このプリズレン編では,2013/12/14(土)朝プリズレンへ行き,リェヴィシャの生神女教会を見物し,ビストリツァ川周辺と,スィナンパシャモスク周辺を歩き,バスでマケドニアへと向かったときの写真を載せました.
コソボのプリズレンは,首都プリシュティナと,コソボの母国とも言うべきアルバニアの首都ティラナを結ぶ高速道路の中間地点に位置している.
プリズレンは,かなり出来上がっているプリシュティナとアルバニアを結ぶ例の高速道路近くにある.なのでプリズレンまでは80kmくらいらしいが1時間半ほどで着く見込みだ.
途中丘陵地帯も多く通過する.牧草であろうか,冬だが緑が残っており清々しい.
プリズレンに到着すると,先ずリェヴィシャの生神女教会に行った.セルビア正教会の聖堂で,12世紀の建立というからとても古い.石造りか,いや少し赤味を帯びているのでレンガ造りか?なかなかどっしりしたデザインだ.長いオスマン帝国支配下ではモスクに転用され,やがて20世紀初頭ようやく正教会に戻された歴史があるそうだ.本教会は前日見物したデチャニ修道院やペーチ修道院と共にユネスコ世界遺産『コソボの中世建造物群』に含まれるということだ.
ただ入り口は閉鎖され,ビニールカバーは破け,覗きこむとあちこち破壊され,ゴミだらけである.2004年3月,アルバニア系住民過激派の反セルビア暴動の放火などで相当傷んだという.また上記2つの修道院と違って,現在セルビア人はだれも居住せず,空き家状態になっている.だれも居住してないので人的危険度は少し低いようで,NATO軍兵士は駐留せず,警察官が傍らの専用詰め所で警護していた.
古くからの市街地のようで,狭い通りの三叉路に建てられている.江戸の下町的趣きが感じられる.今は誰も居ないが,以前はセルビア人居住区であったのであろう.写真鐘楼左手に上述の警察詰め所が置かれていた.
話は飛ぶが,狭い通りを行く車のナンバープレートはアルファベットと数字で,上の桁アルファベットはエリアコード(品川とかの)だそうだ.これまで下手にエリアが判ると襲撃される恐れが強いため,敢えてこれを省き記さないできたそうだ.それが最近エリアコードを入れたナンバープレートも使われ始めてきたそうで,幾らか安全な状況になってきたのであろう.
生神女教会周辺は全般にかなり寂れた印象の街並みだ.例えば右下の宝石店など,いつお客さんが来るのかな~?とお節介したくなる雰囲気だ.でも平和が何よりであろう人たちにとっては落ち着いて生活を送れる街になっているのであろう.
なおこの日プリズレンのガイドはDさんになった.Dさんもマケドニアの人で,コソボは出張ということになろう.あくる日地元マケドニアの案内も担当してくれるそうだ.
プリズレンの街の真ん中をビストリツァ川(Bistrica river)が流れ,左右対岸を数本の石橋が結んでいる.両対岸には各種ショップやカフェ,レストランが並んでいる.こうした石橋のデザインは後日訪れる有名なモスタルの橋などと形態が似ている.バルカン半島各地で技術が継承されてきたのであろう.ただ道端や畑脇同様,ゴミが多いのは残念だ.
この写真でも1つ見えるが,モスクがとても多い.高いミナレットがあるのでそれと判る.一町内で一つ,のような割合であるように見える.そして『東西方向に影が無くなる』頃,お昼の礼拝を呼びかけるアザーンも聞こえてきた.一層イスラムの街と感じられる.
ビストリツァ川沿いに,かつてのプリズレン連盟(League of Prizren)の本部,今はその博物館があった(外から眺めただけだが).連盟は1878年6月この場所で,バルカン半島各地に散らばるアルバニア人居住地をセルビアやモンテネグロの進出,併合から守り,オスマン帝国の配下での一定の自治権を獲得する目的で結成されたそうである.またそれどころか,積極的に領土拡大を狙う大アルバニア構想もあったそうで,その範囲は現アルバニアにコソボはもちろん,モンテネグロ,セルビア,マケドニア,ギリシャの一部を含める,と云うもので,そうした資料は後日訪問のアルバニアの首都ティラナの博物館にあった.バルカンの度重なる戦いはアルバニアのみならず他諸国のこうした謀略などから引き起こされたのであろうが,これからは落ち着いて欲しいものだ.
丘の上には石を積み上げた城壁が見えていた.何でもローマ帝国時代のものらしいが....定かではない.ここに登る手前に朽ちたセルビア正教会とセルビア人居住区があるが,現在プリズレン居住のセルビア人は高々100人くらいとか....
オスマン帝国時代のハマム(浴場)があった.現在は紛争時に壊れ,使われていないそうだが,修復工事が行われているようだ.また背後はモスクで,今も使われているようだ.
何を食べたか思い出せないが,壁には絵がたくさん架かっていた.店主の好みであろう.また酒瓶も当たり前のように並んでいる.この街はモスクが多いし,ほぼ100%モズレムだそうだがスカーフの女性は殆ど見かけない.
オスマントルコ時代に造られたという水場(給水場).ちょっとした広場になっており,おかみさんたちの井戸端会議場だったのでは,との解説あり.
下は,ビストリツァ川周辺での写真
かなり大きなモスクで,街の中心部広場近くに立っている.好天であるが朝靄が濃い.オスマントルコ時代に建てられたそうだ.現在傷んだところがトルコ政府の資金援助で修復工事が進められている.トルコ政府はコソボ各地のオスマントルコ遺跡に資金を提供し,修復を支援しているそうだ.
スィナンパシャモスク近くに広場があった.プリズレン一番の盛り場だそうで,周りはカフェや小さな宝石屋,ちょっとしたお土産店,ブティックなどが囲っている.石畳と中央に配された給水栓がヨーロッパ的だ.
この辺りの人は,寒くても屋外での飲食を好むようでオープンカフェの席もそれなりに満たされている.
広場に面して小さな宝石店が幾つか並んでいる.ウィンドウを覗く限り,中東のゴールドショップのようなゴージャスさは見えず,控え目な商品が占めている.
貴金属や宝石が一層好まれる地域は概して政治的に不安定なエリアが多いそうだ.いざ逃げる際に容易に持って行けるためで,不動産は正にその正反対であるが,これに投資できる国の民は幸せだ,とのKさんの論あり.かなり当たっていると思う.
広場からの坂道にカトリック教会があった.なかなか立派な教会だ.少ないがアルバニア人カトリック教徒のための教会で,問題無いということだ.仮にセルビア正教会なら大変,多分破壊される,とのことだ.同じキリスト教なのに....と思わずにはいられないが....
上の大きな教会の道路を挟み向いにごく小さな聖堂があった.やはりカトリックのお堂のようだ.隣の小さな家と比べるとそのコンパクトさが知れる.思想的にはともかく,風景として捉えると,日本の村外れのお地蔵さん,といった佇まいに近い.おこられるかな....
さらに坂を上ると今度はCathedral of the Helping Ladyという案内板が掲げられた教会があった.the Helping Ladyとは聖母マリアを指すようで,やはりカトリック教会のようである.
まあ,こうして観ていると圧倒的にイスラムの街なのであろうが,カトリック教徒もそれなりに住んでいる.しかし正教徒とは一緒に住めない....ということになるようだ.
下は,スィナンパシャモスク周辺での写真
コソボの国の観光を終えて私達のバスはマケドニアとの国境を目指し,南下した.
途中ときどき村や町を通過した.住宅は赤い屋根に白い壁の造りが多い.そしてその中に高いミナレットに銀色ドームのモスクが建てられている.銀色ドームはアルミ合金であろうが,比較的最近の建設であることを窺わせていると思う.
お手洗い休憩で途中の町のショッピングモールに立ち寄った.スーパーマーケットや家電店,フードコートなど備えており,他所のこういったモールと同じだ.駐車場は小さいので規模は然程大きくはない.
少し山間に入ってきた.結構山の上まで住宅がある.眺めが良さそうだが,歳取ると日常生活が大変そうだ.生計は家畜でしょうか?走っている列車は見かけなかったが,この辺りは鉄道が引かれ,マケドニアに続いているようだ.
この後バスは山に入り,高度を上げ,国境に至った.国境はフリーパスではなく,ちゃんとコソボ側出国/マケドニア側入国のコントロールがあったが,然程時間を要することはなかった.
下は,マケドニアへ向かう途中での写真
以上でコソボは終わり.次はマケドニアだ.さて何が待っているかな~?