このモスタル編では,2013/12/20(金)朝モスタルの街で,ブラツェフェイツァ通りを歩きカラジョズベゴヴァモスクやコスキメフメットパシナモスク,スタリモスト橋,ハマム跡などを見物し,そしてモスタル郊外へと移動したとき眺めた風景の写真を載せました.
モスタルはボスニアヘルツェゴビナ南のヘルツェゴビナ地方にある街.今もヘルツェゴビナ紛争の激しい戦闘の傷跡が残っている.
さて2013/12/20(金)朝が来た.窓を開けると赤い屋根の家がびっしり建てられている.主にクロアチア人居住者が多いと聞く.左手には聖ペーター教会(カトリック)鐘楼尖塔が,右手にモスクのミナレットが聳えているのが見える.どの宗教も尖塔にランドマーク機能を併せ持つようにしているように思える.
ブリストルホテルの脇からネレトヴァ川に架かる,スタリモストのように特段有名でも何でもない橋を渡った.地図を見るとtitov most(=Tito's Bridge)と記されている.ということは旧ユーゴスラビアのあの有名なチトー大統領の名を冠している訳で,やはり意義ある橋なのであろう.
さて,その橋を渡った先にはブラツェフェイツァ通りとなっている.通りにはボスニアヘルツェゴビナ紛争で破壊された建物がまだ残されている.むき出しのレンガ壁には銃弾の跡が生々しく刻まれている.川のこちら側はイスラム教徒側なので,セルビア勢力側の攻撃であったであろう.なお今回は訪れなかったが上述の聖ペーター教会辺りには,イスラム側攻撃によるもっと激しい傷跡の建物も残されている.
チトー橋近くでは比較的新しいお店やオフィスがあるようで,通勤の人々が行き交っている.カフェもテーブルを出しているが,定年退職者が起きてきて,屯するにはまだ時間が早いようで,ひっそりしている.
ブラツェフェイツァ通りを南下するとお墓があった.墓標にはイスラムらしく月と星のマークに,読めないがアラビア文字でも何か記されている.没年を見ると,ボスニアヘルツェゴビナ紛争で,セルビア人勢力が優勢,つまりボシュニャク人(オスマン帝国時代イスラムに改宗した南スラブ人の末裔)が劣勢だった1993年辺りが刻まれた墓が多い.
ところで写真で手前のものにはMERIC MURATA OSMANと名が刻まれている.OSMANは典型的イスラム名だが,ミドルネームのMURATAは村田か?或いはこちらでもよくある名なのだろうか?
次の日訪問予定のヴィシェグラードのソコルルメフメトパシャ橋や,エディルネ(トルコ)のセリミエモスクなどの設計で名高いミマールスィナン(Koca Mimar Sinan)の設計により,1557年建立という.
ヘルツェゴビナ地方を代表するモスクで,またメドレセも併設され,教育の役目も担っていた(或いは今も?)そうである.
モスタルを含めたボスニアヘルツェゴビナは,1463年~1878年の400年間余りオスマントルコの支配下に置かれたが,その間にこうしたモスクがたくさん建設された訳だ.
この地は元々正教(セルビア系)とカトリック(クロアチア系)が地理的に対峙していた土地であり,そこにモズレムが襲ってきた訳だ.そしてイスラムに改宗する人々ももち論いたが,オスマン帝国はセルビア正教やカトリックに対し比較的寛容で,そのまま認めていたそうで,それが今日に繋がっている様子だ.
上述のようにセルビア正教徒,カトリック教徒,イスラム教徒三者暮らすわけだが,民族的には共通のスラブ系,つまり人種的な違いはなく,あくまで宗教による違いだという.そしてカトリック(クロアチア系)はラテン文字を,正教徒(セルビア系)はキリル文字を主に使うようであり,イスラムもどうやらラテン文字であるようだ.
で,ここのキヨスクに並んでいる雑誌を眺めると,ラテン文字が普通のように見える.また街の看板もラテン文字で,あまり違和感は感じない.
ところで現在のボスニアヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)の国はとてもややこしい構成となっている.なぜかというと,国はボスニアヘルツェゴビナ連邦と,通称セルビア人共和国(正しくはスルプスカ共和国)のふたつの構成体からなる連邦国家なのだそうだ.セルビア人共和国Serb Republic(正しくはスルプスカ共和国Republika Srpska)はセルビア(Republic of Serbia)に隣接する東側,及びクロアチアに隣接する北側に,ボスニアヘルツェゴビナの国の約半分の面積を占めている.国旗で,黄色の逆三角形が国土の形を表しているのだそうだが,その上辺と右辺に接する辺りがスルプスカ共和国ということになる.
つまりボスニアヘルツェゴビナ連邦(The Federation of Bosnia and Herzegovina)はボスニアヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)の国の残り半分,つまり国の主に西側と中央部ということになる.つまり国旗で言うと左側斜辺に接する部分である.
いや~ややこしい.そしてボスニアヘルツェゴビナ連邦の中では,北側がボスニア地方,南側がヘルツェゴビナ地方ということらしい.で,モスタルはヘルツェゴビナ地方にあって,最大の都市という.
また紙幣であるが,ボスニアヘルツェゴビナ連邦発行でラテン文字主体のものと,セルビア人共和国(スルプスカ共和国)発行でスラブ文字主体の,同額紙幣が2種類あるのだそうだ.多分ボスニアヘルツェゴビナ国内ではどこでも双方共に通用するのだと思うが......旅行者はユーロやカードで大丈夫だ.
下は,モスタルのチトー橋近くでの写真
これが有名なネレトヴァ川に架かるスタリモスト橋(Stari Most)で,古い橋の意だそうだ.因みに街のモスタル(Mostar)は橋守のことだそうで,実際写真左側,現在は博物館の辺りに橋守が居たそうだ.通行税を徴収していたのでしょうか?
オスマン朝スレイマン一世(Kanuni Sultan Suleyman Ⅰ)の時代,ミマールハイルッディン(Mimar Hayruddin)の設計で,1566年に完成したそうだ.だが時を隔てた1993年,ボスニアヘルツェゴビナ紛争で,カトリックであるクロアチア系兵士によって破壊され,崩れ落ちた.
そして,2004年,ユネスコの資金援助で復元され,『モスタル旧市街の古い橋の地区』として世界遺産に指定されたそうだ.復元されはしたが,恨みは深いようで橋の袂には『Don't Forget '93』の石碑が鎮座している.
スタリモスト橋の手前にこのコスキメフメットパシナモスク(Koski Mehmed pasha's mosque)があった.川の対岸(右岸)に立つと,淡い色あいのモスクとミナレット全景が望める.
このモスクは1618年の建設で,上記カラジョズベゴヴァモスクから半世紀ほど遅れての建設のようだ.
スタリモスト橋袂のクラシカルな建物群は,橋と同時期オスマン朝時代の建設のようだ.屋根も含めて全て石造りのように見える.実に重厚な造りだ.現在は大方ツーリスト相手のお土産ショップなどが営業している.
深いエメラルドグリーンのネレトヴァ川の上に,実にシックな古い建物群が映える.色あいが何とも言えず素晴らしい.
オスマン帝国の建設したハマムだったそうだ.現在はボスニアヘルツェゴビナ紛争の博物館となっており,各種資料が掲載され,スライドや動画を見ることができる.実際スタリモスト橋が爆撃され,崩落される映像などもあって,20年前のことながら実に痛々しい.
シーズンであれば人混みのモスタル旧市街ブラツェフェイツァ通りであるが,冬至も間近なこの頃,しかも朝方とあって,閑散としている.まあこれもいいものだ.
なお,観光客は少ないが,住民は近くの市場で買い物に勤しんでいるし,いつも通りの日常といった感じだ.
下は,もっとモスタルの街での写真
私たちは次の観光地サラエボに向かうためモスタルを出発した.写真は新市街の端辺りだったであろうが,やはり破壊された建物が残っている.屋根が吹っ飛び,壁には銃弾を浴びた跡がいっぱいだ.
街道に沿って果物の露店が並んでいる.オレンジやりんごの他に,大きな瓢箪のようなものが並んでいる.はて何でしょう?
やがて山道に入ってきた.片側一車線で,前のトラックをなかなか追い越せないこともしばしばだ.ただバスドライバGさんは安全運転に徹し,無理な追い越しはかけない.私たちも安心して風景が楽しめた.
下は,モスタル郊外での写真
さて,次はサラエボだが,どのくらい走るだろう?