうか(想像).
セルビア伝統武芸保存会の人たちが,民族衣装に身を包みセルビア手裏剣を木の的目掛けて投げていた.手裏剣と言っても『伊賀者』や『くノ一』の投げる星形のものと違って,的に刺さった剣を眺めると,極めて大型の非対称不規則形で,剣より斧という言葉がしっくりきそうだ.つまり手裏剣投げではなく,投げ斧がピッタリかも.忍者はあたかもマシンガンの如く,胸の近くからシャシャシャッ!と連続的に投じる(映画だけか?)が,ここの投げ斧は田中の150km/h級ストレートのように力強く肩から投げ下ろす.とにかく眺めていると凄い迫力だ.
カレメグダン公園の先に行くと,左から流れ来るサヴァ川(Sava river)と,上から来るドナウ川(Danube river)が交わる様子がよく見える.ドナウ川奥の大地は中洲で,その先にもう一本のドナウ分流が流れている.
サヴァ川はスロベニアで始まり,クロアチア,ボスニアヘルツェゴビナを経てここでドナウに交わり,一方ドナウ川はドイツ山中を源に,ウィーンやブダペストなど経て,ここベオグラードに至り,この下流はルーマニア,ブルガリアを通過し黒海に注ぐ.実に長い.その2つの合流点ベオグラードは軍事的にも通商的にも要衝であった筈だ.
公園の先端,サヴァとドナウを見下ろす場所に勝利者像(statue of the Victor)があった.第一次大戦後の1928年,オスマントルコ支配からの開放を記念し建てられたそうだ.クロアチア人彫刻家制作という裸身男性像で,右手に剣,左手のハヤブサ(falcon)を持っている.台座の柱を含めて古代ギリシャ風に感じられる.
下は,カレメグダン公園での写真
カレメグダン公園の南から直ぐにクネズミハイロ通り(Knez Mihailova st.)が始まっており,公園から引き続き歩き始めた.通りは歩行者天国となっており,ちょうど日曜日とあって人がいっぱいだ.
通りは幅広く,両側にはヨーロピアンスタイルの建物が連なっている.そして衣料品店,レストラン,雑貨店....各種ショップが並んでいる.なかなかおしゃれな街の印象だ.ただキリル文字が多いので判りにくい.
これまで通過した国はユーロが使えたが,ここセルビアだけはそれが使えないところが多いそうで,幾らかセルビア通貨デナールに両替した.もち論クネズミハイロ通りにも両替屋がたくさんあるが,たまたま横丁を眺めると看板が目立ったのでここで替えた.
↑横丁の両替店 | ↑100デナール紙幣 |
---|
で,右は替えた,何の変哲もない100デナール紙幣....と思ったが,よく観るとT=Wb/m2と,磁束密度1T(テスラ)が単位面積(m2)当たりの磁束ウェーバ(Wb)であることが記されている.まあ風変わりなお札で,へえ~と思った次第だ.
物理の単位に採用されている人名は,皆歴史的に世界を代表する物理学者であるが,このテスラ(Nikola Tesla)はオーストリア帝国(現クロアチアの西部)の生まれ,後に渡米し,インダクションモータ始め数々の成果を上げたが,父母共にセルビア人だそうで,それ故デナール紙幣に採用されたのではなかろうか.主に米国等で業績を残し,1000円札の肖像になっている野口英世に少し似ていようか.
クネズミハイロ通りには子供連れの人も多く,また子供を集めている客寄せの人たちもいる.
ここで実際絵筆をとっている画家もいる.寒いしなかなか大変だ.
こちらはミュージシャン.
クネズミハイロ通りと交差する道を行くとセルビア正教大聖堂に行き当たった.19世紀セルビア公ミロシュオブレノビッチ一世の建立で,後期バロック風ということだ.
正式名称は聖ミカエル大聖堂(Cathedral of St. Michael)と呼ばれるそうで,正面外壁には2枚の大きなイコンが掲げられ,その中の一枚が左の写真で,これが聖ミカエル(マイケル)ではなかろうか.
ところで普通大聖堂は一つの街に一つだと思うが,朝見てきた聖サヴァ教会との関係はどうなんだろう?聖サヴァ教会は未完成であるので,完成後はあちらに大聖堂の機能が移るのであろうか?
聖ミカエル大聖堂正面,道路を挟んで向かいに大主教宮殿があった.1920年建設で,バロック様式だそうである.確かに柔らかい雰囲気だ.正教の聖職者は幾つものクラスに分けられるそうだが,大主教は総主教に次ぐ偉い立場のようだ.ここ大主教宮殿の主は向かいの聖ミカエル大聖堂の一番上位の人のお住まいであろうか?
↓聖ミカエル大聖堂 | ↓クネズミハイロ通りから望む聖ミカエル大聖堂 |
---|
↑大主教宮殿 | ↑ベオグラード最古の?カフェ |
---|
聖ミカエル大聖堂の右横に,この1823年創業ベオグラード最古というカフェがある.?マークの看板が面白い.トルコ風エクステリアがオスマントルコ帝国の時代からと物語っている.当初店名を『大聖堂』としたのだが,商標権侵害で認められず,新しい名を付けるまでとりあえず『?』とした筈だったのだが,その後付けそびれそのままになったとか.意外性から注目度高そうで,まあ怪我の功名といったところであろうか.
暖かいわけではないが外で食事やお茶を楽しんでいる.こちらの人たちは実に元気だ.私は右上の暖かいカフェに入って,サブウエイのような長いサンドイッチにコーヒーとした.
クネズミハイロ通りの南端まで行くとホテルモスクワ(Hotel Moskva)があった.ソ連と周辺が共産主義の時代だった頃は,同名のホテルがどこにでもあったのだそうだ.最近は殆ど消え去り,ここが残った数少ない中の1つだそうだ.
ホテルモスクワの前庭ではクイズか何かの抽選会が催され,親子連れで賑わっていた.
ホテルモスクワの右坂を下ったところに大屋根のゼレニベナッツ市営市場(Pijaca Zeleni Venac)があり,覗いてみた.ベオグラードでは大事な市場だそうで,屋根の下には入りきらず,外にもはみ出て営業されている.
なかなかいいな~と自己満足の光景
クネズミハイロ通りを十分に歩き回り,バスに乗ってサヴァ川を渡り新市街のホテルに戻った.右写真はその新市街であるが,私の感覚では旧市街では...とも感じられる.まあ,オスマントルコ時代から後は全て『新』となるのであろう....多分.
ホテルで一休みし,再びバスに乗ってベオグラードでレストランが集中していると云う一画に繰り出した.街の照明はあまり明るくない.独り歩きは躊躇われる雰囲気だ.
私たちは長い歴史があるという古いレストランに入った.天井は高く,剥がれかけた壁画が描かれ,楽師が陣取るバルコニーが付いている.そしてベオグラード伝統料理と云う右側の料理を頂戴した.で,ビーフシチューのようなものだったかな.....?何れにしてもこれがこのツアー最後のちゃんとした食事になった.ごちそうさまでした.
2013/12/23(月)Hotel Zlatnikで2回めの朝を迎えた.この日はイスタンブールに向け,朝のフライトなのでまだ未明にホテルを出て,ベオグラード国際空港に向かった.
空港に着き,バスから荷物を下ろした.これでバスはおしまいだ.ドライバGさんはこれから空荷でマケドニアまで運転して帰るそうだ.Gさん,随分長い距離ありがとうございました.お気をつけてお戻り下さい.
トルコ航空カウンタでチェックインし,9:25発TK-1082便に乗り込み,イスタンブールへと向かった.
2時間足らずのフライトであるがちゃんと朝食を出してくれた.
TK-1082便がイスタンブール上空に来ると赤い屋根に白い壁の家が密集し,高いミナレットが点在する光景が目に入った.そして程なく定刻の昼過ぎに到着した.
成田行きトルコ航空TK-0050便は17:15発なので,相当待ち時間があった.イスタンブール空港は一部工事中で閉鎖されているためもあるのか,とても混み合っている.空いたシートを見付けて座るとMP3を耳にしてひたすら待機した.
夕刻イスタンブール発成田行TK-0050便に乗り込んだ.機材は往きと同じB777-300ERであったがこの機のエコノミークラスにはwifiが付いてなかった.ただ搭乗率は40%くらいであろうか,空いていて良かった.
飛び立つと間もなく左の夕食を出してくれた.挽き肉料理はトルコが発祥の地だそうで,古くからの伝統料理を振る舞ってくれたようだ.
機は順調に飛行を続け,一眠りし翌2013/12/24(火) になった.もう一度今度は朝食を出してもらい,しばらくすると昼前になり,成田に到着した.
入国審査を経て外に出ると,荷物も程なく出てきた.成田は速い.添乗Kさん,同行の皆さんありがとうございました.
成田から京成に乗った.写真は東松戸辺りだ.バルカンも概して好天に恵まれ良かったが,東京もすばらしい天気だ.何よりだ.
おしまい.
下は,イスタンブール経由で帰国するときの写真