この遍路8日目編では,2018年3月8日朝いやしの宿「八丁坂」を発ち,国道33号線遍路道へ出てこれを北進,三坂峠を越えて,第46番 浄瑠璃寺,第47番 八坂寺を順次めぐり,遍路開祖文殊院を訪ね,第48番 西林寺,第49番 浄土寺を参拝し,たかのこのホテルに着いたときの写真を載せました.
いやしの宿「八丁坂」で3月8日朝が明けた.ダイニングルームに集まり,朝食を頂く.カレイのような平たい生干し魚を焼いて食べたが美味しかった.
この日はKさん,Sさん,Hさん皆違うコースを行く予定で,食後それぞれ思い思いの時間に出発した.どうもお世話になりました.
いやしの宿を出るときは大した降りではないな~と,カッパなしで出発した.そして県道12号線を西に進み,下畑野川(多分)に架かる橋を渡った.ところが雨は強くなり,こりゃカッパを着なくてはと思い,近くの倉庫の軒下を借りて身につけた.
カッパは前回ザックの重みで肩に堪えたので,上下ともモンベルで最軽量タイプを新調してあった,同じく新たに用意したペラペラザックなどとともに,軽量化の効果は大きく,いまのところ肩は悪くなっていない(ただし少しだが前回からの右肩傷みは継続中)
県道12号線遍路道は久万高原町の一つの高台に至った.ここからは谷に展開される畑やビニールハウス,農家の様子が望める.また谷を取り囲む林また林の風景にも改めて驚かされる.
12号線遍路道は峠御堂(とうのみどう)トンネルに入っていった.長さが623mで,1974年竣工という.お遍路さんには長いが歩道のないトンネルとして知られているようだ.
前日Kさんには『このトンネルを出た直後に左手の山道に入るのですよ』と聞いていたので,出て10mくらいのところ辺りから左を見ながら歩いた.しかし道標が見つからない.も一度トンネル出口に戻ると,そこに遍路道の道標が見えた.ほんとに出口直後だったのだ.
県道12号線そのままでももちろん行けるのだが,この山道が近道なのだ.それとやはり遍路道らしい雰囲気が勝っている.
山道は元の県道12号線遍路道に合流し,そのまま西に進んだ.
暫くして国道33号線遍路道に出た.そこはまだ久万高原町の範囲である.そしてここからは北に進み,先ずは三坂峠を目指す.
国道33号線遍路道は少し高度を上げてきた.雨に風も加わってきた.そして前にお遍路さんの歩く姿が見え,程なく追い付いた.以前お会いした滋賀のGさんだった.
Gさんとはこの先の予定など話しながら暫く歩いた.Gさんは今回が5回目というベテランでいろいろ知っておられる.その一つに大分先の話だが,第67番大興寺近くでは旅館晩翠がなかなかいいですよ,と教えてもらい,後日ここに泊まることにした.
遍路道はやがて右手の御坂峠に向かう道に分岐した.少し山道である.
途中逆打ちの男性お遍路さんと行き交い,『雨で滑りやすいところがありますので気を付けて』とアドバイスされる.
暫く歩き三坂峠の上に出た.標高710mくらいのようだが,国道33号線で既に高度を上げていたので,山道は然程歩いたわけではない.下りは長いかも知れない.
峠の頂部からは写真のように松山方面が一望できた.ただ天気が天気だけに些か冴えない眺めに留まる.
三坂峠から下りにかかった.傍らには鍋割坂の石柱が立てられている.鍋割坂は三坂峠道の別称で,何でも野宿お遍路さんがこの急坂で足を滑らせ,背負っていた自炊用鍋を割ってしまった,という故事に因むそうだ.今も野宿遍路は大変だと思うが,コンビニとか一切なかった当時は更に困難だったことでしょう.なおチベット辺りでは炊事用具,食料,寝具など背負っている巡礼者は現代もしばしば見かける.
なお,割れたのはお遍路さんの鍋ではなく,行商の人が担いでいた商品の鍋だったとする説もあるそうだ.
また別の案内板によれば,この道は久万街道と呼ばれ,明治25年旧国道(33号)が開通するまで,松山と高知を結ぶ重要な街道で,重要な生活道であったそうだ.もちろん今と同様遍路道としても活用されていたという.
三坂峠をどんどん下ると,途中東屋の休憩所を過ぎ,舗装道に出た.周囲の畑は緩やかな段々畑状であるが,相当高度を下げたようだ.また,この辺りから高松市に入ったようだ.
そしてこの辺りで靴のソール剥がれが起こり,とりあえず鍋割坂を越えてからで良かったかな.....と 思いはしたが,この先はてどうしようか.....対策に悩まされるのはこの先帰宅するまで続くのだった.
現物を見たわけではないが,ここには網目状の筋が入り,鯨の頭に似た大きな石が横たわっているようだ.弘法大師が大きな石を網に入れて担い棒で運んできたが,ここまで来たところで担い棒がポキっと折れて,石がここに落ちてしまったそうである.お大師さまはなぜそんな大きな石を運んでいたのでしょうか?
お堂の前には浄瑠璃寺まで3.0kmとの石柱が立てられている.粁の文字は多分国字であろうが,視覚的にm(米)の千倍と映り解りやすい.
三坂峠から下ってからしばらく農道の遍路道を来たが,そのうち県道207号線になり,これを進む.ここは伊予鉄バスが通っているようだ.
そのうち第46番浄瑠璃寺へと連なる遍路道標識が現れ,県道207号は左に逸れ,農道に入っていった.農道と称してもきれいに舗装された立派な通りで,もちろん遍路道としては大きな県道,国道より遥かにいいのは言うまでもない.
県道207号を離れ暫く行くと,桜咲く第46番浄瑠璃寺入り口になった.
入り口は道路から始まる短い石段で境内に至り,仁王門などはなく簡素な造りだ.
石段を上ると左に納経所,その先に手水舎があり,正面に本堂が建てられている.建物はかなりコンパクトだ.
歴史を紐解くと,708年ここを布教に訪れた行基は薬師如来像を刻んで,これを安置し浄瑠璃寺として開基した,ということだ.
本堂の右手にこれまた非常にコンパクトな大師堂が佇んでいた.本堂に引き続きここで灯明と線香を灯し,お賽銭を入れ,般若心経を読む.ただ未だ間違うことなく通して読めることなく情けない.
さて,述べたように本堂も大師堂もコンパクトだが,境内敷地が狭いのだ.88寺はこうした小さいお寺さんから,後訪れる善通寺のように巨大なタイプまでいろいろあるのが興味深い.
第46番浄瑠璃寺参拝を終え,第47番八坂寺に向かった.寺近くになると道端に弘法大師像と八坂寺と刻まれた石塔が立てられていた.ここから参道なのでしょう.さらに赤い南無大師遍照金剛ののぼり旗が列を成し,風にはためいていた.南無大師遍照金剛は着ている白衣の背にも記されている弘法大師のご宝号であるが,このようにのぼり旗として立てれば,チベット仏教のタルチョーやルンタ,ダルシン同様,風ではためく度に一度唱えたことになるのでしょう.
参道を通り,第47番八坂寺山門に着いた.山門は屋根が4本柱に載り,通りの両側に赤い欄干が付き,ちょっと変わった形式だ.仁王さまは居らず,天井にお釈迦様,天女,お坊さんの絵が描かれているが面白い.これもチベット仏教でよく見かけるカンニ(仏塔門)の形式と一部似た面があるように思う.
山門で一礼し,潜ると直ぐに手水舎があり,石段があり,上ると左手に鐘楼が,正面に八坂寺本堂,その左(写真で奥側)に大師堂が配されている.
八坂寺は701年,名のように8つの坂を切り拓いて開基されたという古刹で,阿弥陀如来が本尊として祀られているそうだ.
本堂と大師堂の間にあるお堂の一つがこの地獄の道.内部に餓鬼道,畜生道,修羅道,つまり六道図の中で下に描かれる3つの図があるらしい.でも怖いので覗けなかった.
他にも閻魔堂などあったようだが,そちらも怖そうなので止しておこう.
さて八坂寺参拝を終えるとまた遍路道を北に辿った.そして暫く行くと,例の強欲な豪族河野衛門三郎,雪模様の寒い日,門前に現れた乞食のようにみすぼらしい旅僧,実は弘法大師に一椀の食物を乞われるも幾度も拒絶し,最後は鉄鉢を掴み大地に叩きつけ,その結果全ての子どもを失い,そして後に遍路開祖となった人物に因むお寺,文殊院に着いた.
弘法大師はその後亡くなった衛門三郎の子供の供養のため,ここに延命子育地蔵尊を祀り開祖したそうだ.当初徳盛寺と呼ばれていたが,大師自身が文殊菩薩に導かれここに逗留したことから,文殊院と改称されたそうだ.
文殊院前庭には大師像が立ち,背後に衛門三郎とその妻の像が立てられていた.衛門三郎の像は他でも見たが,奥さんの像は初めてだ.夫同様弘法大師に無礼な態度で臨んだのか,或いは一緒に遍路に出て,その開祖とされるのか....
文殊院参拝が終わると次の第48番 西林寺に向け再び北に歩いた.
この辺りは高松市郊外,もしくはその近くで比較的古い町並みが残る落ち着いた住宅街だ.
文殊院からはほぼ真北に位置する第48番西林寺仁王門に至った.この日前の2つの寺と違って,二層式の大きな門だ.雨脚が強くなり,雨宿りを兼ね軒下に入り,一礼する.
本西林寺は741年行基菩薩の開基で,十一面観世音菩薩をご本尊とし,真言宗豊山派に属すそうだ.開基年は異なる(こちらが40年遅い)が前日訪れた第44番大寶寺大師堂と,行基菩薩の開基,十一面観世音菩薩がご本尊,真言宗豊山派という点では一致している.
行基は実に長い期間に渡り布教活動に努め,そして菩薩となったのであろう.
仁王門先も平らな境内で,右に手水場,左に鐘楼を越えて行くと正面に本堂,その右に大師堂が配されている.両者似たデザインで,後者が二回りほど小さい.また両者とも比較的新しく,同時に建設されたのであろうか.
なお741年行基の開基から66年隔てた807年,弘法大師が四国巡礼し,この寺に逗留した際,この地方は酷い干ばつに苦しみ,大師が錫杖を突き,近くで清水の水脈を見つけ,救ったそうだ.そして清滝山の山号になったようだ.
ということで,両者に順次参拝し,納経所に廻り,本西林寺を後にした.
次の第49番浄土寺もまた第48番西林寺のほぼ真北である.実はこの日の第46番から第49番の4つのお寺さんはほぼ南北一直線上に並んでいるのだ.道は必ずしも一本ではなく,何本も入り組んで行くのだが.
ということで第48番西林寺から北に行くと,久米小学校があり,道路に面して埴輪園があった.往時のものと比べデザインにモダンな要素を織り込んだなかなか立派な作品だ.楽しい.
久米小学校から少し行くと踏切に出合った.単線で伊予鉄横河原線のようだ.ここから先を眺めると,こんもりした森を背後にした大きな瓦屋根が見える.第49番浄土寺のようである.
踏切を越えて第49番浄土寺の仁王門に着いた.門は階段の上にあり,一層式で,両側に仁王像が納められている.
そして山号である『西林山』の額が掲げられている.この名は上述の第48番西林寺の寺名と同じであるがどうしてでしょうか.
仁王門から手水場,鐘楼を過ぎると,本堂があり,その右に大師像と二回りほど小さな大師堂が配置されている.本堂も大師堂もシンプルなデザインで,美しい.
また本堂,大師堂の背後は緑豊かな山で,グーグルマップを見ると浄土寺公園の名が付されている.
ここで型どおり,本堂,大師堂の順でお参りすると,大師堂手前の納経所に回り,朱印を頂いた.
第49番浄土寺参拝を終え,今夜の宿たかのこのホテルに向かった.同ホテルは歩いてきたところを戻る方向にあり,第49番浄土寺から近い(それが予約した理由)
踏切になると丁度オレンジ色の電車が通過していった.いかにも伊予の特産品柑橘類の色で解りやすい.伊予鉄横河原線は松山市駅から東温市の横河原駅までの13.2kmを結ぶ短い路線のようだ.ただ15駅もあるというからかなり細かい間隔で乗り降り可能なようである.
そして程なくたかのこのホテルに着き,チェックインした.部屋のキーとともに,隣接大浴場の無制限入浴券も渡された.結局使うことがなかったが.
部屋はテーブルと椅子なので楽で,普通にバスルームを備えていた.
さて問題はソール剥がれ靴対策だ.受付担当者に比較的近くのスポーツ店を訊いてみる.するとちょっと距離があるが,マップをもらうことができ,そこに歩いた.
お店に到着し探したが,トレッキングブーツのようなハイカットの靴は扱ってないということでがっかり.普通遍路では重いトレッキングブーツはまずく,軽量のウオーキングシューズがいいと一般には推奨されている.ただ私は捻挫に弱いので,多少重くともハイカットの靴が安心して歩ける.
ソールを縛り付けるミニロープも置いてないということで,とりあえずテーピング用テープを買い求め,それを靴に巻き付けた.
その経過を見ると,晴れた日であれば一日くらい,或いは半日で巻き直し何とか持つが,雨だと接着力が損なわれ直ぐに剥がれてしまった.後日テープを針金に替えて,さらに太い針金に変更し何とか凌いだ.
また翌日,ソールが完全に剥がれた場合に備え,軽いスニーカーを買い求め,ザックの中に放り込んでおいた.これで全く歩けなくなる事態は何とか避けられよう.