このヴィシェグラード編では,2013/12/21(土)朝サラエボのホテルを出てヴィシェグラードへ行き,ソコルルメフメトパシャ橋を見物し,近くで昼食.そして再びバスに乗り,セルビア国境へと向かったときの写真を載せました.
ヴィシェグラードはボスニアヘルツェゴビナの東端,セルビアとの国境近くにある小さな街だ.ここを流れるドリナ川に架かるソコルルメフメトパシャ橋があることで知られる.
2013/12/21(土)サラエボのハリウッドホテルで朝を迎えた.ホテルのバフェで朝食を食べ,バスに乗り込んだ.
郊外のこのホテルからサラエボの街を抜けるように東に向かった.朝靄の中,郊外から都心に向かうトラムに乗り込む朝の風景が見える.さすがこの時間帯は混んでいるようだ.
前日撮り損ねたラテン橋(旧プリンツィプ橋)も,今度は何とか写っていたようだ.モスタルのスタリモストのように中高の勾配が付いている.
サラエボの街を抜けると,山道に入っていった.地面に雪も見えるが,葉の落ちた樹木の枝が白く染められきれいだ.霧氷ではなかろうか.この辺は霧が多いので,きっと過冷却で着氷するのであろう.
バスが東へと進んだ.途中幾つかの村を通過した.雲が厚く,霧も深く,寒いためか,どこもひっそりした様子に感じられる.牧場の羊も寒いせいか,身を寄せ合っている.
下は,サラエボからヴィシェグラードへ行くときの写真
バスが進むとドリナ川(Drina River)が見えてきた.かなりの幅があり,深いグリーンの水を満々と湛えている.
目指すヴィシェグラードは近いようである.源はバスが通ってきたディナルアルプス山脈で,それがカルスト地形なのだそうだ.きっとこのきれいな水の色は,そのカルストが侵食され,溶解された成分に因るものなのではなかろうか.
ヴィシェグラードに到着し,お目当てのソコルルメフメトパシャ橋(Mehmed Pasa Skolovic Bridge)を眺め,渡った.全長179.5m,幅6.3m,水面から高さ15.4mで,11のアーチを持つ石造り構造だ.路面は中央を頂点として両側に勾配が付けてあるが,傾斜は緩やかだ.
設計は昨日見てきたモスタルのカラジョズベゴヴァモスクなど,数多くの設計で知られる,あの高名なミマールスィナン(Koca Mimar Sinan)が手がけ,1577年に竣工したそうだ.
設計者ミマールスィナンはオスマントルコの建築家でまた土木技術者であった訳だが,作らせてのは当時一帯を支配したオスマン朝の大宰相ソコルルメフメトパシャ (Sokollu Mehmet Pasa) で,それが橋の名になったのだ.
で,橋の中ほどにはお祈りの際のメッカの方向を示すミフラブが設けられている.ここからだとメッカは南東に位置するようだ.形態はモスクで見かけるものと同じく,窪みのあるアーチだ.
ミフラブの右側面に水平線と1896の年号が記されている.同年洪水で,ここまで高い水位が記録されたそうである.橋は完全に水没し,一帯の村は冠水し甚大な被害を被ったそうである.長い歴史を振り返ると,このドリナ川は100年に一度くらいの頻度で大洪水を起こしているそうだ.
ところで,ソコルルメフメトパシャ橋自体は洪水で流されず,大丈夫だったそうだ.ところが20世紀になり,二度に渡る世界大戦では壊滅的な被害を被ったそうで,何とか修復し今日に至っているという.
ソコルルメフメトパシャ橋を渡り中程で下流側を眺めるとこんな風景が広がっている.左岸にはヴィシェグラードの戸建て住宅が多く見える.私は甚だ疎いのだが,1961年ノーベル文学賞受賞の作家イヴォアンドリッチ氏が住み,執筆したという住宅も残っている.そして代表作『ドリナの橋』で登場するのがこのソコルルメフメトパシャ橋とヴィシェグラードの人たちということだ.
右岸側の先は集合住宅も多いようだ.ただ橋の袂には街が形成され,比較的古くからの住宅や,またセルビア正教教会と思しき建物も見えた.
対岸に渡り眺めるとこんな風に見える,流れているが波が無く,アーチが反射し綺麗な楕円が作られている.橋は概ね上流側と下流側同じ作りなのだが,橋脚部分だけは異なっている.上流側はこの写真のように先端がシャープエッジの楔型で,下流側は上の写真のように円形となっている.つまり船舶断面形状と同じようになっており,それが水に抗して進むとき形成される流線と同じようになるようにして,抗力を少なく,橋の場合は押し流そうとする力が低減されるようとしている訳だ.な~るほど.
ソコルルメフメトパシャ橋は2007年ユネスコ世界遺産に登録された.上述のように,大戦後の修復など行われた結果で,また今も路面を建造当時の石畳に戻す張り替え工事が継続されている様子を見ることができる.修復資金はこの写真のように色々な機関,トルコ政府,トルコのTiKA,ボスニアヘルツェゴビナ政府,それに写真で左から2つ目,通称セルビア人共和国(正しくはスルプスカ共和国,旗がロシア国旗に酷似しているような?)などが提供しているようだ.
ここヴィシェグラードはセルビア人共和国(正しくはスルプスカ共和国)に属し,ボスニアヘルツェゴビナ紛争以前の1991年頃まではボシュニャク人(イスラム)が62.8%,セルビア人(正教)が32.8%,他少し,だったそうだ.それが1992年頃から,『サラエボ包囲』と同じような状況,ユーゴスラビア人民軍がヴィシェグラードを包囲してボシュニャク人地区を攻撃.ボシュニャク人は大勢殺され,また他に逃げ,サラエボと違って最後はセルビア人が制圧してしまった,ということだ.そして現在ヴィシェグラードはスルプスカ共和国に属し,そこの資金で橋を修復しているということになる.
下は,ヴィシェグラードでの写真
私たちは前述の作家イヴォアンドリッチ氏宅に近いANIKAレストランに入った.ビーフシチューに酢漬けの野菜であったか.
赤々と燃える薪の暖炉がなかなかいい雰囲気で,ビールが一層美味しく感じられた.
ヴィシェグラードで昼食後,バスはセルビア国境へと向かった.やがて道路脇に鉄道線路が見えてきた.狭軌の単線のようである.旧ユーゴスラビア時代に敷設され,線路自体はセルビア側に繋がっているのだそうだが,現在は相互乗り入れはないそうだ.こちらボスニアヘルツェゴビナ側では,ヴィシェグラードとセルビア国境手前まで往復運行されているらしい.夏の間だけか?
なお国境を越え,セルビアに入るとそちらも夏の間だけ,山岳観光列車として運行されているそうだ.なかなかの人気とか.
下は,セルビア国境へ向かうときの写真