ドブロヴニクDobrovnik

このドブロヴニク編では,2013/12/18(水)ドブロヴニクへ行き一泊.そして翌12/19(木),ドブロヴニク旧市街に出かけ,プロチェ門から入りオノフリオ大噴水,プラツァ通り,マラブラーチャ薬局,スポンザ宮殿,青空市場,総督邸,聖ヴラホ教会,ドブロヴニク港,大聖堂(聖母マリア被昇天教会)などを見物し,バスでドブロヴニクを離れ北に向かったときの写真を載せました.


ドブロヴニク付近のGoogleマップ

ドブロヴニクの街はクロアチア本土の南,ボスニアヘルツェゴビナの領土で分断された飛び地に在る.ちょっと不思議だ.

ドブロヴニクへgo to Dobrovnik

クロアチア(の飛び地)に入ってきた

クロアチア(の飛び地)に入ってきた

モンテネグロのコトルを出発し,暫く走るとクロアチアの国境に達した.両国の出入国管理事務所で簡単に審査が終わり,クロアチア(の飛び地)に入った.

既に12月半ばであるが,この辺りの紅葉した樹木は葉を散らさず,まだ枝に残したままだ.真っ直ぐな緑のポプラと混じり,それなりにきれいだ.


ドブロヴニク旧市街が見えてきた

ドブロヴニク旧市街が見えてきた

少しして再びアドリア海沿岸に出た.そして程なくお馴染みの光景のドブロヴニク旧市街が目に入るようになった.次の日にここを歩くことになっている.


ドブロヴニク新市街に入る

ドブロヴニク新市街に入る

バスはドブロヴニク新市街に入ってきた.北に抜けるルートはこの道一本と云うことで,混み合っている.このオフシーズンでこれだから,夏場はさぞかし大変であろう.


アリストンホテル(Hotel Ariston)に到着

アリストンホテルに到着

道は混んでいたが大した距離ではないため,早い時間に海岸沿いのアリストンホテル(Hotel Ariston)に到着した.とてもいい部屋で,多分今回の旅行では最もいいホテルだったように思う.海岸沿いの斜面にあるので,廊下に段差があったり,レストランに行く通路がちょっとややこしく,道に迷ったが(←個人的能力問題).


アドリア海沿いの小径を歩く

アドリア海沿いの小径を歩く

ホテル周辺の海岸沿いには遊歩道が設けられていた.時間があったので散歩に出掛けた.驚いたことにブーゲンビリアが咲いていた.意外と寒いところでも枯れないで咲くのですね.

少し先まで行って暫く待つと陽が落ちてきた.ただ生憎と途中に雲が架り,真っ赤に焼けることはなく,この程度だった.さて明日はどうだろう.



下は,ドブロヴニクへ行くときの写真

ドブロヴニクへ行くときの写真
ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真
ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真 ドブロヴニクへ行くときの写真

翌朝ドブロヴニク旧市街に行く

2013/12/19(木)朝アリストンホテルのレストランでたっぷりと美味しい朝食を食べ,バスに乗り込んだ.バスは新市街を走り,ドブロヴニク旧市街の城壁を巻きながらプロチェ門(Ploca Gate)前の降車場に着いた.さて歩くぞ.

↓アリストンホテルのレストラン↓ドブロヴニク新市街
アリストンホテルのレストランドブロヴニク新市街
ドブロヴニク旧市街の城壁旧市街入り口のバス降車場
↑ドブロヴニク旧市街の城壁↑旧市街入り口のバス降車場

ドブロヴニク旧市街the old city of Dobrovnik

ドブロヴニク旧市街プロチェ門(Ploca Gate)と周辺

プロチェ門(Ploca Gate)と周辺

今回はバス停車の都合からか,正門のピレ門ではなく勝手口のプロチェ門(Ploca Gate)から入った.門の近くからアドリア海を望むと,まだ陽は低く少し赤味が残っていた.

プロチェ門の上には白い石像が掲げられている.ドブロヴニクの守護聖人で,聖ヴラホ(St. Vlaha)と言われる人だそうだ.10世紀,ベネツィア人の船が,食料と飲料水補給のためと称してこの近くに停泊し,ドブロヴニクの人たちはそれを信じ,補給を手助けしたそうだ.しかし実際は,補給の合間にドブロヴニク攻略のスパイ活動を行っていたのだそうで,それを見ぬいた聖ヴラホがドブロヴニク市民にそれを知らせ,街を救った,と云うことだ.この写真の左手に携えているのはドブロヴニクの街の模型だそうで,分り易い.以来,聖ヴラホはドブロヴニクの守護神として崇められ,こうして門に掲げられ,またこの後訪れる聖ヴラホ教会で祀られるようになったそうだ.


プロチェ門(Ploca Gate)から望むアドリア海プロチェ門に架かる守護聖人聖ヴラホ(St. Vlaha)プロチェ門跳ね橋ウインチのギア
↑プロチェ門(Ploca Gate)から望むアドリア海↑プロチェ門に架かる守護聖人聖ヴラホ↑プロチェ門跳ね橋ウインチのギア

プロチェ門はとても強固に見える城壁であるが,さらにその前には堀が巡らされ,跳ね橋で防御されている.跳ね橋はロープでウインチと結ばれ,適宜開閉されたようだ.減速比を大きくするためにピニオン側の歯数はとても少ないが歯元のアンダーカットは見られない.大きく+転位(シフト)したか....いや,この頃ホブ盤はまだ無かったであろうし,そもそもインボリュート歯型ではないかな...?


ドブロヴニク旧市街オノフリオの噴水と周辺

オノフリオ(Onofrijeva)の噴水と周辺

オノフリオ(Onofrijeva 斧振男に非ず)さんという当時大変著名なナポリの土木技術者設計の上水道設備ということだ.数日前訪れたアルバニアのベラート城の聖マリア教会壁画を描いたやはり著名な画家オノフリ(Onufri)さんと似た名前だ.この水道は12km離れたスルジ山の水源から引かれており,1438年に完成し,現在もおいしい水が流れ出ており,水汲みの人も見られる.

大きなタンクの周辺には16個の給水口があり,凝った顔の彫刻に蛇口が付いている.私にはちょっと異様な感じに見えるが.


プロチェ門からオノフリオ噴水への通路オノフリオ大噴水の蛇口鐘楼脇のオノフリオ小噴水
↑プロチェ門からオノフリオ噴水への通路↑オノフリオ大噴水の蛇口↑鐘楼脇のオノフリオ小噴水

右側の写真はオノフリオの小噴水で,大通りの反対側の端,鐘楼脇に設けられている.ぐっと小規模だが,そちら側の住民は重宝したことであろう.


ドブロヴニク旧市街のプラツァ通り(Calle Placa)と路地

プラツァ通り(Calle Placa)と路地

旧市街のメインストリートがこのプラツァ通り(Calle Placa).広い石畳の通りの両側には,一階部分はPの字型とそれをミラーした形の窓を持つ石造りの建物が並んでいる.二階以上の窓には皆ブラインドが架けられている.住居部分なのであろうか.

建物と建物の間には路地があり,スルジ山の方向に上り勾配になっている.


路地その1路地その2路地その3
↑路地その1↑路地その2↑路地その3

マラブラーチャ薬局の辺り

オノフリオ大噴水の近くに,1317年創業というとても古いマラブラーチャ薬局(Ljekarna Mala Braca) というお店がある.昔ここに在った,といのではなく今も操業しているところがすごい.現在はお化粧品類とか,当たり障りのないものが主力のようではあるが....尤も,世界にはこれよりさらに古い薬屋さんがあるそうだ.どこかとは聞かなかったが.

マラブラーチャ薬局の壁に血まみれのキリスト像が嵌めこまれている.かなりリアリティに満ちている.

中世から続くマラブラーチャ薬局(Ljekarna Mala Braca) 血まみれのキリスト像フランシスコ会修道院
↑中世から続くマラブラーチャ薬局↑血まみれのキリスト像↑フランシスコ会修道院

薬局の奥にはやはり14世紀建立というフランシスコ会修道院が建てられている.この修道院は医療活動を行い,薬を扱っていた,そうした資料が展示されている筈だ(今回は開館前で入らず).マラブラーチャ薬局もその一部門だったのかも知れない.キリスト像もそれに因むであろう.


プラツァ通りの光景

市民が散歩し,カフェでコーヒーを楽しんでいる.カフェの隣であったか,キリストを抱くマリア像を掲げた建物があった.う~ん教会だったのかな~?ミケランジェロ作サンピエトロのピエタと同じモチーフだが,ごくさり気なく掲げられている.

プラツァ通りを散歩プラツァ通りのカフェキリストを抱くマリア像
↑プラツァ通りを散歩↑プラツァ通りのカフェ↑キリストを抱くマリア像

ドブロヴニク旧市街のスルジ山を背景にしたスポンザ宮殿(Sponza Palace)と鐘楼

スルジ山を背景にしたスポンザ宮殿と鐘楼

正面はスポンザ宮殿(Sponza Palace)で,16世紀にドブロヴニク共和国の税関や造幣局,武器鋳造所として建てられ,17世紀にはアカデミー会館となり,現在は古文書館や先般の戦争の記念館として機能しているそうだ.建築としては後期ゴシック様式とルネサンス様式が混在し,17世紀の大地震にも耐えたそうである.

右側の塔は1444年に建てられたという時計のある鐘楼で,上部に鐘が吊るされている.毎正時鐘を叩いて時を知らせるというので,10時のとき,音を聴きながら,じっと目を凝らしたのだが鐘を叩く動作は判らなかった(涙).

また後ろはスルジ山で,この上に立てばドブロヴニク旧市街が良く見えるそうだ.

さて,現在の戦争記念館の部屋では,1991年クロアチアが独立を宣言した年から翌年にかけて,主にセルビア人とモンテネグロ人から成るユーゴスラビア人民軍から攻撃を受け,多くの犠牲者を出したそうだ.戦死した兵士の写真が張り出されているが,民間人にも多数死傷者が出たそうだ.ドブロヴニクは歴史的にモンテネグロの一部で,クロアチアに留まることは許されない.....といった理由(或いは難癖)だったそうだ.現在クロアチアの飛び地になっていることと関連していよう.


1991~1992年の戦いの戦死者爆撃で炎上するヒルトンホテル現在のヒルトンホテル
↑1991~1992年の戦死者↑炎上するヒルトンホテル↑現在のヒルトンホテル

またこの記念館には爆撃を受けて炎上するヒルトンホテルの写真が掲げられていた.別資料によれば爆撃はスルジ山から行われ,旧市街のほぼ全域に,ヒルトンホテルのように周辺も被弾したそうだ.

ヒルトンホテルは私たちがバスを降りた場所近くで,現在は無事復旧し,営業しているそうである.


ドブロヴニク旧市街の青空市場とその周辺

青空市場とその周辺

大聖堂手前の脇道に青空市場が開かれていた.多分毎日開かれるのであろう.青空の下であるが,路面ではなくちゃんとテーブルの上に野菜や果物などの商品が並べてあるのに感心した.


ドブロヴニク総督邸(Rector's Palace)ドブロヴニク青空市場聖イグナチオ教会(Isusovacka Crkva sv. Ignacija)
↑ドブロヴニク総督邸↑ドブロヴニク青空市場↑聖イグナチオ教会

市場に入る路地の手前に総督邸(Rector's Palace),現在は歴史文化博物館という建物がある.往時は議会や元老院が置かれたドブロヴニクの心臓部だったそうだ.

総督邸の反対側,曲がった先の坂上に見えるのが聖イグナチオ教会(Isusovacka Crkva sv. Ignacija)ということだ.1725年に完成したイエズス会の教会で,学校が併設されているそうだ.内部はとても美しいらしい.


ドブロヴニク旧市街の聖ヴラホ教会(Church of St. Vlaha)とルジャ広場(Luza Square)周辺

聖ヴラホ教会とルジャ広場周辺

上述のドブロヴニクの守護神,聖ヴラホを祀った聖ヴラホ教会(Church of St. Vlaha).肝腎の聖ヴラホ像の上部が切れてしまった.またこの教会前はルジャ広場(Luza Square)と呼ばれ,剣を手にした『騎士ローラントの像』が建てられている.ロ-ラントの右腕手から肘までの長さは『ドブロブニクの肘』として長さの基本単位とされていたそうだ.現在は51.2cmとされているそうだが,肘や手首にマークがある訳ではないので,ある程度弾力的に運用されたのではなかろうかと想像するが.....


P型窓のクリスマス飾り左の窓の拡大別の窓のクリスマス飾り
↑P型窓のクリスマス飾り↑左の窓の拡大↑別の窓のクリスマス飾り

ルジャ広場周辺のP型ショーウィンドウには時節柄クリスマス飾りが多く見られる.クロアチアはカトリック教徒が多いようで,特にキリスト誕生をモチーフとした飾り付けには趣向を凝らしている.



旧市街の旧ドブロヴニク港

ドブロヴニク港(旧港)

スポンザ宮殿の脇道を行くと旧ドブロヴニク港がある.往時は海洋貿易は主力産業で,港はその要であったであろう.港の先には,検疫のための小島があり,上陸前に40日間留まり,その間何らかの発症がないか確認する義務があったそうだ.ラテン語の40に由来する言葉から,現在の検疫quarantineが生まれたそうである.なお,少し沖合にはそれより相当大きい島があり,そこには有名なヌーデストビーチがあるそうだ.きっと治外法権の島で,他国からも多く訪れるのでしょう.

今の船舶は大きいので,この岸壁に接岸するのはとても無理で,専らプレジャーボートやクルーザーなどスポーツ用に供されているようだ.

現在は新しい大きな港が,旧市街を挟んで反対側の新市街に建設され,この後バスでネウムに向かうとき,新港脇を通りかかると大きな客船が接岸しているのが見えた.


旧港から新市街を望む旧港からドミニコ会修道院方向を望む旧港から聖イヴァン要塞を望む
↑旧港から新市街を望む↑旧港からドミニコ会修道院方向を望む↑旧港から聖イヴァン要塞を望む

ドブロヴニク旧市街のドブロヴニク大聖堂

ドブロヴニク大聖堂(Dubrovnik Cathedral)

元々は7世紀に建てられたバジリカ教会の残された基部に,1192年頃英国王リチャード一世により,当初ロマネスク様式で建てられたということだ.ただ1667年の大地震でそれは崩壊してしまい,1713年になって今度はバロック様式で再建されたそうである.聖母マリア被昇天教会(Cathedral of the Assumption)とも称され,大きな礼拝堂内部には聖母マリアの像や絵画がたくさん飾られている.


ドブロヴニク大聖堂ドブロヴニク大聖堂
ドブロヴニク大聖堂ドブロヴニク大聖堂

カトリックの教会なので椅子も並び,美しい立体の彫刻も数多い.総じて大変見事な教会だ.


ドブロヴニク旧市街プラツァ通りの一本隣の通り

プラツァ通りの一本隣の通り

青空市場前に繋がる通りで,大通りであるプラツァ通りの一本隣となる.狭い通りだがとても美しい.ユトリロの絵を彷彿させるようだ.この通りや近くにはレストランなどが揃っているようで,相対的に観光客に較べて地元の人の往来が多いようだ.

例えば魚屋さんなどもある.道の脇に鮮魚が,奥には干物が置いてあった.ただ,魚の種類は僅かで,商いの規模はごく細やかだ.でもこれでビジネスが成り立つのでしょう.


地元の人の往来ネクタイ発祥の地を説明した日本語パンフレット魚屋さん
↑地元の人の往来↑ネクタイ発祥の地を説明した日本語パンフレット↑魚屋さん

以上『ドブロヴニク旧市街』はユネスコ世界遺産世界遺産ロゴ(文化遺産)として1979年に登録されている.

ドブロヴニクを離れるleave Dobrovnik

バスに乗りドブロヴニクを離れる

バスに乗りドブロヴニクを離れる

ドブロヴニク旧市街をひと通り巡って,またバス乗り場に戻った.ドライバGさんは直ぐにバスを寄せてきてくれた.遠足の小学生が私たちと入れ替わりに城門の方向に歩いていく.楽しそうだ.


下は,ドブロヴニクを離れ,ネウムに向かうときの写真

ドブロヴニクを離れ,ネウムに向かうときの写真
ドブロヴニクを離れ,ネウムに向かうときの写真 ドブロヴニクを離れ,ネウムに向かうときの写真 ドブロヴニクを離れ,ネウムに向かうときの写真 ドブロヴニクを離れ,ネウムに向かうときの写真 ドブロヴニクを離れ,ネウムに向かうときの写真 ドブロヴニクを離れ,ネウムに向かうときの写真

バスは北へ向けて走った.新しい港を過ぎ,吊り橋を越え,アドリア海沿岸を走り,ボスニアヘルツェゴビナのネウムに向かった.


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