アラビア語で「ザクロの実」を意味するというグラナダにやって来た.
マーカー4で示したのがスペインのグラナダ(Granada).イベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国の都で,そのアルハンブラ宮殿で良く知られている.
ラマンチャから再び南下しグラナダに向かう.途中山間の深い谷のある地帯を通過する.イスラム支配下のこの地方をキリスト教徒の手に戻すべくレコンキスタでの戦いにおいて,イスラム教徒をここに投げ落とすことがあったそうで,犬落としの谷と呼ばれることがあったそうである.アフリカを渡ってきたムーア人と原住民であるスペイン人との戦争であったから,そのようなことがあったのであろう.
地中海沿岸の国はオリーブ畑が多い.この辺りはまだ序の口であるが,それでもオリーブの木がたくさん植えられている.地面がよく除草され手入れの行き届いた畑だ.
夜になってグラナダに到着した.泊まったホテルはアルハンブラ近くの丘上にあり,グラナダの街に浮かぶアルハンブラ宮殿頂部を望むことができた.タングステンランプやナトリウムランプ系の照明色はやはり古都には似合っている.
アルハンブラ宮殿の入り口までホテルからの道を歩く.ホテル近くの商店の並びを過ぎると,主に糸杉など常緑樹が多いが,いくらか紅葉の残る落葉樹もあって歩くに気持ちのいい通りだ.
ゲートをくぐり,宮殿に入る.入った辺りは1492年レコンキスタ完了後30年を経て,大航海時代を制し,スペインの絶頂期カルロス5世によって作られた宮殿だそうである.キリスト教様式というか,古代ローマ帝国風の建造物に感じる.個人的には正直言ってそれ程興味深いものではないが,繊細なイスラム様式と対比すると,強靭で強大な印象を受ける.尤も自国ではスペインルネッサンスの代表的建築とされているようだ.
下は,アルハンブラ宮殿入り口に至るまでの写真
グラナダの南東部,馬の背のような形をした丘があり,丘の頂部はうまい具合にかなりの面積が平坦になっていたそうで,ここにアルハンブラ宮殿が建設されたようである.非常に暑い夏のグラナダでは比較的涼しい場所であるそうだ.宮殿の庭からはグラナダの街がよく見渡せる.街は白い壁に赤い屋根を基調とする家々が斜面に建ち並び,とても美しい.
長方形の池がある中庭で,周りは大理石柱とアーチの回廊だ.アラヤネスとは池の両側に植えられた花の名前だという.池の両側の建物には4つの部屋があり,イスラム法に従う4人の正室の部屋になっていたそうだ.まあ,大奥のようなものか.
アルハンブラ宮殿は異なる時代に建てられた様々な建築物の複合体なのだそうだ.アルハンブラはアラビア語で「赤い城」が原義と言われるが,写真のように赤いレンガもあるが白い漆くい壁が多く,決して真っ赤か,と云う印象ではない.アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは,イベリア半島最後のイスラム王国,グラナダを首都としたナスル朝(13世紀-15世紀)の時代に入ってからであるそうだ.そして夜を徹して行われた拡張工事での照明用たいまつが赤々と宮殿を染めた,という説が有力らしい.
宮殿と呼ばれているが当然城塞の役目を備え,内部に住宅,官庁,軍隊,厩舎,モスク,墓地,学校,浴場,庭園といった施設を備えていた.写真の池は,砂漠で生まれたイスラム文化にとって理想,楽園を具現化したものであったであろう.だから水には不自由しない日本庭園の池とは全く異なる意義を持つものであろう.
下は,アルハンブラ宮殿の写真あれこれ.鍾乳石模様の天井,アラビア文字(飾り文字)の壁,幾何学模様のタイル,などイスラム建築共通のインテリアに満ちている.
711年,対岸の北アフリカからイベリア半島に進出したムーア人イスラム勢力は,瞬く間に半島を制圧し,ここグラナダやコルドバなどで,当時の西ヨーロッパより遙かに高いレベルの学問,文化を開花させたそうである.しかしキリスト教勢力は徐々に挽回を図り,1492年ついにイスラム最後の砦であったここグラナダを奪回した.これでイベリア半島全体が再びキリスト教徒の地となった訳だ.
奪回したアルハンブラは,最初ゲート近くで見物したように,モスクをキリスト教の教会に改築するなど行ったようである.しかし,この写真のように124本もある大理石の細い列柱,直線で構成される屋根,噴水のある池,ライオン像など,典型的イスラム遺産をことごとく破壊することはなかった.現在世界に知れ渡る遺産を眺めることができるのは幸いだ.
ところで上述のキリスト教徒のイベリア半島の奪回,つまりレコンキスタは1492年であるが,「コロンブス,イシクニ(石国)アメリカを発見!」として覚えた年号,1492年だ.つまりレコンキスタ完成とコロンブスのアメリカ大陸発見は同じ年だったのだ.難攻不落の要塞,アルハンブラ宮殿を有したグラナダ王国を1492年に攻め落としたのはカスティーリアのイサベル女王とアラゴンのフェルナンド王のキリスト教国連合軍だったそうである.そのイサベル女王は,当時コロンブスも援助していたのだそうで,相当力があったのだ.
水は貴重なだけにとても大事に扱われ,庭の主役の印象だ.庭木,特に糸杉は日本の庭木のように,よく刈り込まれている.寧ろ整形の度合いはこちらの方が大きいかな?
下は,ライオンのパティオ,浴場,庭園,ダマスの塔と池(Estanque y torre de las Damas)などの写真
なお,アルハンブラは,1984年,『グラナダのアルハンブラ,ヘネラリーフェ,アルバイシン地区』(Alhambra, Generalife and Albayzin, Granada)として,ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されている.
写真で見たシンプルで端正な建築物,タルレガの名曲/アルハンブラの想い出(Recuerdos de la Alhambra)の印象もあって,長い間「見たい!見たい!」と思っていたアルハンブラ.現物を眺めてやはりこの上なく美しいと思った.壁の繊細なアラベスク模様や屋根瓦の波は,あたかもタルレガのトレモロの響きにも少し通じるような.....
アルハンブラ宮殿からヘネラリフェ庭園に向う途中にある塔.ムハンマド9世という王が在位したことがあるそうだ.1492年に降伏したムハンマド11世の2代前の王ということになろう.ムハンマド9世王は,捕虜として囚えらた敵将,つまりスペイン人の娘に心魅かれ,后にしたそうである.婦人との間に三つ子の娘が生まれたが,占星術師たちのお告げで,王は地中海を見わたす丘に砦を築き,王女たちを閉じ込めた.ある日,王女たちが海を眺め,敵方のキリスト教徒,三人の誇り高く,気品に満ちたスペイン人騎士捕虜を知ることとなる.娘たちの危険を察知した王は,王女たちを写真の塔に匿まい,三人の騎士を別の牢獄に連行した.捕虜の騎士たちと三人の王女は恋に陥り,塔から縄梯子で二人の王女は降りたが,一人は高所に躊躇し,降りることはできなかった.二人はやがて騎士たちと結婚し,一人は恋しい思いを胸に秘めたまま,若くして亡くなったという.
アルハンブラ宮殿にほど近いヘネラリフェは,アラビア語で「天の楽園」の意だそうだ.アラブで,天国にあるもの代表は水のようで,庭園はこれをテーマにしているようである.園内の水はシエラネバダ山脈から引き,水路や噴水となって流れている.豊かな糸杉の木立ちもすばらしい.ここは王の避暑のための離宮として使われていたようである.
下は,ヘネラリフェ庭園の写真
なお,ヘネラリフェ庭園は,1984年,『グラナダのアルハンブラ,ヘネラリーフェ,アルバイシン地区』(Alhambra, Generalife and Albayzin, Granada)として,ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されている.
アルハンブラ宮殿からホテルに戻り,グラナダ市街に下りた.写真の通りの右の中華料理屋で昼食となった.中華料理ではあったが,どんな料理だったかな~?世界のちょっとした都市なら必ず中華料理店はあるので,グラナダクラスの規模になれば相当数あるであろう.
グラナダはアンダルシア州グラナダ県の県都で,人口は23万人.711年以来,ウマイヤ朝によりイベリア半島が征服されて以来グラナダはイスラムの支配下にあって,前述の如く1492年,レコンキスタでキリスト軍による包囲の末に無血開城された.以来,アルハンブラ宮殿はじめ色々な名所旧跡を残しているそうであるが,現代の主要産業は何であろうか?
下は,グラナダ市街の写真