この遍路12日目編では,2018年3月12日仙遊寺宿坊で朝を迎え勤行に臨み,朝食後作礼山を下り,第59番 国分寺に至り参拝,国分寺からは長い距離南に歩き,第61番 香園寺で参拝,次いで霊場会62番札所を訪ね,第62番 宝寿寺で参拝,ビジネス旅館小松へと行ったときの写真を載せました.
3/12,仙遊寺宿坊で朝が明けた.この日はご住職多忙のため,普段6:00AM始まりのところ,5:30からということで,それに合わせ,回廊を渡り,本堂に行く.
本堂には本尊千手観音菩薩が祀られ,ご住職の読経から始まり,次いで法話があった.全部で1時間ほどだった.
法話の内容は,ご自身は哲学専攻で,卒業後農業に携わっていたこと,在家から修行し,ここの住職になったこと,奥様ががんで亡くなり,遺影(写真で左から1/3くらいに上部が見える)をここに置き,毎日供養のお祈りをしていること,現在ご自身も遍路継続中であること,小学2年のお孫さんに将棋で負けたこと,高野山の世界遺産登録に励み,それが達成された現在,四国遍路の登録活動を行っていること,昨夜犬がうるさかったが,多分猿かイノシシが現れていたのだろう....等々,多く話された.何れも含蓄深いお話だった.
本堂でのお勤めが終わると,宿坊のダイニングルームに行き,玄米がゆなどの朝食を頂戴した.お茶と,さらにインスタントコーヒーも頂いた.
食事が済むと,ボランティアとしてここで炊事など諸業務をされているというスタッフの皆さんにお礼を述べ,チェックアウトした.
今しがたお勤めをした本堂は,朝の順光を浴び,輝いていた.ご住職の法話で感慨深く,改めて眺め,そして一礼し,去ることになった.
本堂からは前日歩いた道をそのまま下る.概ね舗装され,手摺も設けられた歩きやすい参道だ.
仙遊寺山門を出ると,作礼山を次の国分寺に向けて下る遍路道/トレッキングコース道標があった.
この標識によれば作礼山の標高は300mではなく,270mと記されている.仙遊寺本堂の高さかもしれない.
何れにしても自然路であろうから楽しみだ.
大雨で路面が洗われ,一部流されたのであろう,ちょっとワイルドな感じの部分もあった.
この辺りはまた平地より少し高いので,先方も眺めることができて,いい景色だ.
そのうち池の脇になった.無風のためか水面は鏡面のように平らで,見事に対岸の林を映している.
池を過ぎると竹やぶもあった.筍はこれからのようで,生えている様子はなかった.
作礼山から下り,概ね平地であろうと思われる辺りになった.そしてその辺りには吉祥禅寺ととても解りやすい名のお寺があった.
境内を覗くと建物は皆新しいので,新しいお寺さんであろうか.
黄色ので菜の花とかからし菜でしょうか,たまたま土手に落ちた種が育ったような形で咲いている.ちょっと野生の花のように見える.
第59番国分寺に到着した.一般的な形態の山門ではなく,石灯ろうのような塔が参道両脇にあり,その先階段を上ると両側に石柱が立ちさらに階段を行くと鐘楼に続いて今度は写真のように4本の石柱があった.何れも門に相当しよう.
なおこの辺りで,皆別々に朝出かけて来たKさん,Hさんと一緒になった.まあ皆同じ方向に歩いているので時どき同じ場所になるのだ.ただこの日,この先のコースや宿泊地が異なるので,途中で別れることになる.
4本石柱門を進むと大きな入母屋造りの本堂が正面にあった.
先ずは本堂前に立ち,この日初めて風防を開けろうそくを灯し,線香を立て,お賽銭を入れ般若心経を読む.
第59番国分寺には横に春日神社が併設されていた.大きな鳥居の背後に本殿が配されている.
本殿少し手前,右手には火炎宝珠を頂きに載せた方形屋根の大師堂があった.本堂と同じように参拝し,納め札を箱に入れた.
前述のKさん,Hさんとおしゃべりしていると,新たに若い歩きお遍路が現れ,これに加わる.青年はザックの荷が多い.善根宿や通夜堂,或いは遍路小屋のような無料施設を主な宿泊所として巡るので,シェラフなどで嵩むそうだ.若いので大丈夫であろうが,どうぞお気を付けて.青年とは数日後また偶然再会する機会があった.
国分寺には握手修行大師の石像が立てられており,握手しながら一つだけお願いすると,それが叶うと,と脇に書かれている.ここはお願いしてみることにした.ただこのとき何をお願いしたか.....やはり思い出せないな~
国分寺からは大きな車道に沿う歩道の遍路道に出た.分離された歩道なので安心して歩ける.
遍路道はそのうち住宅街を通り,脇に用水路を従えた道になった.途中用水路には上下する堰があり,堰をこのように間近に見る機会はない.折角なので遍路の一環(?)として開閉メカニズムを見てみることにした.
堰の幅は川幅いっぱいあり,川の両端に設けたスリット状ガイドに沿い,上下させる.上げるほど通過流量が多くなる.堰板は上部両端近くでスクリュー棒(ボルト)に連結され,スクリュー上部で雌ねじ(ナット)でホールドされている.2つの雌ねじを同じように回転することで,堰板はよじれることなく平行に上下できる.
2つの雌ねじを等量回転するために,雌ねじはベベルギア芯に切られ,その直交方向からの小ベベルギアと噛み合っている.左右ある小ベベルギアはそれぞれ,軸で中央のベベルギアに繋がり,ハンドル操作で回転させられる.ここで軸が左右別々に2本になっており,それぞれ2つのベアリングで支えられているのが設計の要だ.1本にすると,軸のたわみが大きくなるし,ベアリングで3点支持は精度的に無理だ.遍路も一回で全部廻るか,二回に分けるか.....いや全然関係なかった.実に暇な遍路旅だな~
そのうち遍路道はJR予讃線と並んで歩くようになった.こうして通る電車をしげしげと眺めるのも悪くないな~
さて既に南行きが始まっているのだが,この日はかなり延々と南に進む.この辺りは道端の菜の花は春の趣を演出し,なかなかいい.
ちょっと先を行くのはKさん,Hさんだ.お二人はノーマルルートで第60番 横峰寺に向かうそうだ.(私は第60番 横峰寺は翌日にまわす予定)
この日の遍路道はJR予讃線近くを行く.必然的に線路を跨ぐ機会が多くなる.ちょうど電車が通過すればなおラッキーであるが,単線なので本数は少なめで,そう多くない.
歩いていると弘法大師に縁深い真言宗の道安寺があった.なお真言宗と言ってもいろいろ分派もあるし,愛媛県だけでも数十のお寺さんがあるようだ.
ところでこの辺りは既に西条市になるようだ.どの辺りから西条市だったのか?
またJR予讃線です.ここでは線路工事中だった.さて何と呼ぶ機械でしょうか,削岩機か?振動させながら道路を掘り起こすやつで,刃先を枕木下の道床に入れている.何のための工事なのか解らないながら,これも折角間近に見るチャンスなので,しげしげと見せてもらった.ご苦労さまです.
新川のプレートが掛かる橋を渡った.両側土手の菜の花が春らしい.
なお新川の手前にはもっと大きな川を渡ったのだが,名前は思い出せない.そしてその辺りでノーマルルートは右側にいくのでKさん,Hさんはそちらに行き,私は左に逸れ,この後西条市市街地に入っていく筈だ.
標準的な遍路道でないが,今治街道国道196号線を歩くことになった.そして少し行くと西条市街地に入っていった.
そしてまた長い橋の架かる大きな川を越えた.大きい川なのに名称が判らない.....
川の向こうには山が見えてきた.多分明日行く予定の第60番横峰寺はあの山の中腹辺りに在るのであろう.
今治街道脇のお店に懐かしのオート三輪車が駐車していた.色がシックだ.私が子供の頃よく見かけたタイプだと思う.オーナーはクラシックカー愛好家でしょうね.
ここから見えるように丸いステアリングではなく,バータイプ,そしてエンジンは多分空冷2ストロークサイクルタイプでしょう.
遍路道はやがて第61番香園寺への分岐点になった.右に行けば大した距離なく着きそうだ.
さて第61番香園寺に到着した.これまでの寺と違って,コンクリート造り,四角い建物,大聖堂に度肝を抜かれる.この近代建築は本堂と大師堂の機能を兼ね備えているという.
だが,その歴史はさらに驚くべきものだ.つまり本香園寺は当時の用明天皇の病気平癒を祈願し,聖徳太子(574〜622)の建立で,四国霊場屈指の古刹ということだ.それは確かに驚きますね.また,後の天平年間(729〜749)にはこちらも有名な行基菩薩が,また大同年間(806〜810)には弘法大師が訪れているという.
大聖堂の右側階段を上ると広い礼拝室に至る.礼拝室はたくさんの椅子が並び,中央に大日如来像と弘法大師像が安置されている.カトリック教会の様式などと少し似た要素があると思う.
靴を脱ぎスリッパに履き替え,礼拝室中央に来ると,金色の大日如来像が安置されていた.確か右側に弘法大師像もあった筈だ.広い礼拝室にはこのとき,3,4人しか訪れてなかった.
そしてこのご本尊前で般若心経を広げ読んだ.普通のお寺では2回同じことを繰り返すが,ここではお大師さまも一緒に祀られているので一回だけで済ませた.
参拝を終えると,境内に降り,左手の納経所で御朱印と墨書きを頂いた.そのとき『次には駐車場に建てられた四国八十八箇所霊場会の62番礼拝所をお参りしてください』とのアドバイスをもらう.霊場会と第62番宝寿寺とが仲が悪いことは報道されているので,はは~っ,その関係で第62番宝寿寺ではなく,霊場会の礼拝所を勧めているのだな~と思ったが,まあよく理解している訳ではないので,それに従う.
霊場会62番札所のある駐車場に進んだ.第61番香園寺の駐車場なのでいくらの距離もなく,のぼり旗のあるその場所に至った.
駐車場の一画に簡素な建築に,『四国八十八箇所霊場会62番礼拝所』の旨告げる案内板があった.ただし『宝寿寺』の名はどこにも記していない.
中に入ると,十一面観音像と弘法大師像が立ち,ろうそくを灯し,般若心経を唱える.ここでも並んで祀られているので一回唱えるだけで済ませてしまった.やはり不信心だ.
お参りが済むと,直ぐ脇の納経カウンターで御朱印と墨書きをもらう.私の納経帳には予め『第六十二番宝寿寺』と片隅に印刷されたページがあり,そこに押印し,書き入れてくれた.もちろん宝寿寺の印や墨書きはなく,代わりに62番礼拝所の印と墨書きだった.
そして納経帳を受け取り,立ち去るとき,『次は第62番宝寿寺に行かず,第63番吉祥寺に行けばいいですよ』とわざわざアドバイスしてくれた.62番宝寿寺は行かずにいい,とはやはり相当仲が悪そうだ,こりゃ.
霊場会62番礼拝所で忠告されたが,どうも腑に落ちない.ここはやはり第62番宝寿寺にも行ってみよう.いろいろ悪評があるようだが,伝統ある本当の宝寿寺なのだから.
第62番宝寿寺は第61番香園寺に至る前に歩いていた今治街道の方向に戻り,少し東に行ったところにあるので,そこを目指す.
本来の第62番宝寿寺に到着した.石の門柱の先に瓦屋根の本堂があった.
聖武天皇(在位724〜749)の勅命で道慈律師が創建したのが始まりで,後に弘法大師が十一面観世音菩薩像を彫り本尊としたということだ.
ともあれここで作法通り参拝する.
本堂横に銅板葺屋根の大師堂が建てられている.建物自体は結構新しく見える.
そしてここでも同じように経を読む.
そして納経所に行く.墨書き担当の女性は二人で,料金も他と同様である.納経帳の『第六十二番宝寿寺』と印刷されたページは既に,先程の霊場会62番札所で押されているので,『うちが正式の第62番宝寿寺ですから...』と言いながら,後ろの空白ページに押してくれた.やはり第62番宝寿寺も参拝できて良かったと思う.
第62番宝寿寺を出ると,宿泊予定のビジネス旅館小松の方向に向け,小松町エリアを歩いた.毎度思うことだが,この街も寂れた印象だ.つまりシャッターの降りたお店が目立ち,買い物客など歩いている人は疎らだ.人口が減っている現代の日本では仕方のないことなのかな~
程なくビジネス旅館小松旧館に到着した.そこには新館への案内図が掲げられ,そこに廻った.引っ込んだ新館は,建築から1年と日が浅く,新しい.出てくれた受付の若い女性も昨秋からの新入社員とのことだ.
広い入口ホールには新聞も置いてあり,久しぶりに広げてみる.森友文書の政治家名削除がトップ記事か....浮世はいろいろあるな....
新しい建築なので,和室であるが欄間など設けず,空調や遮音に配慮されている
それとwifiがあるのも結構だ.
ランドリーは屋内で4セット置かれていた.歩き遍路で満室になっても問題ないであろう.
他に洗面台やトイレも十分に並んでいる.お風呂は一つだったかな....
ただトイレは今どきシャワー式でなく,『旅館小松の不思議』と語られていると後で聞く.ほんと不思議だ.
夕食時間になり,ダイニングルームに行く.この日の宿泊は,自分を含め歩き遍路4人(f1,m3),ご夫婦の車遍路一組だった.
そして写真が有名な,ボリュームたっぷり小松のしゃぶしゃぶだ.甘エビや茶碗蒸しも付いている.なお女性は連泊の2番目と云うことですき焼きだった.何れにしても前夜の精進料理とは対極を成す料理だ.
食べながらいろいろ話す.体格の良い青年は,翌日未明から歩き始め,50km歩く予定だという.そして巨大なおにぎり2個を女将さんから受け取ると,明日早いのでと,足早に部屋に引き上げていった.
名古屋の女性は,宿が確保できないときに備え,寝袋を持ち歩いているそうだ.それだけで1.5kgくらいあるそうだが,いざという時のために省けないそうだ.確かに宿が取れない不安は歩き遍路に付きものですね.
青森の男性は昭島のKさんと同じ13回目で,先達の資格を得ているそうだ.資格は4回目の次から特定の寺に申請し,審査の後で得るという.納め札などいくつか変わるが,普通の杖は金属の多い錫杖となり,持たせてもらったら重かった.今回は逆打ちであるが,何度も廻っているうちに興味対象が増え,例えばスイーツとか,神社とか,半島とか....で,神社に関しては種々祝詞を覚えてしまって,神社があると唱えるそうだ.いや~すごいもんですね~
さて明日は飛ばした第60番横峰寺を往復する.旅館小松さんでこのマップ(もう一枚続きあり)を頂戴し,予め見ておく.
ノーマルルートと較べて,同じトレイルを往復するのが欠点だが,簡単で楽だと読んだので,この採石場ルートを選んだのだった.2,3箇所の分岐点で間違わなければ大丈夫であろう.
なお私は翌日ここに泊まらないが,荷物は玄関で預かってくれるというので,同じルートで往復するという青森の先達男性と同じように,一部荷物を置いて出ることにした.