デチャニDecani

このデチャニ編では,2013/12/13(金)デチャニへ行くときの光景,デチャニ修道院見物での写真を載せました.


デチャニ付近のGoogleマップ

デチャニはモンテネグロおよびアルバニアとの国境の山麓に位置し,ほぼイスラムの国コソボの中にセルビア正教の聖地デチャニ修道院がある.今も常時NATO軍が警護にあたっている.

デチャニへ行くgo to Decani

デチャニ手前の野菜市場

デチャニ手前の野菜市場

12月13日朝到着したプリシュティナ空港からバスで一目散にデチャニへと向かった.モンテネグロとアルバニアにほど近いデチャニは,行政的にはその後で立ち寄るペーチ(ペーヤ)地区に含まれるそうだ.

プリシュティナを出て1時間半ばかり行くと,モンテネグロと隔てる2,000m級という山脈が間近に迫るようになる.そしてデチャニに近づいた辺りでは野菜を商う市場が開かれていた.キャベツやかぼちゃ,玉ねぎ....など並べているが,時間的な問題か客は少なくあまり繁盛している様子ではない.この寒さでは暫く葉野菜は途切れるのであろうか....いや温室栽培か?


デチャニ手前,コソボ石油のスタンド

コソボ石油のスタンド

街道添いにはこのコソボ石油(Kosova Petrol)など幾つかのブランドのGSが見える.GSは欧州から投資資金をつぎ込むのに最も手頃で,そのため頻繁に新設されるそうだ.この後訪れるアルバニアでは更にもの凄い密度でGSが存在する.コソボやアルバニアでは現金決済が幅を利かせ,中にはヤバイ金がマネーロンダリング目的でGS建設の決済に利用され,それが沢山存在する理由だという.随分立ち入った話だが,かなり常識的なこととか....


デチャニ手前の墓地

花が飾られた墓地

十字架のないイスラムの墓地.綺麗に花が飾られている.つい近年まで続いた民族浄化のコソボ紛争時,セルビア人エリアが混在するこの辺りは特に多くの埋葬者があったのであろう.墓石には生年と没年が記されており,仔細に見ると1990年代後半から2000年代始めの没年が殆どのようで,戦没者専用墓地かも知れない.


下は,デチャニへ行くときの写真

デチャニへ行くときの写真
デチャニへ行くときの写真 デチャニへ行くときの写真 デチャニへ行くときの写真 デチャニへ行くときの写真 デチャニへ行くときの写真

デチャニ修道院Visoki Decani Monastery

デチャニ修道院前景

デチャニ修道院前景

さてバスはデチャニ修道院前に到着した.雪の残る地の上に建つ石造りの門と大聖堂が紺碧の空に映えていた.この門の左脇には迷彩模様に包まれたブースが置かれ,NATO軍の一員としてイタリア軍兵士が警護に当たっている(撮影不可).

さて当修道院であるが,今から700年近く前の1327年,ときのセルビア王ステファンウロシュ3世デチャンスキ(←ここの地名デチャニに因むそうだ)という方によって建立され,また同王の遺体が安置されているということだ.そうです,現在殆どアルバニア人の地であるコソボ内にセルビア人建立のセルビア正教のしかも総本山とも言うべき総主教座が置かれていたという大変な聖地で,敵地にあってもセルビア人は何が何でも死守しなければ,ということだ.


デチャニ修道院の大聖堂

デチャニ修道院の大聖堂

外観が堅固でシンプルなデザインの印象を受ける石造りの大聖堂は,全体構造はロマネスク様式で,末期ビザンチン様式のドーム,初期ゴシック様式の窓などなどがミックスされているという.

興味深いことに,建設は,後日訪問するコトル(モンテネグロ)のフランシスコ会,つまりカトリックの修道士と大工さんが来て工事に当たったそうである.なぜ正教系でなく,カトリックの関係者が建設を担当したのか訊いてみると,単にゼネコンのような役割で,という回答だった.でも多少カトリック教会的要素も加わっているのでは....?私には見分けがつかないのだが.

正面入り口上のレリーフ,ライオンを従えたキリスト,右側入り口上のレリーフ,キリストのヨルダン川の洗礼などは素朴で力強い印象であるが,膨大な箇所を訪れ,キリスト教に造詣の深い添乗のKさんにとっても他所の同じモチーフの絵画やレリーフと比べかなりユニークな感じがする,とのことだ.


デチャニ修道院僧坊

デチャニ修道院僧坊

大聖堂左側に僧坊があった.修道士は自給自足を原則とするそうで,修道院少し手前の道沿いには専有の畑や牧場もあった.近年は20~30人程度の修道士がここで居住しているそうである.ただ修道に没頭できるかというと,そうではないであろう.一歩院外に出れば敵ばかり(護衛を付けるそうだ),中に居ても現にアルバニア人のロケット砲の着弾などあるし,防人の役目も負っているであろうし,大変だ.

ところでさらに昔,長らくオスマン帝国の支配あった訳だが,歴代スルタンはこの正教会を禁止せず,徴税軽減などある程度保護していたそうだ.ブルガリア正教会の修道院であるリラの僧院も危なかったが何とかオスマントルコの攻撃から身を守ったのと似ていようか.


デチャニ修道院で案内して下さった修道士

デチャニ修道院で案内して下さった修道士

この方が大聖堂の歴史や,内部のフレスコ画,装飾品などについて詳しく説明して下さった.

暫く解説の後,『折角日本から来て頂いたし,他の参拝者もいないのでフラッシュ無しで写真撮っていいですよ』と言ってもらった.大変ありがたかった.

ところで,修道士は修道していずれ他の正教会の僧職に就くのであろうか?長らく疑問に思っていたので,この方ではなく添乗Kさんに訊いてみた.すると,生涯修道士として過ごす人が多く,長じて稀にそこの修道院長という僧職に就く人もいる,ということのようだ.この点日本の仏教界では,仏教系大学で学び,同じ派の寺で少し修行し,日本各地に点在する同派のどこかの寺に住職として赴く,というシステムとはかなり異なるようだ.


デチャニ修道院の祭壇(至聖所)

デチャニ修道院の祭壇(至聖所)

左側の入口から入った部屋の先にこの部屋があった.そしてこの部屋中央,少し高く奥まったところが祭壇(至聖所)である.キリストやマリア,聖人のイコンが掲げられている.長い歴史を感じさせる色調のもの多いが,600年以上の年月隔てているにしては傷みは少なく保存されていると思う.

祭壇(至聖所)の前の上部が6本の柱状の壁は,その手前の聖所(身廊)とを分ける仕切りでイコノスタシス(聖障/Iconostasis)と呼ばれるそうだ.聖職者以外この先に入ってはいけないという壁の役目のようだ.またこの名から類推できるようにイコンを掛ける場でもあり,確かに4枚の大きなイコンが掲げられている.

写真右側,臙脂色布で覆われたのが,当院建立者ステファンウロシュ3世デチャンスキ王の石棺だそうだ.なおその手前にも当院縁の人の幾つかの石棺があった.


デチャニ修道院の膨大なフレスコ画

デチャニ修道院の膨大なフレスコ画

正教会なのでカトリック教会と異なり立体像や信徒用の椅子,パイプオルガンなどがないのが特徴だ.

その代わりと言っては何だが,膨大な数のフレスコ画で,壁も,柱も,天井もこれでもかと言うほど埋め尽くされている.フレスコ画の主題は新約聖書から採られ,その数1000にも達するそうである.そしてこれらのフレスコ画はロマネスク様式で他のセルビア正教会の絵とは異なるということだ.描いたのは例えばミケランジェロなど有名なアーチストではなく,一括りに”職人”と呼ばれる人たちで,顔料としては高価なラピスラズリなども使われているそうだ.世の中まあそんなものであろうが,一般にいい作品を残しても職人や技術者の名が全く後世に残らないのは,何だが残念に思う.

600年以上経っているので流石一部フレスコ画は剥がれ,石の躯体が覗いている.ここはユネスコ世界遺産世界遺産ロゴに指定されているので現状維持が原則であろう.補修はできないであろうが,それでも今の状態を維持できれば素晴らしいと思う.


下は,デチャニ修道院での写真

デチャニ修道院での写真
デチャニ修道院での写真 デチャニ修道院での写真 デチャニ修道院での写真 デチャニ修道院での写真 デチャニ修道院での写真 デチャニ修道院での写真 デチャニ修道院での写真
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売店のイコン

上述のようにデチャニ修道院は自給自足が原則だそうで,生活の足しにと,参拝者に農場で作ったチーズや,下写真のようなイコン(イエスキリストや聖母マリア,大天使,聖人...),お土産品など販売していた.

売店のイコン売店のイコン

ところでその昔,印刷機がまだ無かった時代には,修道士が聖書を写本し,販売するのが一番の収入源だったそうである.


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