この遍路10日目編では,2018年3月10日シーパMAKOTOを発ち,浅海高台を通過し,菊間を過ぎて,第54番 延命寺,次いで第55番 南光坊に至り参拝し,別宮大山祗神社に立ち寄り,今治アーバンホテルに着いたときの写真を載せました.
3月10日,シーパMAKOTOで朝を迎え,一階のダイニングルームに降りる.窓からは陽に輝く瀬戸の海が見える.
朝食は朝からサバで大変結構だ.普段トーストにヨーグルトなど簡素な朝食だが,本来魚は特に好きなのだ.
朝食後シーパMAKOTOをチェックアウトし,北条の街を北に進んだ.朝早いこともあって,街は静かだ.寂れた面もあろう.
北条の街外れに来ると,サンシャインパーク北条のソーラーファームがあった.相当数のソーラーパネルが敷き詰められている.こうして眺めると仰角は意外と小さいような気がするが,パネルの配置ピッチが小さく出来,パネル総面積が稼げるなど,多分これが固定式で年間通じた最適角度なのであろう.
住宅街の後は,農村地帯に入り,畑が多くなってきた.そして次は先方にカルスト地形的に見える山を目指す.
遍路道は車道脇からやがて小路に入っていくが,舗装されたいい道である.
坂を少し上ると鎌大師に至った.脇の説明書きによれば,弘法大師がこの地を行脚していた頃,悪疫が流行っていた.それを哀れんで大師が自らの像を鎌で刻んで与えたところ無事平癒したそうだ.そして村人はそれを鎌大師本尊として祀り,この寺を建てたということだ.
数々ある大師のスーパーマン的逸話の一つでしょうか.
鎌大師の先は少しづつ上りになる.複雑なルートではないが,要所々々に張られた道標シールを確かめながら進んだ.
丘の途中には竹や木が茂り,その林を快適に歩ける.快晴の下,木漏れ日が何とも爽やかだ.
坂を上りきり上に出ると,瀬戸内海を見下ろす場所に浅海地区の皆さんが設置したお遍路休憩小屋に出た.4本柱に支えられた屋根を持つ風通しのいい構造だ.脇にはトイレも設けられている.ありがたいことだ.
浅海地区小屋で少し腰を下ろした後,今度は瀬戸内海を眺めながら下った.瀬戸内海には随分と島が浮かんでいるのだな~と改めて思うほど数が多そうだ.それに結構大きそうであるから有人島が相当あるであろう.
坂を下り,六地蔵に出会った.傍らの説明書きによれば,六地蔵さまはお遍路さんや旅人の通交の無事を願って祀られたもので,年に一回,8月に地元の皆さんがお化粧を施す,と記されている.
また四国八十八箇所巡りのお遍路さんの目印としての五里塚としての機能もあり,所定間隔(五里=20kmか)毎に置かれたものの一つでもあるそうだ.但し今のお地蔵さんは近年作り変えられた新しいものだそうだ.
遍路道は間もなく住宅街に入り,海辺に向かって進む.左側白壁の塀は傷んできたがなかなか味のあるデザインだ.
やがて瀬戸内の海岸に出た.この辺りは比較的遠浅で,この日はさざ波程度,海はきれいだ.近くには防潮堤で囲われた小さな漁港も見えている.
遍路道が海岸沿いに出ると,以降幾度かJR予讃線と交差した.また同じように遍路道は新しい今治街道(国道196号線)に重なったり,あるいは旧街道になったりした.道路も鉄道も海岸近くの平坦部を好んで通過したいという表れだ.
ここはそんな新旧今治街道の分岐点の一つだ.右は新今治街道に継続して進み,左に行けば旧街道に逸れる.
そしてこの分岐点では,近くにお住まいという私より少し年配の女性が,旧街道を行けば車が少ないですよ,とのアドバイスと共に,2個のみかんを接待して下さった.ありがとうございます.
この日歩く区間に関しては,新今治街道はあまり離れておらず,静かな旧道を歩くようにしたが,時どき合流したり,或いは旧道が無い部分もあった.
海岸沿いを東に歩いていると,電柱に海抜3mの標識があり,その先に集落とそれに面する漁港があった.海抜3mというと,かなり低い土地のように響くが,高知県を含めこれまで歩いてきた中で,例えば1mといったところもあったし,それほど低いことはないと思う.ただ高波や津波の警戒は怠れないであろう.
僅かな区間であるが海岸沿い遍路道に緑地区間があった.大きな海の眺めもいいが,つかの間ではあるが静的な緑の空間もまたほっとできる.
写真は店頭に飾られた菊間鬼瓦の例.街道沿い,菊間エリアに来ると,瓦工場,瓦販売店,倉庫,瓦工事店,レンタル工房....といった瓦関連事業所が多く並んでいた.店先にいた方にお訊きしたら,近くで焼き瓦に好適な土を産出したのが瓦生産の元になり,750年の歴史があるそうだ.いや~すごい.ただ近年その原材料粘土の産出が少なくなり,他所から仕入れて加工する状況になり,コストが嵩み廃業する業者も多く出ているそうだ.
菊間の瓦産業が発展してきた要因は大きな需要もあったからではなかろうか.つまりこれまで歩いてきた遍路道沿いには殆どお寺か神社,あるいは武家屋敷を思わせるような立派な民家が数知れずあり,尽く焼き瓦の大屋根で鬼瓦や鯱,名称不明の飾り瓦,....塀の瓦,各種仏像など載せてある.関東の一般家屋でこうした立派な屋根はまず見ることはなく,四国特有の文化が需要を引き起こしていた,のではなかろうか....
今治市菊間地区の市街地に入ると厄除け大師の遍照院があった.入母屋造り屋根の正面アーチ頂きの大きな飾り瓦が目に入る.瓦ばかり見てきたのでつい瓦に目が行くようだ.
平安時代初期,弘法大師が四国巡錫中,当地で霊感を受け観音像を刻み寺を建立したのが起源で,さらに自らの像も刻んで厄除仏として安置したのが厄除け大師のいわれという.
遍照院先は旧街道を進んだ.寂れた様子は他の市街地と同じで,これまで歩いた四国の街で共通する雰囲気だ.歩く分には静かであるし,これでいい.
なおこの通りの少し先には菊間駅入り口路があった.
菊間市街地を抜け,また海岸通りを歩いていると大きなプラントがあった.壁に掛かるプレートには太陽石油四国事業所と載っていた.海に面しており原油の運び入れ,製品の積み出しが可能で,相当大きな工場なので,石油精製工場でしょうか?
太陽石油以降,ときに新今治街道,ときに旧今治街道をひたすら東に進んだ.可能なら写真のような旧街道もしくは街道を逸れた小路が望ましい.車が少なく安心して歩ける.
これは花ニラであろうか.道脇にはこうした春の花が咲き,特にこの日のように晴れた日はきれいに見える.
謎のナンバー今治版だ.これまでは各々自治体の絵柄と共にナンバーが記されていたが,ここではナンバーだけになった.どの道何の数値かわからないのだが,ちと寂しいような....
ちょっと遠いが大きな貨物船が浮かび,クレーンが立ち並ぶ辺りにやってきた.タオルと造船のまち今治,と自ら称しているが,その造船所がこの辺りにあるように見える.
それと,この白黒寸胴船舶は,タンカーではないし,コンテナのスペースも無さそうで....自動車運搬船かなにかでしょうか.
JR予讃線脇の遍路道を行くと,手造り感いっぱいの道標に出合った.ユニークな絵に,第54番延命寺まで4.56km,第53番円明寺まで29.8kmと,小数点以下2桁まで記されている.ありがとうございます.
ということは,あと一時間あまりで第54番延命寺に着くかな~途中道を間違いなければ.
上JR予讃線近くの道標からは暫く旧街道を進んだ.とてもいい道だ.
旧街道をしばし進むと,屋根に妙なものを載せた大きな家があった.傍らの説明書きによれば,天水瓶のある旧大庄屋井手家の住宅という.江戸時代初期,徳川方に味方した大庄屋井手家は,その功績で幕府より何でも望みを叶えてやるとのお達しで,『では,瓦屋根造り住宅で,上に天水瓶を置きたい』と願い,許されたのだそうだ.後に,ここは松山藩主参勤交代時の本陣(定宿)となり,さらに近年(当時の)大井町が譲り受け,メンテされ市役場や農協として使われてきたそうだ.
建物の大きさに較べて,水瓶はとても小さく,実用的消火具としては疑問で,多分先端技術導入,江戸幕府の与党,といった象徴的ディスプレイではなかったのか.
それと,当時から土地の有力者になれば,住まいは瓦屋根住宅に,と菊間瓦産業発展の素地があったのであろう,多分.
そのうち遍路道は並木の歩道になった.そしてさらに196号線を離れ,その北の道を東に進むようになった.
途中コンビニがあり,コーヒーを飲んだり,道脇に池を眺めたりしているうちに第54番延命寺に近づいたようだ.
ようやく第54番延命寺山門に至った.延命寺は山号にもなっている標高244mという近見山山麓に位置し,山門はシンプルな一層式である.元は今治城の城門の一つで,明治初期今治城取り壊しの際に寺が譲り受けたそうである.
山門をくぐり,手水場で手を清め延命寺本堂前に来る.八十八箇所霊場会の公式サイトによれば,延命寺は聖武天皇の勅願により,行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし,伽藍を建立し開創した,と載っている.
不動明王が大日如来の化身というのがヒンドゥー的でちょっと驚くが,元々仏教は最下位ランクの『天』の仏さまの大半はヒンドゥーの神で,ヒンドゥー側ではブッダはヒンドゥーの神の一人として扱っているので,まあそうなのであろう.
とにかくここで明かりを灯し,線香を上げ,お賽銭と納め札を入れ,般若心経を読む.
次いで本堂少し左手の大師堂に回り,同じ所作を繰り返す.既に何十回と同じことを繰り返しているのに,未だ慣れず,間違うのはどうかしていると思うが.
第54番延命寺の大師像は石像で,比較的若い年代,いや30代か,のお姿だ.それと笠は被って居らず,彫られたのは最近か,まだ白い.
第54番延命寺参拝を済ませ,第55番南光坊のある東に進んだ.遍路道は暫く畑の中を通る.
遍路道はやがて随分と大きな大谷墓苑に入っていった.今治市営なのであろうか,無数の墓石が整然と並んでいる.
それと,普通の直方体の墓石に混じり,写真のように角錐形というか,オベリスク形というか,先が細まり天辺が尖った長い墓石が所々に見える.石に刻まれた俗名または戒名を見てみると,どうやら戦死した人の墓が比較的多いように思えた.少なくとも戦死と関係ありそうだ.
遍路道が墓地を通過すると,今治の住宅街,そして市街地へと入ってきた.
写真の川は浅川で,暫くこの脇を通った.
遍路道はやがて第55番南光坊山門前になった.山門はとても大きな二層楼門形式だ.
また山門を通して見えるのが本堂で,随分大きな入母屋屋根の建物だ.
南光坊はこの後訪れる別宮大山祗(べっくおおやまづみ)神社の別当寺(神仏習合時代,神社を管理するために置かれた寺)として創設されたのが始まりだそうで,言わば付属機関のような寺だったようだ.
寺ではなく,坊の名であるのもそうした創設理由に因るものだそうだ.
第55番南光坊の山門には仁王像ではなく,東西南北方向に増長天など四体の『天』像が配されている.天は仏教では一番ランクの低い仏さまだが,東に持国天,南にこの写真の増長天,西に広目天,北に多聞天の四天王が据えられている.それぞれ甲冑を着け,邪鬼を踏み,武器を持ち,怖い顔でにらみを効かせ,高位の本尊(大通智勝如来)などを守っている.
ところで増長天の増長は,ちょっとネガティブに響いたが,そんなことはないようだ.
南光坊大師堂は山門をくぐり直ぐ右側に建つ.方形屋根の大きな建物だ.
本堂に引き続き,ここを参拝する.そして本堂脇の納経所に行き,御朱印を頂く.
上述のように別宮大山祗神社は南光坊の本家格で,敷地は隣り合わせだ.山門を出て,隣に移ると見事に桜が花開いていた.通り掛かった近所の人の話では,この桜は例年一番早く咲くので,毎年目安として楽しみにしているそうだ.
別宮大山祗神社には複数の建物があるが,この写真が前殿と本殿と思われる.どちらも切妻屋根のさっぱりしたデザインだ.
別宮の名のように,正確ではないが伊予国一宮の大山祇神社の分家のような存在に当たるようだ.では大山祗神社とは何か.今治市大三島町宮浦にある神社で,全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社であるそうだ.主祭神の大山祇神は『三島大明神』とも称され,三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布するということだ.先般9日目で通った三嶋神社は若干文字が異なる(島でなく嶋)が,多分同じことではなかろうか.なおその近くに文字も同じ三島神社もある.
別宮大山祗神社の境内には赤い鳥居の連なるお稲荷様も建っていた.稲荷神社は小規模なものも含めるとどこでも見ることができるので,きっと全国展開されているのではなかろうか.
この日のお参りは終わり,予約した今治アーバンホテルのあるJR今治駅方向に向かった.
この日は一日天気が良く,助かった.疲労も少ない気がする.
程なくJR今治駅の広場と通りを挟んだ先の今治アーバンホテルに到着し,チェックインした.名入りだが,名産今治タオルのお接待です,と言われ頂戴した.これが,次の日泊まった仙遊寺宿坊で『タオルは有料別料金』と言われ,早速役立つことになった.お接待はやはり喜んで受けるべきだ.
今治アーバンホテルの部屋は和室だった.予約時,和室が安い,或いは和室なら空いてます,と言われたのだと思う.角部屋で2方向窓,燦々と陽が降り注ぐ部屋だった.
この日はゆとりがあったのか,3日後の3/13,ホテルオレール西条,次の3/14,松屋旅館,さらに次の3/15,民宿岡田さんに電話を掛けまくった.そして幸運なことに全て予約できた.やはり早くお願いすることが肝要で,これで暫く安泰だ.