ベラートBerat

このベラート編では,2013/12/16(月)朝マケドニアのオフリドを発ち,アルバニアに入国.そしてベラートへ行き,千の窓の街や,ベラート城でコンスタンティヌス帝の石像,聖マリア教会,三位一体教会,内城(本丸),聖テオドロス教会,オスマン朝時代のミナレットなどを見物.その後アルバニアの首都ティラナへと向かったときに撮った写真を載せました.


ベラート付近のGoogleマップ

のベラートはアルバニア最高峰トモリ山(Mt. Tomorr)の麓に位置する古都.

マケドニアからアルバニアに入るenter Albania from Makedonia

オフリド湖を巻きながらアルバニア国境へ

オフリド湖を巻きながら国境へ

12/16(月)朝マケドニアのオフリドのHotel Belvedereで朝食の後,バスで発った.オフリドの街を出ると直ぐにオフリド湖の脇を巻く通りとなる.頂きを白く染めた国境の峰を背景にエメラルドがかった湖水が美しい.


マケドニアのストゥルーガ(Struga)の街に入る

ストゥルーガ(Struga)に入る

オフリド湖を過ぎると国境の街,いや国境手前の街ストゥルーガ(Struga)の街に入ってきた.何しろ大きな歓迎の看板が出ているので素人でも判るのだ(^^;

国境はこの先,山道を上ったところにある.何しろ暫く前まで鎖国していた国なので果たしてどんな入国審査が待っていようか?


------- ここからアルバニア -------

マケドニアから無事アルバニアに入国,早速名物トーチカ現る

無事アルバニアに入国,早速名物トーチカ現る

山の中にマケドニアとアルバニアの出入国管理事務所が少し離れて建っていた.それぞれパスポートを渡すと,まあ普通程度の時間で審査が済み,通過した.

入国すると下り坂となる.そして程なく,アルバニア名物とされるトーチカ(写真中央,扁平な丸いドーム)が現れた.コンクリート製のようで,出入口若しくは銃眼用穴が設けられている.共産主義国家独裁者エンベルホッジャ(Enver Hoxha,在位1944~85年)が,当初スターリンに傾倒,後中共に接近し,ソ連と断交,そして一旦中国との関係を深める.そして今度は1978年中国と国交断絶に入るのだが,その少し前の1978年,『修正主義(スターリン批判のソ連)の脅威から国を守れ』との号令の下で建設が推められ,その結果合計75万個ものトーチカが作られたというのだから恐れ入る.

ただこれらのトーチカは幸いにも実戦で活用されることはなく,やがて1985年,独裁者ホッジャが死去し,改革開放路線に舵を切り,1990年に共産党一党独裁を放棄し市場経済社会へと移行していったそうだ.


アルバニアに入り坂道を下る

アルバニアに入り坂道を下る

アルバニアに入ってから坂道下りが継続した.そして坂の下にかなりの戸数の住宅が展開される街が見えてきた.地図で見るとポグラデック(Pogradec)の一部かも知れないが,正しくは不明.周りに山や湖があっていいところだ.


アルバニアの小さな街を通過

小さな街を通過

バスは小さな街を通過して行った.モスクのミナレットはアルバニアらしさの一つであろうが,決して多いという訳ではない.ホッジャ独裁時代の無神国家宣言で,宗教が完全否定された時代があったからであろう.現在もアルバニアは概して無神論者が多いと聞く.


川原の工場か?

川原の工場か?

やがて川沿の道に入っていった.川原には工場らしきものが見えている.さて何の工場だろう?外務省/アルバニアのページを開くと,主要産業は農業,製造業,建設業と載っている.大きな分類なので具体的にどんなものかちょっと判らないが....


下は,マケドニアからアルバニアに入るときの写真

マケドニアからアルバニアに入るときの写真
マケドニアからアルバニアに入るときの写真 マケドニアからアルバニアに入るときの写真 マケドニアからアルバニアに入るときの写真 マケドニアからアルバニアに入るときの写真 マケドニアからアルバニアに入るときの写真 マケドニアからアルバニアに入るときの写真 マケドニアからアルバニアに入るときの写真
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ベラートへgo to Berat

ベラートへの途中エルバサン(Elbasan)に入る

エルバサンに入る

やがてエルバサン(Elbasan)の街に入ってきた.道行く馬車が何とも長閑な気分を味あわせてくれる.

エルバサンの人口は12,3万人くらいだそうだが,ローマ帝国時代から集落があり,15世紀オスマン帝国のメフメト2世によって軍事拠点の都市として建設され,やがて19世紀になるとそのオスマン帝国から独立する運動の拠点となったそうである.

長い歴史のアルバニアではあるが,独立国だったのは,中世の英雄スカンデルベクのいた15世紀の一時期,40年ほどの間のみで,古代ギリシャの植民地→ローマ帝国の支配下→ビザンチン帝国の支配下→ブルガリア帝国の支配下→セルビア帝国の支配下→オスマントルコの支配下→1912年独立宣言→ムッソリーニのイタリアの占領下→ナチスドイツの占領下....→1946年共産主義政権成立(独裁だが)だそうだ.

ということで,1912年独立宣言から今年が丁度建国100年,とても若い国ということになる.別ページでも記したように,コソボ直結高速道路は100周年記念事業の一つだ.また1912年独立宣言は一応認められたものの,国境確定で削られた国土はコソボなど含め原案の半分にも達するということだ.なお今回のツアーで,旧ユーゴスラビアに属したことがないのはアルバニアだけだ.


エルバサン(Elbasan)の住宅街と鉄道

エルバサンの住宅街と鉄道

エルバサン(Elbasan)の住宅街が見える.壁の色は黄色,白,薄緑,ピンク...と多様で,なかなか立派だ.ヨーロッパ最貧国の街には見えない.鉄道も通っているが,単線のようで本数は多くないようだ.ところ構わずゴミが散乱しているのは残念だ.


ベラートへの途中のオリーブ畑

ベラートへの途中のオリーブ畑

ベラートへの途中にはオリーブ畑があちこちに見られた.コソボやマケドニアでは見なかったので,やはりアドリア海沿岸の気候がオリーブを育てるのであろう.


みかんの実る家

みかんの実る家

道沿いの家の庭には,みかんの木が多く植えられ,良く実っている.日本のみかんと同種(マンダリン)のようで,皮剥きが容易な小粒で,味も変わりない.

もちろんオレンジ系も育ち,道端でも売られている.


柿の実る家

柿の実る家

こちらは柿の実っている家.既に熟しているようだ.実に多くの家で柿が植えられているのを見てびっくりしてしまった.日本より多いかも知れない.元々日本から来たもので,気候が合っていたのであろうが,さらに交配を繰り返しこの土地にピッタリな品種ができたのだそうだ.市場などで見ていると,『Japanからの...』と話しかけてくれる.

屋根に見えるのは温水パネルで温めた湯のタンクであろう.これもコソボやマケドニアではあまり見なかった.こちら側は晴れの日が多いのであろうか.


非イスラムレストランでポークのランチ

非イスラムレストランでポークのランチ

ベラート手前で,MERRY CHRISTMASと掲げられたレストランに入った.写真のポークソテーが出されて非イスラムが実証された.料理自体はアルバニア特有性は皆無で,どこにもあるものだ.まあ,概してその方が無難なことが多いが(←旅行性向0かも).


下は,ベラートへ行く途中での眺め

ベラートへ行く途中での眺め
ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め
ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め ベラートへ行く途中での眺め

ベラートの街the city of Berat

ベラートの街に入る

ベラートの街に入る

バスはベラートの街に入ってきた.なかなか立派な並木に,不統一的建物が並んでおり,味がある.道が混んでいるが,街の真ん中を通るこの道は生活道路で,また幹線道路でもあり,他のバイパスがないためだそうだ.なおアルバニアに入ると道が悪くなりますからね~と言われてた.が,アジアの特定の国々に比べれば,比較するまでもなくいいと思う.


ベラートの街のオスミ川(Osum river)

ベラートの街のオスミ川

ベラートの街にはオスミ川(Osum river)が横切って流れている.かなり広く蛇行しているが,なかなかの曲者で雨季にはしばしば氾濫を引き起こすのだそうだ.


ベラートの街マンガレム地区の『千の窓の街』

マンガレム地区の『千の窓の街』

イスラムの街,マンガレム地区の斜面(上にはベラート城)には統一された形式の住宅がびっしり並んで建てられている.全部数えると1000もの窓があるそうだ.多分途中で飽きるか,数え落とすか,或いは重複するか...確認する自信はない.

各戸の一階部分は石の素材がそのまま現れ,少数の小型窓が配されている.この窓は銃眼の役目があるそうだ.二階は白い漆喰が塗られ,縦長の大きな窓が3,4個並んで取り付けられている.これを合わすと1000になる訳だ.


ベラートの街マンガレム地区の通りに面した建物

マンガレム地区の通りに面した建物

メインストリートに面した建物は,一階部分は事業用なので,開放された間口となっており,上の方の住宅とは造りが違う.二階以上も違うタイプがあり,写真中央の建物のように開放的バルコニーを持つものもある.トルコ様式であろう.イランの様式にも似ているように感じる.

なおオスミ川対岸ゴリッツァ地区はキリスト教地区であるそうだが,住宅の様子はマンガレム地区のものと似ており,やはりオリエンタルスタイルに感じられた.


下は,ベラートの街での写真

ベラートの街での写真
ベラートの街での写真 ベラートの街での写真 ベラートの街での写真 ベラートの街での写真 ベラートの街での写真
ベラートの街での写真 ベラートの街での写真 ベラートの街での写真 ベラートの街での写真 ベラートの街での写真

ベラート城the castle of Berat

ベラート城の城門

ベラート城の城門

高い石造りの城壁だ.よく観ると縦に細長いスリット状銃眼が設けられている.なおこの城門の内側には更に別の門でガードされていた.そして今もこの城内の数百人住むという住民が,お土産品を並べたりしている.

さてこのベラート城であるが,その基礎は紀元前4世紀,アルバニア人の祖先とされるイリリア人によって築かれたと見られるという.しかし現形態の基礎の多くは13世紀に築かれたようだ.内部に42もの教会があったが,大半はビザンチン時代,13世紀の建立であるそうだ.そして15世紀初頭から始まるオスマン帝国支配の時代からは,教会に代わってモスクの建設が行われたようだ.

近年城内には空き家が多く出るようで,貸家や販売の不動産広告があちこちにあった.丘の上でちょっとお使いに行くにも甚だ不便だ.使用人を抱えるような人は別として,一般人の日常生活にはあまり向かないと思う.


ベラート城のコンスタンティヌス帝の石像

コンスタンティヌス帝の石像

ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス帝は,帝国を再統一し,キリスト教を公認したことで知られる.そんな訳で正教会では聖人とされているそうだ.この石像の隣には,帝が后エレナ捧げたという教会があり,今も住民の礼拝に供されているようだ.


聖マリア教会(The church of st. Mary Blachernae,13~14世紀)

表の案内板に表題の教会名が掲げてあった.Blachernaeはビザンチン帝国の首都コンスタンチノープル(現イスタンブール)郊外の地名ということだ.なのでまあ,大まかには聖マリア教会と称してもいいのではなかろうか.

剥がれ落ちているところもあるが,なかなか鮮明な壁画が残されている.聖書に因み,1578年からニコラオノフリ(Nikolla Onufri)という大変著名な画家によって描かれたということだ.この城塞内部に幾つかの教会があるが,このニコラオノフリの壁画が最高との評価だそうだ.

ベラート城の聖マリア教会外観ベラート城の聖マリア教会の壁画ベラート城の聖マリア教会の壁画
↑聖マリア教会外観↑聖マリア教会の壁画↑聖マリア教会の壁画

ベラート城の三位一体教会(Church of Holy Trinity)

三位一体教会(Church of Holy Trinity)

三位一体とは,ちゃんとした意味合いは理解していないながら,父なる神,その子キリスト,聖霊の三者が一体であるということだそうである.そしてここはその名を冠した教会ということになる.内城(本丸)の直ぐ手前にあり,14世紀の建立だそうで,この城塞内では一番大きいように見える.石とレンガのミックス構造であるが,上部に行くほどレンガが多用され,色あいが面白い.きっと,強度と建設コストがうまく勘案され,設計されたのであろう.

ただ残念なことに開放されてないのか,中を見ることはできなかった.


ベラート城の内城(本丸)

内城(本丸)

丘の一番高いところには,さらに石垣で囲った内城(本丸)があった.主に王や家老クラスの重臣が居を構えていたのであろうか.また内城は食料庫や飲料水貯蔵にも大事な場であったそうだ.丘の上なので水の確保は容易でないので,地下深く掘られた貯水槽があった.長く使われてないので勿論きれいではないがまだ水を蓄えていた.また,似たようなものとしてイスタンブールのイェレバタン地下宮殿が思い出されるが,あれほど大きくはない.

本丸内部にはケータイ電波の中継アンテナが立ち,ちょっと興ざめであるが,もし当時,狼煙や手旗信号の代わりに無線通信手段を保有していたら凄かったかも.....と空想も呼ぶ.


聖テオドロス教会(St. Todri Church,XVI Cent.)

半ば朽ちた案内板に表題の教会名が記してあった.XVI Cent.は16世紀でいいのだろうか? またSt. TodriはSt. Theodoros同じらしいので,聖テオドロス教会でもいいのであろう.聖テオドロス(759~829年)という人は皇帝レオン5世と対決し,イコン擁護を貫いた神学者として有名であるそうだ.

さて全体を眺めるととても小ぢんまりした教会であるが,入り口から入ると,大きな正教会の形式と同様右手に聖職者のみが立ち入る一段床の高い祭壇が設けられていた.現在は博物館のような状態なので,私達も入れてもらい,フレスコ画を見せてもらった.

ベラート城の聖テオドロス教会入り口ベラート城の聖テオドロス教会内部ベラート城の聖テオドロス教会壁画
↑聖テオドロス教会入り口↑聖テオドロス教会内部↑聖テオドロス教会壁画

フレスコ画は上記聖マリア教会より遅い年代の建立ながら傷みが激しく,かなり部分的にのみ残されている.また違う年代ながら,絵の雰囲気はとても似ているように思える.



下は,ベラート城での写真

ベラート城での写真
ベラート城での写真 ベラート城での写真 ベラート城での写真 ベラート城での写真 ベラート城での写真 ベラート城での写真
ベラート城での写真 ベラート城での写真 ベラート城での写真 ベラート城での写真 ベラート城での写真 ベラート城での写真

ベラート城にあるオスマン朝時代のミナレット

オスマン朝時代のミナレット

レンガ造りの塔があった.今は無くなったがここには赤いレンガ造りの,赤いモスクがあったそうだ.そのためこの塔は赤いミナレットと称されるそうだ.

城壁も道路も殆ど石造りなので,赤いレンガは目立つようだ.


ベラート城から北側を俯瞰する

ベラート城から北側を俯瞰する

オスミ川のこちら側に建物が多い.工場のようなものも見える.

アルバニアは上でも記したが,第二次大戦後間もなく,先ずソ連型共産主義を採用したのだが,60年代に入ると同国との関係を解消し,中国に接近し文化大革命を真似たそうだ.例えば知識層の圧迫が行われ,信教の自由は完全に否定されたということだ.そしてこの中国を範とした時代に,中国からここベラートに繊維産業の技術導入や資本注入が行われ,大きな工場が建てられ,多数の市民が就労したということだ.繊維産業は暫く続いたが,そのうち諸外国との競争に勝てなくなり,今は完全に衰退してしまったそうだ.

そして,やがて中国とも決別,事実上の鎖国状態に入った訳だ.1990年台初頭,周辺国が次々と共産主義体制から市場経済社会に移行すると,アルバニアも倣ったのだが,数年後には国民の2/3が絡んだとされるねずみ講が破綻.財産を失った国民の暴動を呼び,大変な状態になった訳だ.その後多くの同胞が住まうコソボ問題の絡みといろいろあったが,今世紀に入る頃からようやく安定に向かったようである.ただ,まだ十分安定してはおらず,産業も未発達な状況ではあるそうだ.


ベラート城から南側を俯瞰する

ベラート城から南側を俯瞰する

先ず街の向こうの山が目に入る.トモリ山(Mount Tomorr)で標高2,416mと結構高く,アルバニア最高峰になるそうだ.そしてこの山一帯は国立公園に指定され,多くの希少動植物が保護されているそうだ.

下側に見える吊り橋は,ここに上る前に渡った橋で,左手がマンガレム地区(イスラム地区),右手がゴリッツァ地区(キリスト教地区)となる.

橋の向こうに見えるドームを載せた白く大きな建物は,新しく出来た大学の建物だそうだ.だが,『オフリド地域の自然遺産及び文化遺産』として世界遺産に登録されており,その際の条件に建物の高さなど違反している恐れがあり,取り壊しの可能性があると,ここのローカルガイドの男性が話していた.

写真中央から僅か左寄りに目を凝らすと少し黄色がかった2本の塔を持つ教会が見える.これはカトリックではなく,比較的新しいアルバニア正教の教会なのだそうだ.コソボ観光で,アルバニア人はセルビア正教徒は攻撃するが,セルビア人のカトリック教徒には手出しはしない.アルバニア人の正教徒は居ないがカトリック教徒はいるから....と聞いていたので,よく判らなくなった.

その正教教会の左下に見えるドームは鉛の屋根で覆われたモスクだそうである.このモスクも上の正教会も共産政権時代の文化革命を真似た破壊活動で壊されていたのだが,近年復旧したということだ.


ベラート城からの拡大した南側俯瞰写真

拡大した南側俯瞰写真

結構びっしり住宅が建てられている.手前には1本のミナレットを従えた美しいモスクも見える.この界隈は正教徒もイスラム教徒も一緒に住んでいるのであろう.道が狭そうなのでこの辺りで火事が起こったら消防車が入れないで大変そうな感じがする.


ベラート城から下る途中の合同墓地

ベラート城から下る途中の合同墓地

バスで下る途中に墓地があった.お彼岸やお盆でないのに結構花が飾られていた.ここはモズレムもクリスチャンも埋葬される共同墓地だそうである.きっとその方がいいと思う.


以上ベラートの街は『ベラトとギロカストラの歴史地区群(Historic Centres of Berat and Gjirokastra)』として2005年ユネスコ世界遺産世界遺産ロゴ(文化遺産)に登録されている.

ティラナへleave Berat to Tirana

ベラートからティラナへ向け北上する

ベラートから北上する

ベラートの観光が終わり,バスはティラナへ向け北上した.ティラナはほぼ真北140km辺りに位置するが,途中まであまり道が良くないので2時間余り掛かる見通しだそうだ.

そして出発して程なく空は赤くなり始めた.


ティラナへの途中の街も赤く染まり始める

ティラナへの途中の街も赤く染まり始める

途中通過の街も赤く染まり始めた.ヤシの木もまたオリーブの木と並んで地中海の雰囲気を演出しているようだ.


この日は満月のようだ

この日は満月のようだ

赤い陽が西のアドリア海に沈む頃,反対側の空には月があった.この日は12/16(月)だがどうやら満月のようである.

集合住宅は共産主義政権時代の後に建設された比較的新しいもののようだ.


夕刻ラッシュアワーのティラナに入る

夕刻ラッシュアワーのティラナに入る

夕刻の5時半頃,左手に一瞬アドリア海を眺めた後,ティラナ市街に入ってきた.ちょうどラッシュアワーの時間帯で道路は混み合っていた.街は季節を飾る電飾が次々と掲げられているが,全般に照明はあまり明るくはない.なお一番右側にはバス優先らしきレーンを設けた区間もあるようで,このGさんのバスはそこを走っている時もあった.


ドロホテルに到着

さてバスはドロホテル(Hotel Doro)に到着した.ロビーにはクリスマスツリーがあった.かなり狭く,シャワーだけの部屋だったがwifiもあるし,問題ない.部屋で荷を解き,一休み後ホテルのレストランに行き,夕食を頂戴した.なおホテル名Doroはアルバニア語で,ギフトの意らしいが......日本では,実際は無いであろうが『恩賜ホテル』のようなものか?

DoroホテルのロビーDoroホテルの部屋Doroホテルのレストランバー
↑Doroホテルのロビー↑同ホテルの部屋↑同ホテルのレストランバー

さてこうしてベラート観光の12/16(月)は終わった.何よりも天気が良くて,言うことなかった.明日のティラナ観光も楽しみだ.


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