スコピエSkopje

このスコピエ編では,2013/12/14(土)午後コソボを出国し,マケドニアの首都スコピエへ行き,ムスタファパシャモスクやスコピエ城砦を眺め,北側のオールドバザール,聖スパス教会などを見物し,ダウトパシャ浴場,聖キリルと聖メトディウスの像,聖ディミトリア教会前を通りヴァルダル川の石橋(カメンモスト)を渡り,マケドニア広場のアレキサンダー大王像やサムイル帝像を眺め,スコピエ新市街のマザーテレサ像や旧スコピエ駅などを見物したときの写真を載せました.


スコピエ付近のGoogleマップ

マケドニアの首都スコピエは,同国北の外れ,コソボとの国境間近に位置している.

スコピエへgo to Skopje

山間のコソボ/マケドニア国境を抜ける

山間のコソボ/マケドニア国境を抜ける

コソボ/マケドニア国境は少し山間にあって,ここを抜けた.山の天気で深くガスが掛かっている.寒そうだ.

『マケドニア』と聞くと,当然アレキサンダー大王の古代マケドニアを思い浮かべるが,ちょっと違うようだ.確かに古代マケドニアはこの地方も含む広いエリアであったが,その中心はあくまでギリシャで,『マケドニア』と名乗ってはならぬと,特にギリシャはかんかんだそうだ.でもこの国はその名前が大層気に入っているので,何とか『マケドニア』と名乗りたい.そこで『マケドニア旧ユーゴスラビア共和国(Former Yugoslav Republic of Macedonia)』という,かなりいじけたというか,おかしな国名が一応国際的には正式名と決まったようである.ギリシャはこれでもまだ不満らしいが.....


農業地帯に入る

農業地帯に入る

バスが進み,農業地帯に入る.背後には今しがた越えてきた山脈が連なっている.高いところは雪を抱いている.

マケドニアの面積は九州の3分の2くらいでコソボの2倍半程度,人口は約206万人で名古屋市より少し少ないようだ.今のところ農林業など一次産業が主であるそうだ.国民の殆どが大学教育を受けるが,なかなか職が得られず,西欧に出かける....でも教育に見合った職は稀で,多くは3K的仕事がやっとだと,ガイドDさんが話してくれた.


スコピエに着くとキリル文字の標識

スコピエに着くとキリル文字の標識

程なくマケドニアの首都スコピエの外れに着いた.国境からは幾らでもない距離だ.キリル文字の標識がスラブ系民族の国であることを認識させる.ただ政治的にはマケドニア人という呼称は一般的で,民族的には70%がスラブ系(≒ブルガリア人),25%がアルバニア人,少数のトルコ人などだそうだ.

そのため言語はマケドニア語(≒ブルガリア語)が公用語でキリル文字,他にアルバニア語やトルコ語が話されるそうだ.ただキリル文字は国際的通用に不便なので,やはりラテン文字使用が増えているそうだ.

従って宗教はスラブ系のキリスト教(マケドニア正教)7割,アルバニアとトルコ系のイスラム3割ということになるそうだ.


スコピエのムスタファパシャモスク(Mustafa Pasha Mosque)

ムスタファパシャモスク(Mustafa Pasha Mosque)

バスを降りるとモスク(ジャーミヤ)があった.ムスタファパシャモスク(Mustafa Pasha Mosque)と呼ばれるそうだ.オスマン帝国支配が始まって程ない1492年,セリム一世の家臣ムスタファパシャにより建立され,その名に因むようだ.マケドニアで最も美しいイスラム建築の一つとされるそうだ.長い年月経っている割に古くは見えず,まだ午後2時半くらいなのに少し赤い陽に照らされた姿は確かに美しい.


スコピエ城砦(Skopsko Kale)

スコピエ城砦(Skopsko Kale)

このスコピエ城砦跡はバルダル川(Vardar river)を見下ろす北岸丘の上にあるが,11世紀ビザンチン帝国若しくは第一次ブルガリア帝国の築城とされるようだ.スコピエは大地震が定期的に襲うそうで,これまで幾度となく大きく破壊されていたようだ.ただ近年,観光資源として見直され,修復作業が行われ,今はその途中のようだ.

なお城砦を指すKaleはパムッカレ(Pamukkale)やチャナッカレ(Canakkale)のそれと同じく,トルコ語であるそうだ.(と云うことはやはりビザンチン帝国以降の建設か?)

なお塔の上に掲げられたのはマケドニア国旗flag of Macedoniaで,太陽と光線でもって,マケドニアの頭上に生まれた「新しい自由の太陽」を表しているそうだ.明治時代から敗戦まで軍旗,現在は自衛隊旗として使われ,韓国では反日の対象とされる旭日旗に似ている.

さらに付け加えれば,この国旗の黄色い光線は8本であるが,独立の1991年当初は16光線だったそうだ.ところがギリシャ領マケドニア旗が,青地に16光線の太陽というデザインで,ギリシャに怒られ,現在の8本になったという.いや~いろいろ大変ですな~


スコピエ城砦からの展望

スコピエ城砦からの展望

城砦は高台にあるのでスコピエの街がよく見渡せる.写真は朝通ってきたコソボとの国境の山脈から流れ出て,ギリシャを通りやがてエーゲ海に注ぐバルダル川(Vardar river)がよく見下ろせる.対岸の大きな建物はスポーツアリーナで,周辺には米大使館などがある.川の反対側はスコピエ旧市街だ.ただ午後のまだ陽は然程低くない筈だが,濃いモヤが架かり,霞んでいる.

スコピエ旧市街the old city of Skopje

スコピエ旧市街の聖スパス教会(The Church of St Spas)

聖スパス教会(The Church of St Spas)

写真はマケドニア正教の聖スパス教会の地上の一部分だそうだ.木造であることがとても珍しい.16世紀,オスマン帝国に破壊された教会の地下に,半地下構造で建造されたそうだ.私達は単にこの塔を眺めただけであるが,19世紀のイコノスタシス(障壁)の木彫は素晴らしいと聞いた.

半地下構造のキリスト教会と言えば,ソフィア(ブルガリア)の聖ペトカ教会(Church of St. Petka)もそうであったが,やはりイスラムに対する遠慮,恭順の意の表明であろう.


スコピエの暖房には薪

スコピエの暖房には薪がメイン

スコピエを含めマケドニアの家庭の暖房では薪が主に使われているという.暖炉はとても趣き深いであろうが,スイッチパチッとはいかないので手間はかかりそうだ.電力やガスの供給がまだ十分ではないようだ.さて環境にはどちらがいいんだろう?

なお建物も燃料も木材ということは,比較的豊富に木材を産するのであろう.多分国境の山辺りで.


スコピエのオールドバザール

スコピエのオールドバザール

オスマン朝時代から続くバザールだそうだ.歩行者だけの曲がった通りの脇には各種ショップやカフェ,レストランが並ぶ.きっと老舗のお店が多いのであろう.路面は丸ではなく,四角や多角形など角型の石が隙間なく並べられている.いい通りだ.


スコピエではスカーフの女性多し

スコピエではスカーフの女性多し

殆どがイスラム教徒のコソボではあまり見なかった女性のスカーフ姿だったが,ここマケドニアではよく見かける.モズレムが30%くらいで,その多くがコソボ同様アルバニア系民族と聞くのでちょっと不思議だ.まあ,同じアルバニア人でも長い定着年月でそれぞれの生活習慣が培われたのであろう.


スコピエ旧市街のおみやげ屋さん

スコピエ旧市街のおみやげ屋さん

たまにこうした小さなお土産店がある.まだ観光客は多くないので,店舗もあまりないのだそうだ.絵葉書やTシャツ,ちょっとした雑貨.....いや,ちゃんとキャノピーに本,マグ,ギフト,マグネットとか書いてある.


スコピエ旧市街のキャラバンサライ

スコピエ旧市街のキャラバンサライ

オスマン朝時代のキャラバンサライ(Caravansary)が残っている.トルコとかイランでは,ここと同じように中庭に面した回廊状建物であるが,全て石造り構造のものをよく見かける.一方,ここのものは木材を組み合わせて建てられている.ホテルと和風旅館の差のような....ちょっと違うか.

現在は学校か何かに転用されているらしいが,古い建築物が長く使われるのは素晴らしい.


下は,スコピエ旧市街での写真

スコピエ旧市街での写真
スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真
スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真 スコピエ旧市街での写真

石橋界隈around the stone bridge

石橋(カメンモスト:Kamen Most)袂のダウトパシャ浴場(Daut Pasa Hammam)跡

石橋袂ダウトパシャ浴場(Daut Pasa Hammam)跡

北の旧市街側から石橋(カメンモスト/Kamen Most)に向かって歩いた.橋の手前に露店の並ぶ広場があり,左手にかつてダウトパシャ浴場(Daut Pasa Hammam(Baths))と呼ばれたハマムだったという建物があった.やはり15世紀オスマントルコ時代の跡らしい.現在は国立美術館として活用されているようだ.尤も私達は単に通り過ぎただけだが.


カメンモスト袂の聖キリルと聖メトディウスの像

聖キリルと聖メトディウスの像

写真右上の並んだブロンズ像は聖キリルと聖メトディウス(Sts. Cyril and Methodius)という聖人だという.二人は兄弟で,もち論キリスト教で大きな功績のあった方々であろうが,キリル文字の考案とその普及に大きな足跡を記したことで,わりと普通の人にも知られているようだ.

二人は826年と815年のギリシャ生まれ,正教会の伝道師としてスラブ世界に正教を広めた功績を残し,正教会から聖人の称号が贈られ,また後にローマカトリックからも認められたそうだ.伝導に際して難解なラテン語の聖書でなく,スラブ民族の言葉で表すことで布教が進む筈と,それを書き記す表音文字のキリル文字を考案し,実際広まったそうである.

さてこれはイスラム経典が表音文字のアラビア文字で記されるとか,或いはインドの仏教経典が漢字で無理やり音写される,とかと似たようない意味合いが果たして有り得るや.....無いとは言い切れないと思う.

とは言っても,現在の私達にキリル文字は分かり難いし,自国の人も外国の書物を手にする際はきっとキリル文字だけでは不足であろう.実際石橋袂のブックスタンドにはキリル文字の本に加えて,ラテン文字の本(英語など)が並んでいる.


カメンモスト袂の聖ディミトリア教会

聖ディミトリア教会

丸いドームの載った時計塔が目立つ.少しインドっぽい印象を受ける(個人的に).聖ディミトリア教会(the Church of St. Dimitrija)というマケドニア正教の教会であるそうだ.東方教会(正教会)は国毎に国の名を冠した正教会組織を作るものなのだそうで,ここではマケドニア正教となるようだ.基本的教義やいろいろな様式などは各国正教会と同じなのではなかろうか.


石橋(カメンモスト:Kamen Most)を渡る

石橋(カメンモスト)を渡る

いよいよバルダル川に架かる石橋(カメンモスト:Kamen Most)に来て,渡った.1469年,オスマン帝国のムラト2世(Sultan Mehmed Ⅱ)の建造とのことだ.なおモスト(Most)は後日訪問のモスタル(Mostar/橋の番人)の語源と同意,橋で,カメン(Kamen)は石ということだ.

カメンモストは5~6個のアーチの全石造り,幅6m,長さ214mの頑丈な構造である.しかし巨大地震多発帯のここスコピエではそれでもその度に甚大な被害を被り,補修してきたという.


カメンモスト袂に建設中の新しい博物館

カメンモスト袂に建設中の新しい国立考古学博物館

カメンモスト旧市街側袂には建設中の新しい国立考古学博物館が見えた.まあ随分立派な建物だ.なおスコピエのこの辺り一帯は他に各種行政機関,憲法裁判所,公文書館,音楽堂...などらしい建物がもの凄い勢いで建設中だそうで,あちこちに掘り起こし工事やクレーンが見える.

度々述べたが,スコピエは大地震多発帯.最近1963年のスコピエ震災では街の80%が破壊され,震災後の都市計画の大半は丹下健三氏の案によるそうだ.そして上記工事もその一環であるそうだ.


マケドニア広場のアレキサンダー大王像

マケドニア広場のアレキサンダー大王像

カメンモストを渡りきった先はマケドニア広場となっている.脇には丹下健三氏設計という大きなショッピングセンターがあり,お手洗いを使わせてもらった(^^; ここには大きなアレキサンダー大王の騎馬像が聳えている.ギリシャがいろいろ口出ししても,『マケドニア旧ユーゴスラビア共和国』にとってもやはりアレキサンダー大王は偉大な祖先ということなのではなかろうか.なおカメンモストの旧市街側には同大王幼少期の物語を語ったブロンズ像が並んでいた.またこれら大王像設置にギリシャが怒っているのは,国名問題同様であるそうだ.う~んこれには考えさせられる,やはり.

ところでマケドニアはアレキサンダー大王時代の後は,ローマ帝国の支配下に,帝国分裂後はビザンチン帝国の下になった.そして中世になるとビザンチンと第一次ブルガリア帝国間で覇権が争われ,972年から短期間第一次ブルガリア帝国の首都がここスコピエに置かれたそうだ.やがて13世紀末からスコピエはセルビア支配下に入り,1346年にセルビア帝国の首都となったそうだ.さらに1392年になると,街はオスマン帝国に征服され,一帯はユスキュプ(Uskup)と,後にコソボ州と呼称され,以来ここを首都に500年以上にわたりオスマン帝国の支配下に置かれたそうだ.

時代は下り,1912年バルカン戦争が勃発するとセルビア王国によって征服,第一次大戦後は新形成された後のユーゴスラビア王国の一部に組み入れられた.そして第二次大戦時には枢軸国側のブルガリア王国軍に占領された.1944年になるとユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一員マケドニア社会主義共和国の首都となった.戦後は上述の1963年スコピエ大地震を経て,やがて1991年にユーゴスラビアから独立した『マケドニア旧ユーゴスラビア共和国』の首都となったそうである.

銅像前に陣取っているのは,望遠鏡で月の覗かせる商売の人.この日は上が3割ほど欠けた月であったようだが,眺めるにはコントラストがちょうどいいかも.


下は,石橋カメンモスト界隈での写真

石橋カメンモスト界隈での写真
石橋カメンモスト界隈での写真 石橋カメンモスト界隈での写真 石橋カメンモスト界隈での写真 石橋カメンモスト界隈での写真 石橋カメンモスト界隈での写真 石橋カメンモスト界隈での写真
石橋カメンモスト界隈での写真 石橋カメンモスト界隈での写真 石橋カメンモスト界隈での写真 石橋カメンモスト界隈での写真 石橋カメンモスト界隈での写真 石橋カメンモスト界隈での写真

マケドニア広場のクリスマスツリー設置工事

マケドニア広場のクリスマスツリー設置工事

ここマケドニアはキリスト教徒(正教)が7割を占め,クリスマスツリーは全然問題ない,いや望まれているだろう.今日は12/14,あと10日しかないので,日本人の感覚からすれば寧ろ遅いように感じられる.きっと,クリスマスはあくまで商売のため一点張り,先進的市場経済国家との違いであろうか.


この方もマケドニアの偉人サムイル帝

この方もマケドニアの偉人サムイル帝

アレキサンダー大王ブロンズ像の後ろにあったこの方もまたマケドニアの偉人だそうだ.石造りだ.ビザンチン帝国を打ち負かした第一次ブルガリア帝国のサムイル帝(Samuil)で,この地に繁栄をもたらしたのだそうだ.確かにオスマン朝やセルビアの支配を受けたが,今の国民の7割はスラブ系(≒ブルガリア系)というから,やはり偉大な先人ということになるのだろう.

以上ビザンチン帝国を負かしたサムイル帝像であるが,さらに写真はないがビザンチン帝国のユスティニアヌス帝の像もちゃんと据えてあった.そんな訳で,きっとそれぞれの時代のそれぞれの人の功績を称えるというマケドニアの人々の寛大な博愛精神の表れではなかろうかと思われる.


マザーテレサ生家跡のプレート

マザーテレサ生家跡のプレート

マケドニア広場の片隅に,ここにマザーテレサの生家があったとの旨のプレートがあった.現在建物はなく芝生になっている.

マザーテレサ(Mother=指導的修道女への敬称, Teresa=修道名)で,本名アグネスゴンジャボヤジュ(Agnese Gonxhe Bojaxhiu)として1910年8月26日この場所でアルバニア人の娘として生まれたそうだ.1997年カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」を創設した.そして修道女として1997年コルカタで没するまでインドなどでの貧者救済活動に生涯を捧げ,1979年ノーベル平和賞を受賞した.

生前から聖女の誉れ高かったマザーの死後,カトリックの聖人に列する列福運動が異例なほど早期に始まり,そのための調査が進められたそうだ.ものの本によれば,ある書簡には“神の存在への疑念”の告白が認められ,重大な問題となったこともあるようだ(真相不明).ただ,腹部の腫瘍が外科手術の跡もなく治癒する奇跡や,重病や貧困者に対する献身的活動は十分列福に値するとして,2003年10月ヨハネパウロ2世は列福し,福者であると宣言したそうである.普通最低でも数十年の審査を要するそうで,死後6年で列福は異例の早さだそうだ.

たまたま今回の旅行の頃,日本では高山右近(1552~1615年)を列福させる動きあり,と新聞(日経)に出ていた.ちょうどカトリックのツアー同行者が居られたので,訊いてみると,『今非常に沢山の資料を調査している段階です.審査には長くかかるでしょう』と云うことだった.

スコピエ新市街new city of Skopje

スコピエ新市街の通り

スコピエ新市街の通り

マケドニア広場から南側に新市街の通りが展開されている.広い歩行者専用道路で,市民が散歩やショッピング,食事....に歩いているようだ.


新市街の通りを行く人

新市街の通りを行く人

土曜日のためかなかなかの人出だ.それと家族連れが意外と多いように見える.所々にベンチが設けられ,ブロンズのアート作品など置かれている.それと,たばこを吸っている人はわりと多いかも知れない.


マザーテレサ記念館

マザーテレサ記念館

上述のように生家はマケドニア広場の脇にあり,そこから少し南に位置した新市街の道脇にこの記念館が建てられていた.例によって単に外を傍観しただけだが.1910年生まれのマザーテレサは18歳までここスコピエに住み,洗礼名はアグネスで,本名ゴンジャはバラの蕾というロマンチックな意だそうだ.大変苦労した末,18歳でスコピエを離れダブリン(アイルランド)の修道院でシスターになり,1928年インドに渡り,1946年からスラムでの活動が始まったとのことだ.


スコピエ新市街マザーテレサの言葉

スコピエ新市街マザーテレサの言葉

スコピエ新市街の通りには所定間隔で,マザーテレサが語った言葉が黄銅(ブラス)プレートに記され,掲げられていた.プレートの言葉は一枚一枚異なり,それぞれマケドニア語と英語で記されている.


スコピエ新市街マザーテレサ記念館の教会

マザーテレサ記念館の教会

マザーテレサ記念館のすぐ近くでキリスト教会が建設中であった.既に載っている十字架の形を見るとマケドニア正教会であろうか?それともマザーテレサに因むカトリック教会であろうか?

何れにしても正教会教徒が殆どというマケドニアにおいて,カトリックのマザーテレサが敬われているのはいいことだと思う.


スコピエ新市街のブル

スコピエ新市街のブル

スコピエ新市街にもブルがあった.NYみたいだ.近くに証券取引所か大きな証券会社があるのだそうだ.


下は,スコピエ新市街での写真

スコピエ新市街での写真
スコピエ新市街での写真 スコピエ新市街での写真 スコピエ新市街での写真 スコピエ新市街での写真 スコピエ新市街での写真 スコピエ新市街での写真 スコピエ新市街での写真

旧スコピエ駅と周辺

新市街を歩いて抜けると旧鉄道駅,現在博物館になっているという駅舎があった.壁には1963年大地震の発生時刻6時16分に止まった状態に維持されている.丁度ラサのノルブリンカ離宮館内の時計が,ダライラマ14世が密かに脱出した時刻を指したまま停止しているのと似ている.

旧スコピエ鉄道駅,現在博物館旧スコピエ鉄道駅周辺

この周囲の建物は特に社会主義時代の集合住宅が多いようだが,大掛かりに復旧工事が進められている様子だ.ここも都心同様丹下健三氏のプランが活かされているそうだ.1963年大地震から既に50年も経過し,国家体制も全く変わったのだが,やはり受けたダメージは極めて大きかったのであろう.


旧スコピエのホテルロイヤルで一泊

旧スコピエ駅からバスで今夜宿泊のホテルロイヤル(Hotel Royal)に行った.ここも広いバスタブが備えられていた.食事は何だったか....? もち論ビールは普通にあった.

ホテルロイヤル入り口ホテルロイヤルの客室

さてこれでスコピエの観光は終わった.今日は天気に恵まれラッキーだった.明日は同じマケドニア内のヘラクレア遺跡に行く.


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