この遍路17日目編では,2018年3月17日旅館晩翠を出発し,第68番 神恵院と第69番 観音寺を参拝し,財田川沿いを遡り,第70番 本山寺をお参り.その後伊予街道を北上し,第71番 弥谷寺,第72番 曼荼羅寺,第73番 出釈迦寺,第74番 甲山寺,第75番 善通寺と順次参拝し,善通寺宿坊に宿泊したときの写真を載せました.
3月17日朝になり,朝食を頂きに階下に降りる.前晩の夕食と違って旅客専用ダイニングルームだそうだ.塩鮭におひたしなどに,湯豆腐が加わっているのが晩翠風であろうか.
朝食では壮年の区切り打ちお遍路さんと一緒だった.今も現役でお仕事中で,休暇を取りながら区切り打ちで続けているそうだ.とりあえず明日は40kmくらいは歩きたいとのことだ.問題ないでしょう,お気を付けて.
ご主人が直接カウンタに立ち,チェックアウトしてもらった.ありがとうございました.
表に出ると少し風は冷たいが青空で素晴らしい.第68番神恵院は旅館晩翠近くを流れる財田川の先で,先ずはここに架かる橋を渡った.
橋を渡って程なく第68番神恵院,第69番観音寺共通の山門に至った.第68番神恵院,第69番観音寺は敷地を共用し,山号も七宝山も同じで,山門も共用なのだ.(なお山号七宝山は,場所は隔てているが,さらに次の第70番本山寺も同じだ)
山門を潜り階段を上り境内に入ると,2つの寺があるためか,いろいろなお堂が建っている.背景のは標高70mという琴弾山(ことひきやま)で,瀬戸内海国立公園の一部ということだ.
境内中央の巨木は,樹齢1000年,幹周り直径62cmのクスノキという.迫力がある.
コンクリート造り白い四角形が第68番神恵院本堂だ.やはり四角形の入り口から中に入ると祭壇が設けられ,ここで般若心経を読んだ.
本神恵院は日証上人が阿弥陀如来をご本尊として,703年に創建したという.
また,写真左側に少し白い壁は,大師堂であったように思うが....確かではないな....
こちらが同じ敷地内にある第69番観音寺本堂で,寄棟造りの至って伝統的建築様式だ.カールした屋根瓦の織り成すストライプが美しい.また建材には古い部材が組み込まれ,重要文化財に指定されているそうだ.
観音寺は山門共用で,山号が同じと上述したが,日証上人の開基で真言宗大覚寺派に属するのも同じだそうだ.但しご本草は聖観音世音菩薩と,異なるそうだ.まあ,これも同じなら寺は一つで良いことにもなろうから,素人考えながら違いはある筈だ.
そしてここでまた経本を開き,読み上げる.
観音寺大師堂は宝珠を載せた方形屋根で,これまた一般的デザインだと思われる.
日証上人の開基後100年余り経った807年,弘法大師が本寺の第7世住職となって入山し,奈良興福寺に倣って中金堂,東金堂,西金堂の様式で七堂伽藍を建立し,その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置したということだ.
そしてここで,読経し,納経所に降りてご朱印と墨書きをまとめて2ページ分頂いた.書いてくれた方は同じ人だったように思う.
第69番観音寺参拝を終えると,財田川対岸(旅館晩翠側)遍路道に出るため,往きの橋の少し上流に架かる橋を渡った.
冷たい大気だが風がなく,川面は波立たず滑らかだ.
河口の,この辺り観音寺市では昭和中頃まで,当川で染物を行っており,染川と呼ばれていたこともあるそうだ.現在はアユの遡上もみられるそうで,その点多摩川と同程度の清流と見ていいのだろうか...
財田川の左岸側に出ると,対岸の山並みがきれいに望める.山並みは第68番神恵院後ろにあった琴弾山の続きであろうか.
また財田川の堰中程に堰に連なる斜面が見えるが,アユなど遡るための魚道であろう,多分.
遍路道は財田川左岸土手あるいはそれに沿う遍路道がず~っと続いており,これを遡る.車は殆ど通らないし,開けた場所なので歩くには最適な通りだ.
第70番本山寺間近になり,財田川対岸への橋を渡った.そこで道標を見ると本山寺は直ぐそこのようである.
広々した境内の周りに何もない空間に仁王門が建てられていた.仁王門はシンプルな八脚一層切妻屋根のようであるが,実は和様,唐様,天竺様という三国様式要素が採り入れられているのだそうだ.どの部分がそうであるのか私には判らないのですが.
本山寺仁王門をくぐったところでも,また,いや~広い,開放的だ~と最初の印象を受ける.次いで左奥のバカでかい足場が組まれ,シートで覆われて工事物に目が行く.中は全く見えないが,修復工事中の五重塔だそうだ.
明治43年,当時盲目だった住職頼富実毅は,五十九番国分寺を巡礼後目が見えるようになり,その恩に報いるためこの五重塔を復興したのだそうだ.それから100年以上経っている訳で,木造構造ゆえ補修が必要なのでしょう.
山門から真っ直ぐつながる石畳の先に本堂が建てられている,一層寄棟造り瓦葺きで,どっしり堂々としている.1300年建立で,外観は京都風,内部は奈良風の造りなのだそうだが,これも判らないのは残念.国宝に指定されているそうだ.
本寺は807年,馬頭観音をご本尊として,弘法大師の開基で始まったそうだ.本尊が馬頭観音であるのは八十八霊場ではここだけだそうだ.
一説によれば,馬頭観音はヒンドゥー最高神ビシュヌが馬の頭に変化し,敵を倒した神話を起源とするそうだ.一般的に観音様は女性的なやさしい表情であることが多いが,馬頭観音は憤怒の形相で,馬頭明王と呼ばれることもあるそうだ.そして畜生道に迷う人々を救済し,家畜の安全と健康を祈り,旅の道中を守る観音様として信仰を集めているそうだ.
私も旅の道中にあるので,安全を願い,お参りした.
本堂手前右側に大師堂があった.小型入母屋造りで,一般的な構造であろう.
ここでまた明かりを灯し,般若心経を読む.
そして塀で囲われた立派な本坊一画の納経所に行き,ご朱印をいただいた.
第70番本山寺参拝を終えると伊予街道(国道11号線)に出た.次の第71番弥谷寺までの長い区間は伊予街道もしくはその横の旧道をどんどん北上することになる.
伊予街道を暫く行くと左側の旧道に逸れた.この辺りでは池が多い.そして一つの池では養殖鯉の捕獲作業中であった.大きな網を手繰り寄せると鯉が大量に跳ねている.それを大きなプラスチックメッシュ箱にいれ,橋の上のクレーン車で吊り上げ,車(の多分生け簀)に積み込んでいる.
鯉の養殖と言えば佐久など専ら信州かと思い込んでいたが,四国でも行われていてちょっと驚いた.
ここも伊予街道脇の旧道だ.殆ど時代劇の通りを歩いているような雰囲気だ.実際時代劇映画撮影に使えるのでは?
遍路道はまた伊予街道(国道11号線)になった.そして遍路小屋に出合った.小屋は歩道脇の細長い敷地に合わせた楕円形で,葉っぱ形のルーフや窓を持ち,筋交いを活かした軸組み構造だ.
本休憩所は地元の皆さんが交代でメンテしているそうで,その日程表が掲げてあった.そしてお接待のみかんが置いてあり,ありがたく頂戴しました.
また遍路道は旧道に入ってきた.時代劇とまでは言えないが,昭和初期頃の雰囲気は感じられるような気がする.車が少ないし,解りやすいので,少なくとも遍路にはいい道だ.
旧道の遍路道を行くと,道の左側に四国第七十一番弥谷寺,右側に弘法大師.....読めない(涙),と記された一対の石柱が立っている.ここから第71番弥谷寺の参道が始まるということかな.....相当長いが.
さて遍路道はやがて第71番弥谷寺への上り道(表参道)に入ってきた.脇の道標には本堂まで合わせて530段の階段と記されている.上りがいがありそうだ.
そしてこの写真の俳句茶屋が現れた.少なくとも俳句を嗜む人にはピッタリであろう.ジャズ専門とか,クラシック専門喫茶店とかはよく在る(いや過去には在った,か?)が,俳句に特化した専門茶屋はザラに在るものじゃないし,私は初めて出合った.
俳句茶屋過ぎ,最初の階段上に第71番弥谷寺仁王門があった.切り出したままの形の額には剣五山の山号が刻まれ,左柱に真言宗大本山弥谷寺,右柱に弘法大師八(かな?)修行道場と記されている.
格子やネットは無く,両側の仁王さまは良く見渡せる.部分的に赤い部分が見えるので,初めは全身赤い塗料(漆か?)で塗られていたのであろう.なお背面には仁王さま全高よりもっと巨大なわらじが立掛けてあった.
ここで一礼し,くぐり抜け,また階段上りになる.
階段や斜面を上り行くと,赤い手摺の108ステップ階段になる.脇の解説札によれば
とのことだ.
上った先には大師堂があるのだが,ここは参拝の標準手順に従い,戻るときに寄ることとし,先ずは本堂に向かう次の階段に行くことにする.
本堂に行く途中にはこのような鎮守堂も築かれていた.鎮守さまが祀られているのか,それとも経典とか納めてあるのでしょうか.
弥谷寺は山の斜面に在るので,階段や各種お堂,仏像が皆斜面に貼り付くように設けられている.何れも難工事であったであろう.
本堂の手前,踊り場になっている場所に岩の窪みがあり,小さなお堂や地蔵菩薩が祀られている.
さて合わせて530段の階段を上ったのであろう弥谷寺本堂に到着した.階段から直ぐに建ち,少し降りないとスマホの画角に収まらない.
本寺は行基菩薩が千手観世音菩薩をご本尊として,天平年間(729〜749)に創建したそうである.
先ずはここで一回目の経を読み,そしてまた階段を下りにかかった.
弥谷寺本堂は高い位置にあるので,寺内お堂の先に平地や山々の眺望が利く.
本弥谷寺のあるここは弥谷山と呼ばれ,古来より霊山として信仰されてきたと言われ,こうした眺望もそのような評価の一助になっていたのかな~と思われた.なお日本三大霊場は,恐山,臼杵磨崖仏,そしてここ弥谷山のことを指すそうだ.
階段を下り,赤い手摺の階段と交わる踊り場に大師堂が建てられていた.入り口はお堂の右横に設けられ,靴を脱いでその階段を上ったところに礼拝所が設けられていた.そしてそこで般若心経を読む.
ちょっと写真では写っていなかったが,この入口階段の右側には,背面岩壁に岩窟があり,獅子の岩屋と称されるそうだ.弘法大師が7歳の頃,この岩窟で学問に励んだとされているそうな.7歳とは.....既にその歳で只者ではなかったのだ.
第71番弥谷寺参拝後,元の道を下り,山門を出て,第72番曼荼羅寺への遍路道に入った.途中のガイダンスを見ると,第71番弥谷寺と第72番曼荼羅寺を結ぶ遍路道は曼荼羅寺道と呼ばれ,地蔵菩薩などの石像,庵,お堂など数多くあったそうだ.そして今もそれらのうちのいくつかは残されているということだ.
曼荼羅寺道暫く林や竹やぶを通り,とてもいい感じの山道だ.林を抜けると野の道,そして車道へと入っていく.
曼荼羅寺道は一時だが伊予街道を通過する場所があった.そしてそこにうどん屋さんがあり,頃合いがよかったので入る.壁のメニューを眺めていると,ご主人が,今日の定食は天ぷらです,というので,それをお願いします,と言う.
当然天ぷらうどんが出てくるものと思っていたが,これだった.つまり,定食というのは,ごはんとうどん一緒になっているのだ.2つの主食,ラーメンライスと同じカテゴリーで,さらに天ぷらやおひたし,酢の物が加わったものだ.しかも激安で,お接待か?
美味しく頂いたが,さすが量的に多く,残してしまった.すみません.
曼荼羅寺道は短い伊予街道区間を過ぎ,池の縁に入った.やはりこの方が落ち着くな~
池縁を過ぎて暫し行くと第72番曼荼羅寺仁王門前になった.門には我拝師山との山号が架かり,両側に仁王像が祀られている.
また門の内側から覗くと,真正面先方に大きな屋根の本堂が見えていた.
本寺は大日如来を本尊として祀り,弘法大師の創建によるそうだ.ということでこの日最後に訪れる総本山真言宗善通寺と同じ宗派になるそうだ.
そしてここで一礼し,真っ直ぐ進み,本堂前に来ると,明かりを灯し,お賽銭を入れ,参拝する.
本堂参拝後境内を歩き,見渡す.広く明るい境内だ.
庭には,歌僧にして武人の西行法師(平安末期~鎌倉初期)がこの寺に通っては昼寝をした石があるようだが,見逃したようだった.
境内中ほど左手に,方形屋根の大師堂が建てられていた.見たところ新しいので近年の建築ではなかろうか.
上に本寺は弘法大師の創建と書いたが,実は縁起によると,それ以前四国霊場で最も古い推古四年(596年)讃岐の領主の手で創建されたのが始まりだそうだ.弘法大師がここを訪れたのは唐から戻った翌年で,大分後世のことのようだ.そして大師は本尊に大日如来を祀り,唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し,寺名を曼荼羅寺に改めた,ということのようだ.
ということで,ここでまた経を唱え,納経所に向かう.
第72番曼荼羅寺の次は第73番出釈迦寺だ.第73番出釈迦寺は近いが,少し丘の上に建つので緩やかな坂を上る.
そのうちやや傾斜ある第73番出釈迦寺参道に入っていった.参道左側には寄進された弘法大師像,そして右側には各種地蔵菩薩像が並んでいる.これらの像は皆一様に新しく,近年設置されたものと思われる.
さて第73番出釈迦寺山門になった.切妻屋根のシンプルな構造で,我拝師山の山号が掲げられている.
我拝師山は実際にここ善通寺市(出釈迦寺はこの市に属する)にある標高481mの山だそうなので,先方の山がその一部なのであろう.
きれいな石畳を伝わり,出釈迦寺本堂に来た.
この本堂には弘法大師作の本尊釈迦如来,それに脇仏の不動明王,虚空蔵菩薩が安置されているそうだ.ということで弘法大師の開基による寺だが,宗派は真言宗善通派ではなく,真言宗御室派に属するという.
本堂に並び大師堂が建てられている.本堂に続き,ここでまた経を唱える.
さて弘法大師とこの寺の関わりであるが,真魚と呼ばれていた7歳の折り,我拝師山に登り,私は将来仏門に入り,多くの人を救いたい,と述べたそうだ.ここでそんな,まさか....と言っては先に進めない.
さらに,私の願いが叶うなら釈迦如来よ,姿を現したまえ,もし叶わぬならこの身を諸仏に捧げる,と断崖絶壁から身を投じた.すると釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り,大師を抱きとめ命を救った......とか....
いくらでもない高さの出釈迦寺だが,善通寺市街地が一望できる.天気が良く空気が澄んでいるためであろう.
第73番出釈迦寺から下り,善通寺市の住宅街を曲がりくねりながら進んだ.そして,右に四国霊場第74番,左に医王山 多宝院 甲山寺の石柱が立つ第74番甲山寺にやって来た.
ここが正式な入り口かと思って境内に入ったのだが,後で普通の山門が反対側にあることを知る.
質実剛健な入母屋造りの本堂に回った.手前右手に弘法大師のブロンズ像が配置され,庭木も適度に植えられている.
ここも弘法大師の開基で,本尊は薬師如来,宗派はすぐ隣が総本山の真言宗善通寺派に属するそうだ.
大師堂は写真のように,本堂左隣に建てられており,一般的な方形造りで,こちらも質実剛健な印象だ.
弘法大師は次の善通寺の場所で生まれ,一つ前の出釈迦寺を齢7つにして建てる礎を作った.つまりここ甲山寺を含め,出釈迦寺~善通寺周辺は子供時分から親しい行動の場だったわけで,ここ甲山寺辺りにも一寺創建したいとの考えを持つに至り,実行したということだ.
ここでも本堂,大師堂の順に参拝し,納経所でご朱印と墨書きを頂いた.
こちらが正規の第74番甲山寺山門.出るときは,ここで振り返り一礼して遍路道に戻った.
この門は瓦や柱を見ると,比較的新しい建築に見えた.
甲山寺を出ると少し川縁を歩き,第75番善通寺に向かった.
甲山寺を出て間もないところには,コンクリート製造であろうか,何らかの工場があった.
第75番善通寺はあまり先ではなく,短い時間で着く筈だ,多分.
甲山寺から暫く歩き,善通寺の前,駐車場になった.広い境内には済生橋と称される太鼓橋で結ばれている.こちらは広い境内の西の端になるようだ.
済生橋を渡り,境内に入る.フラットな土地にいろいろなお堂,例えばパゴダ供養塔や,宝物館,光明殿....等々が建ち,樹木が茂っている.
そしてその広さに驚き,先ずは,本堂(金堂)のある東端まで歩いてみよう.
東の端に行くと先ず右側(南側)に五重塔が目に入る.
本五重塔は4代目の再建で,明治17年(1884年)竣工,かなり新しいが,香川県に現存する五重塔の中では最古だそうだ.三間(四本の柱に囲まれた意らしい)四方基壇,高さ46mの総けやき造り塔で,五層に大日如来を安置してあるそうだ.
なお写真右側の門は南大門である.
脇に立ち眺めると壮大な建物だ.元禄12年(1699年)の再建で,入母屋造り,二重屋根のように見えて,実はもこし(庇状構造物)付きで,禅宗様仏殿の形式に相当するそうである.
さて本寺は807年弘法大師が薬師如来を本尊として創建したときまで遡るそうだ.宗派は真言宗善通寺派と,寺名を冠しているように,同派の総本山という.道理で大規模なわけだ.
写真に写ってないがこの右手(西側)には赤門と言われる門が付いている.
ということで先ずはここで読経する.
金堂から南に戻ったところに中門が立つ.木造楼門形式のどっしりした眺めだ.この門の両側には五百羅漢像が並び,広場は市民の憩いの場になっているようだ.
中門を過ぎたところに細長い池があり,石橋が渡されている.
遍照金剛閣の額が架かり,両側に仁王像(金剛力士像)を据えた仁王門は境内敷地の中ほどに建てられている.入り口でないところが面白い.
仁王像は解体修理された際,像内銘文から南北朝時代,1370年の作と確認されているそうだ.
またこの門の後ろに見えている屋根付き廻廊は御影堂(大師堂)まで続いている.
御影堂と称される大師堂はとても大きな建物.これまで訪れた各寺の大師堂と違って,本善通寺御影堂は大師(空海)の出生地,誕生した聖地であるということだ.
さて御影堂と名付けられた理由であるが,飛行機もエンジン付き船舶もない804年,遣唐使として,唐に渡ることを両親に告げたとき,非常に危険な旅であることから大層悲しまれた.そこで空海はある日の夕刻,池のほとりの松の木に登り,夕陽を受けた顔を池に映し,自画像を描き形見とした,ということだ.なお再建であろうがその池は御影堂の少し手前横に御影池として水を湛えていた.
なお今夜宿泊の宿坊(いろは会館)は御影堂とつながっており,明日朝のお勤めは本堂ではなく,ここ御影堂で行われるそうだ.
善通寺御影堂参拝を済まし,その横に位置する善通寺宿坊,いろは会館にチェックインした.とても大きな建物で,70室も備えているそうだ.
受付では,温泉だという大浴場やランドリー,食堂の場所や時間など聞き,部屋番号と場所を確かめる.キーはあったか,いや無かったか....思い出せない.なお部屋に金庫は置かれてた.
部屋に行くとそこは,少し古めながら広い,確か床の間付き10畳の和室だった.特にシングルの部屋は設けず,全てツインの部屋で構成しているのであろうか.部屋の造りやテレビなど調度品は特段宿坊的ではなく,普通の旅館とかと変わりない.
夕食時間になり,ダイニングルームに行く.テーブルには予め座るべきテーブルに名札が置いてありそこに座る.全体を見渡すと団体客の皆さんが多くを占めているようだ.
私の斜向かいは高知在住,今回が8回目という女性車遍路の方だった.高知という地元で,車なので思い立ったとき直ぐに出掛けることができるそうだ.
同じ並びで一つ向こう隣は,新潟からで,歩いたりバスや列車に乗ったりしながら巡っているという.まあ,いろいろな巡り方があるのですね.
出してもらった夕食は精進料理ではなく,正直言ってほっとする.ハムなどの動物系食材が用いられているのだ.ビールももちろんOKだが,これは精進料理の宿坊でも同じことで,初めから安心して臨める.
さて明日は勤行から始まるが,御影堂(大師堂)で行われるそうで,果たしてどのようなものか期待したい.