この遍路21日目編では,天然温泉きららを出て,北東に進み,途中靴補修ワイヤを購入し,第84番屋島寺,第85番八栗寺に至り参拝,次いで志度湾沿いの遍路道を南に下り,第86番志度寺を参拝し,たいや旅館に来たときの写真を載せました.
宿泊棟から本館のレセプションにキーを返してチェックアウト.この日は温泉営業日で,朝大浴場に入っていいいですよ,と言われていたが朝風呂の習慣がないため遠慮する.
さて,昨夜夜なべで針金を巻いた靴のソールの調子はどうなるだろう?
昨夜同じようにきららで宿泊したAkさんも同じくらいに出発したようで,その辺で一緒になった.そして今後の宿情報について交換する.今夜はたいや旅館さんで,同じようだが,明日は私は民宿八十窪を確保しているが,Akさんは取れず,少し離れた宿を予約してあるという.ただその宿だと当日の遍路ルートと翌々日のルートが問題なので....と,なお思案中とのことだ.
大通りに出て暫く行くと,夜なべで巻いたワイヤが切れてしまった.軟鋼製ワイヤは細かったようで,地面と接する度に少しづつ摩滅し,切断にいたったようだ.かくなる上はもっと太いワイヤにして,磨り減るまでの時間を稼ぐしかなかろう.
google mapでダイソーを検索すると,比較的近くにあるようだ.で,そこまで行くが開店は10時で,まだ1時間余りある.写真はそのダイソー向かいの建物で,お遍路休憩所の看板が出ている,でもこちらも10時から, と書いてある(涙)
お遍路休憩所と同じビルの隣は,デイサービスサロンえみのわさんだった.休憩所と同じ経営者かも知れない.軒下にじっとしてると寒いので,お断りしてサロンえみのわさんの玄関口に入れてもらった.ありがとうございました.
そして,10時になりダイソーが開店し,太いワイヤと,刃付きペンチを買う.そして店先に座り,そのワイヤを巻き付けた.今度は一日は持つであろう.....多分.
靴修理を終えると,お店が面する大通り志度街道をそのまま東に進んだ.
もうAkさんは今日最初のお寺,第84番屋島寺に到着しているだろうな~
そして志度街道を暫く進むと,ほぼ直角に左に折れ,県道30号線北進に入った.
県道30号線を北に進むと,徐々に住宅が疎らになり,少し傾斜ある屋島国有林の脇になった.国有林の範囲はとても広く,目指す第84番屋島寺もこの内側にあるようだ.屋島は源平合戦の古戦場で知られ,それらの史蹟が残っているそうだ.寺は同じ名を冠しているが,地名が先であろうか.
ちょっと大げさだが,屋島登山道(遍路道)との道標が立てられている.ここから第84番屋島寺への上り道になるようだ.
上り始めると,幅広い舗装や階段がよく整備され,とてもいい道だ.そして途中には弘法大師縁の不喰梨(くわずのなし=大師が美味しそうな梨を見て,一つ所望したが,これは不喰の梨ですと断られ,そして以降ほんとに石のようになった)や,加持水(かじすい=登山途中喉が渇いた空海が,皆も渇くだろうと加持祈祷で清水を湧かせたという)場所などがあった.
南面山の額が架かり,仁王像の納められた山門に着いた.屋島は標高293mあるそうだが,ここはその中腹なのでそこまでは高くないであろう.
754年,唐の学僧鑑真和上が朝廷に招かれ奈良に向かう途中屋島北嶺に創建,後に空海がここ南嶺に移したと伝えられるそうだ.
雨でボヤ~っとしているが,入母屋造りの比較的よくある形式だ.
創建は上述の通りだが,時代が下り,815年,弘法大師が嵯峨天皇の勅願を受けて屋島寺を訪ね,北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し,十一面千手観音像を彫って本尊として安置したということだ.ということで真言宗御室派に属するそうだ.
階段の下では濡れるので,ここでは軒下の奥まで入って,経を読んだ.
本堂横に蓑山大明神(みのやまだいみょうじん)を祀る社,朱の鳥居,それにカップルの雌雄狸像が立てられている.雌狸は子どもを抱えていて優しげだ.彼らは屋島の太三郎狸(たさぶろうたぬき)とか,禿狸(はげたぬき)と呼ばれ,化ける能力は日本一と評されているのだそうだ.
本堂を少し降りた位置に大師堂があった.こちらも雨ではっきりしないな~
鑑真和上の創建にも驚くが,弘法大師が南嶺に移したというストーリーも興味深い,なぜだか知りたいところだ.
なお,上述の屋島国有林との関係であるが,当屋島寺とその周辺は屋島寺が所有権を有しているということだ.弘法大師が南嶺に移した段階で所有権移転登記を行ったのでしょう,と想像する.
屋島寺の参拝が終わり,納経所でご朱印と墨書き,それに御影札をもらった.筆を手にした担当の方は,次の第85番八栗寺へは普通東に行く山道を通るのだが,この日は雨で,粘土質の斜面は滑りやすく危ない.3,40分長くなるが元来た道を下った方がいいです,とのアドバイスをくれる.
ということで上ってきた道をそのまま下る.こちらは文句の付けようがないいい道だ.
第84番屋島寺から下り,小学校を通過すると池のところで,東に曲がった.そして暫く行き川を渡った.地図を見ると詰田川であろうか?この辺りは瀬戸内海に近い河口であるためか,結構川幅があり,水量も多いようだ.
小学校下辺りから既に住宅街であったが,依然遍路道は住宅街を通過している.古くからある住宅街のようで伝統建築が多いようだ.
また先方には雲に霞む山も覗いているので,住宅街はそろそろ終わりかも知れない.
と思いながら歩いていたが,少しオーバーランに気付いて戻るところがあった.また間違えたか....
住宅街を抜けると畑地帯になった.少し傾斜地なので幾らか段々畑が形成されている.先方の山は少し高い位置では雲で覆われ,見えない.さて第85番八栗寺も雲の中だろうか.
遍路道は上り道に入ってきた.第85番八栗寺は近そうだ.路面は格子状溝が彫られている.凍結時のスリップ事故低減のためであろうか.
直ぐかと思っていたがそれなりに歩いた.屋島の東,源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山があるのだが,本八栗山はその8合目,230m程度に位置するそうだ.
坂を上り切ると展望台があり,讃岐平野が望めた.晴れていればさらにクリアであると思う.
弘法大師は前の屋島寺に上る途中で加持水を加持祈祷で清水を湧かせたが,ここ五剣山に上ったときも,ここで清水で喉を潤したそうだ.そして里人は大師像をここに祀り,後に一般参拝者を迎えるお迎え大師と呼ぶようになった,と脇の解説石板に記してあった.
実は山門同心上手前に鳥居があったのだが,その背後に写真の山門が建てられていた.
入母屋造りで,両側には彩色された仁王像が納められている.山門手前からの参道両側は緑が茂り,素晴らしい.
さて当八栗寺であるが,弘法大師は以前ここ五剣山で修行したのであったが,唐へ留学する前に,再度山に登り,唐で仏教を学ぶ念願が叶うかどうかを試すために八個の焼き栗を植えたそうだ.無事帰国し,ここを訪れると,な,何と焼き栗が芽吹いていたそうだ.これで寺号が八栗寺になったという.
山門から真っ直ぐ続く石畳の突き当りに,銅板入母屋造りの本堂が建てられている.背面が鬱蒼と茂る山で何とも言えぬ美しさだ.
また左側の重厚な建物は聖天堂で,も一度後で触れる.
この地は長宗我部元親の兵火に遭ったり,また幾度か火災や大地震に被災しているが,弘法大師作の聖観自在菩薩は守られ,本尊として祀られているそうだ.宗派は真言宗大覚寺派という.
赤い二重の塔が目立つ.17mの高さがあり総檜造りで,ある記述によると鎌倉様式の多宝塔だが,この建築自体は最近,昭和59年(1984年)建立ということだ.
一層目が方形,上が円形,四角錐形(宝形造というそうだ)屋根というのは時どき見るデザインだが,多宝塔と呼ばれるのだそうだ.
多宝塔は,ここ八栗寺がそうであるように主に真言宗系の寺で見られるのだそうだ.な~るほど.
本堂右手,第2の鳥居の先を暫く歩いたところに,宝珠を載せた方形屋根の大師堂が建てられていた.手前庇が長く伸ばされ,ここで二回目の般若心経を読む.
第二の鳥居から覗くと聖天堂正面が見える.とても壮大で,また檜皮などであろうか,植物系の分厚い滑らかな曲面で成る屋根は実に見応えがある.
ここには密教でよく見られる歓喜天が祀られており,商売繁盛や学業成就,縁結びにご利益があるそうだ.第二鳥居からののぼり旗も専ら八栗聖天尊ですね.
八栗寺では先に行っていたAkさんに追い付いた.今夜は私も同じたいや旅館だが,明日の宿の件で難航しているそうだ.それに私も途中少し間違えたが,Akさんも一部遠回り,時間ロスがあったようだ.
ということで八栗寺から一緒に下山開始した.
八栗寺から下りると,遍路道は志度湾沿い,とは言っても離れているが,となる.志度湾と遍路道の間は住宅や畑が多い.そしてここを南に歩く.
そのうちに,遍路道はたいや旅館の在る,さぬき市志度の街に入った.古くからありそうな,なかなか趣ある通りだ.
さぬき市志度の街を進むと,『平賀源内先生旧邸』看板が立つ家があった.現在博物館になっているようだ.
平賀源内と聞くと,無意識のうちに江戸の蘭学者,エレキテル....と思っていたが,ここさぬき市志度で,高松藩足軽身分の家生まれで,長じて諸藩に仕えたり,また各地で学んだり....いろいろ活躍したようだ.
そのうち,今夜宿泊のたいや旅館前になり,Akさんはそのまま投宿,私は予め計画していたのだが,少しだけ先の第86番志度寺をお参りし,またここに戻ることにした.
さぬき市志度の街をさらに東に行くと,道脇に『志度寺奥の院地蔵寺』の札が掛かるお寺があり,ちょっと見せてもらう.全体的に比較的新しい小型のお堂(本堂,地蔵堂など)で,コンパクトにまとまったお寺さんの印象だ.
志度寺はこれから行くお寺だが,その奥の院が別の寺名『地蔵寺』とはどういうことだろう?何でも志度寺を建立した凡園子(おおしそのこ)という方が,ここ地蔵寺もまた創建したからということか....?
志度の街を行くと4つの寺への入り口となる.正面奥は第86番志度寺,右は自性院と普門院,左は圓通寺が並んで建てられている.後で志度寺納経所の担当者にお聞きしたところ,元々全部が志度寺だったのだが,4つに別れたのだという.どういった事情があったのでしょうか....
右側自性院の山門には,平賀源内墓所ありとの案内が掲げられ,入ってみる.そして源内の墓と記された傷んだ木の札を見るが,左に弘法大師像,右に古い墓石(文字読めず)があるが,源内の墓は具体的にどれか....?判らなかった.
さて志度寺山門になった.大きな門には大草鞋が立掛けられ,運慶作といわれる仁王像が納められている.
門は単に大きい切妻屋根(外から見る限りそうだが)というのではなく,断面は2組みの切妻式垂木を並べ,その上に大きな切妻屋根を載せた構造で,『三棟造り』と呼ばれるそうだ.
また境内左手には五重塔が見えている.五重塔は31番竹林寺,70番札所,最近訪れた75番善通寺,それにここ86番志度寺の,4箇所で,意外と少ない.
さて山門を潜り志渡寺境内に入る.境内は樹木や草花が自然に,ありのまま生えており,また未舗装の道に水溜りが多い.自然派と言うか,手入れ不届きというか,これまでのお寺とはかなり違う印象だ.ここはポジティブに解釈し,ご住職がナチュラリストなのであろうと思う.
志度寺と大師堂は並んで建てられていた.作法に従い,最初本堂で明かりを灯し経を読み,次いで大師堂で同じ所作を繰り返す.
そして納経所に行き,ご朱印と墨書きを頂戴する.平賀源内のお墓について尋ねたが,うちの寺ではないので....と解らなかった.確かに他所様のことを訊ねるのはおかしい.
たいや旅館もまた食事なし,素泊まりなら可ですと言われ,それで予約をお願いしていた.ということでまた志度寺からの戻り,コンビニに立ち寄り夕食を仕入れ,たいやさんに入る.玄関に入り,カッパを脱ぐ.そしてご主人が靴乾燥用古新聞を出してくれたので,脱いだ靴に入れる.朝巻いた太いワイヤは何とか持ったようだ.
次いでお風呂の場所など聞く.お洗濯は風呂場横のバスケットに入れておけばご主人がやってくれると言うのでお願いする.なお他の従業員は見かけなかったので,お洗濯を含め,全てご主人一人でこなしているのであろう.素泊まりのみ可,と云うのもそのためであろう.
玄関に居ると,一組の壮年カップルお遍路さんが到着した.そして,いや~雨で大変ですね~と挨拶を交わしビショビショのカッパを脱ぎ始めた.
二階の部屋に案内してもらった.普通の和室で,一先ず腰を下ろす.そして洗濯物をまとめて持ち,一階のお風呂場に行く.
風呂が終わると,玄関から壊れ靴を持ってきて,ビールを飲みながらソール剥がれの追加補修を行う.今回は雨という自然の攻めに加え,不注意という完全に自己責任問題で連日悩まされている.いや~修行は続きますな~
そんなときご主人が出来上がりましたよ~と洗濯物を畳んで持ってきてくれた.すみません,ありがとうございました.
さて明日はいよいよ第88番大窪寺を目指す.結願できますように....