この遍路3日目編では,2018年3月3日ホテルアイリンを出発し,松尾峠を越え,宇和島市街を通過し,第41番 龍光寺,次いで第42番 仏木寺を参拝し,歯長峠を越え,民宿みやこへと到着したときの写真を載せました.
宇和島市南側に位置するホテルアイリンで朝を迎え,早めではあるがチェックアウトし,同市中心方向北に向けて出発した.3月に入り夜明けが早くなったので歩き始めて間もなく明るくなった.
国道56号線をたどり来ると松尾トンネル入り口に差し掛かった.このままトンネルを歩いて抜けてもいいであろうが,遍路道案内シールのトンネル左手のトレイルに進むことにした.
さて遍路道に入るとすぐに倉庫であろうか小屋があり,壁には絵と『ゆっくりゆっくり....』の励まし言葉が記されている.はい了解しました.
上りはまあ普通の土の路面が多かった.多分問題ないであろう.
暫く上ると休憩小屋が建てられていた.道標は見えないがこの辺りが松尾峠の一番高いところになるのであろうか?
車から外したシートが設置されている.折角だがこの場所にあると汚れてしまい....やはり普通の木のベンチでいいと思う.すみません.
さらに行くとアスファルト廃棄処理工場の脇に出た.剥がした古いアスファルトを粉砕して処理するらしい.
この辺りは処理工場の車が入るのでアスファルト舗装道路となっている.
舗装道路を少し行くと,右の小路に入る遍路道の案内があり,それに従う.そして小路は直ぐさま写真のように幅広に舗装された道に変わった.
この舗装道は両側とも樹木が茂り,車も人も全く通ることなく,実に快適だ.そんな訳で心軽やかにどんどん歩みを進めた.
だが途中で,何かおかしいな~?違っているようだな~と感じ,そこで行ったり来たりした末,もと来た道を全部戻ることにした.
どんどん戻り,小路入り口からこの舗装道に入った直後辺りに下に降りる道標(写真左)を見つけた.まあ随分と無駄歩きをしたものだ.
この間違いは心的ダメージも大きく,さらにこの後宇和島市街通過時の間違いも重なり,多分この日のログは43.52kmだったので,合わせて10km以上の無駄歩きを行ったようだ.これもお大師さまのお導きか.
さてようやく見つけた上記道標のトレイルを下ると,大きな通り,正しい遍路道に出た.ソーラーパネルの脇を通過すると交差点に出て,宇和島市街地の方向に進む.
市街地入り口辺りに来ると,歩いている歩道の反対側にローソンが見えた.そして道路を横切り,お店に入り,コーヒーなど買い求めイートインコーナーで食べる.
そしてまたしても道を間違えてしまった.道路を横切ってお店に入ったことを忘れており,お店を出てから反対方向(さっき歩いてきた方向)に歩いてしまった.これも暫くしてようやく気付いたが,認知症の症状の一つであろう.
逆歩きを戻り,しばらく歩き魚屋さんの前を通った.魚やアサリなどに加え,お隣愛南町産殻付き生カキも販売されている.殻から外すのに注意を要するが,こりゃ美味しいに違いない.それに一個90円と激安価格だ.
そのうち馬目木大師(まめきだいし)を通過した.残念ながら二度も大きな間違いを犯した私に立ち寄る余裕は全く残ってなかった.
弘法大師は九島の願成寺を造った.ただ海を渡って九島に行くのは甚だ困難なため,宇和島海岸にあった渡し場に遥拝所を設けた.そしてここに札を掛けよと,馬目樫(マメガシ)の枝を立てていたのだが,いつしか根付いて葉が茂るようになったということだ.
参拝しなかったので確かではないが,その根付いた馬目樫はここに移植され,今もあるのでしょうか....?
馬目木大師付近は落ち着いた住宅街だ.古い建築が残され,小川が流れなかなかいい街だ.
住宅街を抜けると商業地区に入り,そこから小高い山,城山が見えた.そしてその上には宇和島城が築かれている.城山は平地に独立峰形態で突き出ており,宇和島城は典型的山城で防御には強そうだ.下が囲まれて兵糧攻めのリスクも高かったかも知れない.
城の設計は当時名手と言われた藤堂高虎によるそうで,江戸幕府のスパイが調査結果報告書に四角形の平面図を記したが,実際は五角形構造だったそうな.それだけ分かりにくい構造だったようだ.
宇和島城山前の通りには,宇和島市の代表的な風物を描いたパネルが歩道に埋め込まれている.これはその一つで『牛鬼』と名付けられているそうだ.
牛鬼は既に枕草子に登場し,「名おそろしきもの――牛鬼」と記され,ほら貝を鳴らすような声をあげて走り回り,それを山伏が退治したお話もあるそうだ.
現在宇和島の牛鬼は,5~6mの牛をかたどった竹組みの胴体に丸木で作られた長い首と,この写真のような恐ろしげな鬼面の頭,剣をかたどった尻尾があり,全身シュロの毛または赤色の布で覆われているそうだ.そして毎年7月のうわじま牛鬼まつりで練り歩き,家ごとに首を突っ込んでは悪魔払いをするということだ.
宇和島は元より闘牛で有名であるが,何かと牛に親しむ伝統があるようだ.
どこの地方都市でも感じることだが,ここ宇和島の立派なアーケード街も,シャッターを下ろしたままのショップが結構あり,ちょっと寂しい感じだ.やはり後継者不足や人口減のためであろう.
宇和島街外れに来るとJR予讃線を跨いだ.同線はここ宇和島から松山を経由し,高松まで通っているようだ.なおこの後また踏切があり,線路東側に戻る場所があった.
そしてさらに先に行くと,今度はJR予土線(北宇和島駅と高知県四万十町を結ぶ線路)を跨ぐ踏切を越える箇所や,それと並行して歩く区間があった.
いらっしゃいませ みま町の標識が見えた.第41番 龍光寺は遠くないであろう.
三間町は以前独立の自治体だったが,現在は合併で宇和島市の一部となっているそうだ.
ようやく第41番 龍光寺に到着した.門前に立つと,赤い鳥居と稲荷大明神ののぼり旗列が目立ち,右横に大師堂,左横奥に本堂が建つ様子が伺える.鳥居の先,一番奥まったところには稲荷社が建てられている.この寺は,山号が『稲荷山』とあるように,神仏習合が明治以降もそのまま維持されてきたのであろう.
一般的には,明治期の神仏分離で,既に一体化した存在が強制的に神社と寺院に分離させられたり,一方が廃されるケースが多いそうである.
先ず手前の手水舎で清め,本堂前に至り,型通りろうそくとお線香を灯し,お賽銭,納め札を入れ,そして11月以来久々に般若心経を開き読む.前より一層たどたどしい.
次に大師堂前に行き,同じように参拝する.
参拝を終え,階段を下りかける.然程上ったように思えないが,ここからは街の様子がよく見渡せた.それなりに高い場所にあるようだ.
龍光寺から下ると池があり,仏木寺への案内板があり,それに従う.池は農業用水池でしょうか.
仏木寺への遍路道は主に田んぼの中を行く.静かないい道だ.
そのうち仏木寺山門に至った.山門には一カ山(いっかざん)の名が掲げられた木造楼門形式だ.両側に仁王様が立ち,守護している.
普通仁王像は格子やメッシュで囲まれている場合が多いが,ここは開放的でとてもクリアに見える.写真は右側なので阿形(あぎょう)と呼ばれるそうな.なお左側仁王さまは吽形(うんぎょう)と呼ばれ,阿吽(あうん)の呼吸などと言われる阿(物事の始まり)吽(終わり)が語源となっているそうな.ふむふむ.
驚くことに仁王像は日本固有で,仏教伝来以前からある守り神が進化した形のようであるらしい.なおランクとしては明王のクラスに属するそうだ.
山門で一礼し中に入ると,弘法大師像が立てられていた.とても初々しい姿で,大師と称される前の空海像であるように映る.
なお本仏木寺は弘法大師の開基で,自ら楠で大日如来像を彫造,眉間に宝珠を埋めて本尊として安置,仏木寺と名づけ,草字体で書写した『般若心経』と『華厳経』一巻を奉納したということだ.
書写した『般若心経』と『華厳経』が今に残っていれば,書家としても圧倒的に知られる大師なので,その筆跡を実際に見ることができようが.....さてどうなんだろう?
山門から真っ直ぐ進むと本堂があり,その左手に大師堂があった.それら手前の手水場で清め,そして順に立ち,般若心経を読む.
読経が済むと納経所に行き,御朱印と墨書きを頂いた.
仏木寺参拝を終えると次は歯長峠へと向かった.そして仏木寺から1.5km行くと写真の峠への分岐点に達した.道標によれば歯長峠まで1.7kmあるようだ.
歯長峠への遍路道は概ねなだらかな土のトレイルで,周囲には杉林が茂っていた.途中通行禁止の標識が出た場所になり,もう一方の道に逸れたところもあった.
そして舗装された広い道に出た.舗装道は少し歩くと下写真の歯長トンネルとなる.この辺りが峠頂上だそうで,標高480mとか402mとか記されたサイトが見られる.
ここからは下界を望めるが,概ねこれより低い山並みの景色である.
この日(を含む暫く)はトンネル内部の工事で,車両は通行止めであるが歩行者は往来可能だった.そして南から北へと入っていった.一部工事のためブラックアウトした区間が少しだけあったが,問題なかった.
歯長トンネルを抜け,北口に来ると東屋があり,ザックを下ろして休憩した.そして入り口で交通整理担当の工事関係者にここからの下りルートなどについて情報をもらった.下り口はこの写真で東屋の背後から始まり,少し前に女性一人が降って行きましたよ,とのことだった.
休憩後東屋を出ると,直ぐに階段状の下り道に入った.下りは長く続き,深い林で暗いが歩き易いトレイルだった.そしてその下りの終わる頃から雨がポツリと落ち始めてきた.
歯長トンネル後の急で長~い下り坂を過ぎると,遍路道は舗装道に出た.そして天気がよくなった訳でなく,むしろ雨の量は増えてきたが,樹木に囲まれてないので急に明るさが増した.そしてこの舗装道も暫く下りが続いた.
歩いていると民宿みやこのご主人から,どの辺りを歩いているか問い合わせ電話があった.これこれの見える辺りですと応えると,そこからだとあと40分くらいかな~,車で迎えに行きますよ,ともおっしゃって頂いた.
大丈夫ですので,とお断りしたのだが,暫く歩いたあとで,迎えの車で来て下さった.こうした接待は本来受けるべきなのだが,明日遍路継続時にここまで戻るなどいろいろ大変そうなので,やはり歩いてみやこさんまで行きたいとお願いした.歩き遍路の接待のマナーとして,乗車についてだけはお断りしていいと言われているし.....でもすみませんでした.
そのうち雨脚が強くなり,日も暮れて周囲は暗くなってきた.そして西予市(せいよし)の遍路道沿い民宿みやこさんに到着した.そして部屋に案内してもらい,お風呂やランドリーの案内をしてもらい,直ぐにお風呂に入った.
部屋にはお客さん用ノートがあり,またご主人に関する日経新聞の切り抜き記事が置いてあった.ご主人は元農業を営んでいたが,今から30数年前にレストランと民宿経営に事業を変えたそうだ.そして遍路宿開設当時と較べて遍路道は飛躍的に車が増え,交通事故が最大の問題となった.そして交通安全を祈念して『道中安全見守大師』を近くの遍路道脇に立てた,という要旨である.
お風呂から上がると隣のレストランに廻った.レストランは結構広く,多くのテーブルが用意されているが,齢を重ね(現在80歳という)てから仕事が大変になり,また高速道路開通で客も減った数年前から営業を止めたそうだ.今は専ら泊り客の食堂として活用しているという.
このシーンはこの日の泊り客,私一人,のための食事を作り終えたのでリラックスして一杯,といった場面だ.女将さんはまだお茶や,ご主人の食事準備でカウンターの内側で立ち仕事中だ.
この日民宿みやこさんの夕食は焼いた鯛,天ぷら,〆た魚,煮物で,美味しかった.普通ビール一本で終わりとするのだが,ご主人の飲んでおられた発泡酒も美味しそうなのでつい追加してしまった.
ところで店名みやこは女将さんのお名前でしょうか,とお訊きしたら,いや母の名前です.30数年前農業を止めてレストランと遍路宿に事業転換する際,お母さんは喜んで賛成してくれたそうで,それで名付けたということだ.
以前遍路でみやこさんに幾度か泊まった長崎在住85歳女性から,ここに泊まるお遍路へのお接待にと前日送ってきたものだそうだ.今は遍路歩きが不可能になったため,お接待でその代わりをしたいということだそうだ.小分けされた数十セットあり,私はその中の一つをおすそ分けしてもらった.
セットには手書きで,無事結願を祈る旨メッセージや,無事帰るとことを願うビーズを織り込んだ手造りのカエルの鈴,粉末カフェオレ,梅酢昆布,楊枝セットなどが入っていた.
納め札をご主人に預かってもらい,ありがたく頂戴した.そしてカエル鈴はザックにくくりつけた.小さな鈴は微かな音色でちょうど良い感じだ.