ビトラBitola

このビトラ編では,2013/12/15(日)朝バスでスコピエからビトラへ向かい,先ずヘラクレア遺跡を訪ね,そしてビトラのチトー通りを歩き,旧軍学校や大きな日時計,フィリップ2世騎馬像,17世紀の時計塔,イェニモスクなどを眺めたときの写真を載せました.


ビトラ付近のGoogleマップ

オフリド湖に東に位置するビトラには,古代ギリシャ,古代ローマ時代のヘラクレア遺跡が残されている.

ビトラへgo to Bitola

スコピエの朝

スコピエの朝

12/15(日)朝ホテルで目覚め,窓を覗く.モヤの充満した大気に包まれ,全て霜で覆われた景色が望めた.

丘の上には教会が見える.正教会で,きっとこの辺りが教区で,こぢんまりした佇まいだ.

ホテルのレストランで朝食後バスで出発だ.概して朝食は,この後も含めて大変美味しく,言うことなしだ(自分基準で)


スコピエの聖クリメント大聖堂(St. Kliment Ohridski)

聖クリメント大聖堂(St. Kliment Ohridski)

バスで出るとすぐにこのような教会が目に入った.随分新しいデザインであるが,マケドニア正教の大聖堂で,そして首都スコピエにあるのでマケドニア正教の総本山であるそうだ.1972年から94年にかけて建設され,モダンな外観であるが,内部は正教会らしくフレスコ画やイコンでいっぱいであるそうだ.


スコピエ郊外の朝

スコピエ郊外の朝

スコピエはあまり大きな街ではないので,程なく郊外に出た.干し草の積まれた農家には霞のあいだから弱々しい朝の光が射し込んでくる.清々しい光景だ.


霜がいっぱい

霜がいっぱい

大分走った後,ガソリンスタンドで休憩となった.大分陽は高くなったが,それでもまだ草木は霜で白い.間近に眺めると草には小さな氷の結晶が付着している様子がよく見えた.


小さな教会のお堂

小さな教会のお堂

休憩したガソリンスタンドの庭の片隅にこのミニチュアサイズの教会風お堂があった.ごく小さい.仏教では例えばタイやベトナムではこの程度のサイズの仏教のお堂をよく見かけるが,キリスト教のはかなり珍しいように思える.


山に近くなり,ビトラは間近

山に近くなり,ビトラは間近

バスはどんどん進んだ.今は枯れているがワイン用のぶどう畑は広範囲に展開されている.ワインはかなりの名産地と評価されているという.通しのバスドライバGさんの実家でもワインを作っている(この辺りの農家では皆自家用に醸造するそうだ)そうで,この日の夕食にと一本差し入れて下さった.ありがとうございます,頂きます.

ビニールハウスも所々に見られる.野菜であろう.

そして雪山が見えてきた.ヘラクレア遺跡のあるビトラは間もなくのようである.


下は,ビトラへ行くときの写真

ビトラへ行くときの写真
ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真
ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真 ビトラへ行くときの写真

ヘラクレア遺跡Archaeological site of Heraklea

ヘラクレア遺跡全景

ヘラクレア遺跡全景

さてヘラクレア遺跡に到着した.ヘラクレア(Heraklea)の名はギリシャ神話のヒーローヘラクレス(Heracles)に因むそうだ.石やレンガを積み上げた壁や列柱,コリント式の柱装飾など見える.床には素晴らしいと評判のモザイクが敷かれている筈だが,今は冬季で寒さから保護するために砂利で覆われている.どうして寒さ保護になるのか未だその仕組が理解できないでいるが.

ヘラクレアは,先ず紀元前4世紀,古代マケドニアアレクサンダー大王の父フィリップ2世(この後訪れるビトラの街に銅像があった)によって植民地化され,後にローマ帝国によって征服されたそうである.詳しくいうと,古代マケドニアの上にはギリシャ,ローマ帝国,ビザンチン帝国などの層があるのだが,現在遺跡として残り,現に今眺めているのはローマ時代のものがメインであるそうだ.つまり古代マケドニア時代の遺跡はその下層にあり,現段階ではあまり発掘調査されていないというわけである.古い街の上に新しい街を重ねて作るのは,例えばトロイ遺跡のようにこの辺りでは一般的なやり方のようである.

最後のビザンチン帝国時代,518年のバルカン半島を襲った大地震で,ここヘラクレアも壊滅的打撃を受け,以降再建されることがなかったそうである.そして後にスラブ系民族が占めるに至る訳だ.


ヘラクレア遺跡のローマ浴場跡

ローマ浴場跡

ローマ帝国の遺跡では必ず備えられている浴場は,やはりここにもあったようだ(アーチの辺り).もち論清潔を保つためであるが,加えて社交の場でもあったそうだ.

その隣辺りには大理石であろうか白い石材が用いられている裁判所跡や,ビザンチン時代初期に造られたというキリスト教会(バシリカ)の洗礼堂跡などが見える.即ち518年大地震の前には既にキリスト教が主だったのである.


ヘラクレア遺跡のローマ円形劇場

ローマ円形劇場

丘の斜面に,ローマ皇帝ハドリアヌス(Hadrian)が造ったという円形劇場が残されている.収容人員は3,000人程度だそうで,ローマ劇場としての規模は然程大きくはないと思う.ローマ人は普通市民の1/10くらい収容する劇場を作るのが慣わしだったそうで,この街の人口は2~3万人と見られるそうだ.

最も観客を集めたのは,甚だ残酷であるが,剣士(グラディエイター/gladiator)と猛獣が戦う催しだったそうだ.剣士が勝つことはあまり無く,多くの場合猛獣にやられたそうだ.剣士は普通囚人(上の裁判所で裁かれたのであろう)で,劇場内部には猛獣部屋があり,劇場剣士入場口は隣接する刑務所に直結されていたそうだ.ただこうしたローマ帝国の猛獣との決闘は,キリスト教の拡大に伴い禁止されるようになったそうではある.

なおローマ以前,ギリシャ時代の劇場では,演劇など現代社会同様な文化的催しが普通だったそうである.


ヘラクレア遺跡モザイク画の写真

モザイク画の写真

モザイクが砂利で覆われ,殆ど見えない.ガイドDさんが代わりに写真を広げて説明してくれた.モザイクは顔料とかは用いられず,各種色の石を細かくして並べて作るので,色褪せることはないそうだ.(ではなぜ砂利で覆うのか?)

モザイク画は動物や魚,或いは木や花が多く,またかなりは宗教的題材から選ばれるという.ここではキリスト以前の所謂神話的モチーフが多いようである.真ん中の,何かを挟んで2頭の鹿が対向する絵は,チベット仏教寺院の屋根に載せられる,対向する2頭の鹿の構図とまあよく似ているものだと思った.


ヘラクレア遺跡資料館壁の孔雀モザイク

資料館壁の孔雀モザイク

資料館の壁に本物のモザイクが展示されていた.孔雀かな...?周りで採取できた石が限られているせいか,例えばグリーンやブルー系羽根など,全般に彩度が低く,地味な色遣いに感じられる.或いは剥離や劣化でこうなったのであろうか?


ヘラクレア遺跡のアテナパルテノス(Athena Parthenos)

アテナパルテノス(Athena Parthenos)

資料館には幾つかの石像があった.これはアテナパルテノス(Athena Parthenos)と称し,Parthenos=Virginの意で,アテネのパルテノン神殿のご本尊なのだそうだ.

最初にペイディアスという彫刻家が紀元前447年頃に金と象牙で作ったが,後に火災で焼失したそうである.そしてペイディアスの後に,この遺跡の像も含めてあちこちで数多くのアテナパルテノス像が彫られたそうである.

さてこの女神であるが,やや厳しいというか,硬い印象を受ける(私の場合).左手で持っているのは薄々そうではと思ったが,やはりヘビだそうで,ちょっとドキッとする.右手は欠落しているが本来は『勝利の像』を携えているらしい.


下は,ヘラクレア遺跡での写真

ヘラクレア遺跡での写真
ヘラクレア遺跡での写真 ヘラクレア遺跡での写真 ヘラクレア遺跡での写真 ヘラクレア遺跡での写真 ヘラクレア遺跡での写真 ヘラクレア遺跡での写真
ヘラクレア遺跡での写真 ヘラクレア遺跡での写真 ヘラクレア遺跡での写真 ヘラクレア遺跡での写真 ヘラクレア遺跡での写真 ヘラクレア遺跡での写真

ビトラの街city of Bitola

ビトラの街の旧軍学校,現在博物館

旧軍学校,現在博物館

さてビトラの街の入り口でバスを降り,チトー通りと呼ばれる歩行者天国を歩き始めた.片側に白い大きな建物と,その庭に戦車や大砲が展示されている(写真右側).古くはオスマントルコ支配の時代から軍人養成の学校だったそうである.トルコ建国の父アタチュルク(本名ムスタファケマル)もここで学んだそうである.

現在は博物館としてビザンチン帝国時代の遺物から近年の兵器,アタチュルクの遺品や資料が展示されているそうだ.まあ実質的にアタチュルク博物館だそうでトルコ人訪問者は特に多いようだ.

なお道を挟んだ反対側には広い庭に建つ,白い建物があった.かつての将校クラブだそうである.


ビトラの街のチトー通りを歩く

チトー通りを歩く

趣きある建築物に混じり,キリスト教会とモスクのミナレットが同時に見えるのがマケドニアの街らしい光景であろう.好天の日曜日とあってか,通りを行く市民は続き,オープンカフェは賑わっている.ただ失業者が結構多くを占めているとも.

ビトラはマケドニアで3番目に大きい街だそうだが,それでも人口は十数万人に過ぎないそうで,にわかには信じられない数値だ.それでも領事館だというトルコや英,仏の国旗が翻る光景を見れば,街の位置付けが納得できよう.


ビトラの文化センター

文化センター

文化センターだという.その間には8x10箱型くらい大きなカメラを扱うカメラマンのブロンズ像が見える.確か世界的に著名な写真家だったような.....また広場にはクリスマスツリーが飾られていた.コソボと違って正教徒が多数を占める国なのでそれが自然なのだ.


大きく読み易い日時計

大きく読み易い日時計

文化センター横の建物の壁に組み込まれた大きな日時計だ.12時ちょっと過ぎの現時刻が容易に読み取れる.曇るとアウトだが晴天下ではちょっと古代の雰囲気でなかなか趣き深い.


ビトラのフィリップ2世の騎馬像と17世紀の時計塔

フィリップ2世の騎馬像と17世紀の時計塔

フィリップ2世(紀元前382~336年)はアレキサンダー大王の父親で,幼少期に敵方の人質となったことがあるそうだ.家康のようだ.強国になりつつあった古代マケドニアを,軍制改革を進めて飛躍的に強国にした実績があるそうだ.フィリップ2世像は確か,スコピエの石橋界隈にもあった.

言い伝えによれば最初に時計塔の記述が現れるのは1664年に遡り,現在の33mの高さになったのは1830年代とされているそうだ.それは,この近くの聖デミトリアス正教会(St. Dimitrie Church 同じ名の教会はスコピエにもあった)が建設されたのと同じ頃となるそうだ.尤も途中で幾度か修復はされてきたようではある.

既に350年前にはこのような時計があった訳で,大した技術だ.曇の日も,夜間も日時計に代わって機能したことであろう.


ビトラのイェニモスク(Yeni mosque)

ビトラのイェニモスク(Yeni mosque)

時計塔に近く,ドラゴル川(river Dragor)少し手前の道脇にあった.縦横50mくらいの建坪で,1558年Kadi Mahmud-efendiと云う人によって建てられたそうだ.イェニ(Yeni)とはトルコ語で『新しい』と云う意味だそうで,従ってイェニモスクの名のモスクはマケドニアのみならずあちこちにあるそうだ.

また写真左側に足場を組まれた修復中のモスクも見える.案内板によればIsak mosqueのようである.工事現場ではTiKAの看板が掲げられ,主にトルコ政府の資金援助で進められているようだ.


下は,ビトラの街での写真

ビトラの街での写真
ビトラの街での写真 ビトラの街での写真 ビトラの街での写真 ビトラの街での写真 ビトラの街での写真 ビトラの街での写真 ビトラの街での写真
ビトラの街での写真 ビトラの街での写真 ビトラの街での写真 ビトラの街での写真 ビトラの街での写真 ビトラの街での写真 ビトラの街での写真

チトー通りで見かけた子供たち

どこの国でも子供はかわいい.

チトー通りで見かけた子供たちチトー通りで見かけた子供たちチトー通りで見かけた子供たち

さてこれでビトラとヘラクレア遺跡の見物は終わった.次はオフリドだ.


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