この遍路19日目編では,2018年3月19日朝,善通寺グランドホテルを出て,第76番 金倉寺,第77番 道隆寺,第78番 郷照寺,第79番 天皇寺,第80番 國分寺,と順次巡り参拝し,せと国民旅館に到着するときの写真を載せました.
3月19日,善通寺グランドホテルで朝が来た.天気予報通り,強くはないが雨だ.カッパを着てホテルを出る.先ずは大通りを東に向かう.
大通りは前日乗ったJR土讃線を跨いだ.そして遍路道は北に折れた.この通りは農村地帯で,静かないい道だ.
一層入母屋造りの第76番金倉寺山門に着いた.ちょっと珍しい篆書体で鶏足山の山号が記された額が架かっている.鶏足山って面白い名はどこから付いたのでしょうか?
おなじみの仁王像であるが,なかなか迫力ある造形だ.表面の状態からすると相当歴史ある作品のように見える.ただ特別作者の名はどこにも記されてないので,仏師としては並の人だったのでしょうか.
そして,仁王像を眺めつ,礼をしてくぐり抜ける.直ぐ右側に手水場があり,手に掛けて清める.
金倉寺は広い境内にいくつものお堂が設けられている.写真右寄り入母屋造りの大きなお堂が本堂だ.
先ずはここでろうそくと線香を灯し,般若心経を読む.
本寺は弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖智証大師が誕生した地で,智証大師の祖父和気道善地が薬師如来を本尊とし,創建した,ということだ.そして宗派は当然天台宗寺門派に属するそうである.
金倉寺は名のように金や財にゆかり深いようだ.本堂前には金箔を貼られた大黒様が立っていた.貼られて一層膨よかになったのではないでしょうか.
こうした金箔貼りはタイやミャンマーなど上座部仏教でよく見られるが,八十八霊場では今回が初めてのように思う.
こちらは金の小判.『金倉』寺の名にピッタリだ.
本堂手前で左に行くと大師堂が建てられていた.大師堂の額には弘法大師と同時に,上述のようにここで誕生した智証大師,さらに神変菩薩の名が併記されている.
神変菩薩は神仏調和に基づき修行した修験道の開祖ということだ.
そしてここでまた同じように般若心経を唱える.
第76番金倉寺参拝が終わり,また多度津の町を北に向かった.途中,八幡の森ほたるの里を通過した.森の名に違わず,緑豊かだ.
この地は昔雑木林で,湧き水,小川があり,ホタルが舞っていたが,近年下水道や水路の改修で,地下水の低下が進み,小川が枯れ,ホタルがあまりいなくなった.そこで現在その復活事業を進めているという.
北への遍路道は多度津の住宅街に入っていった.塀とかなく,建物が道に接している家が多い.いわゆる町家と呼ばれる都市住宅であろう.静かでいい通りだ.
多度津の住宅街を進んでいると,第77番道隆寺少し手前の住宅玄関前で.私と同年輩くらいの男性に声を掛けられる.そして道中どうぞご安全にと,この可愛い焼き物のお地蔵さんを接待して下さった.男性の息子さんが作られたそうで,歩きお遍路が通りかかる度に渡しているという.ありがとうございました.
そのうち第77番道隆寺仁王門に着いた.入母屋造りで,白い桑多山の山号額が架かり,両側には仁王像が祀られている.
道隆寺仁王門から境内に入ると,石畳の左側にブロンズの観音像が並び,その奥に本堂が建てられている.
当寺は,前の金倉寺と同じように薬師如来を本尊とし,和気道隆によって712年に創建されたそうだ.但し宗派は真言宗醍醐派で,若干異なるようである.
創建ころ,山号のように付近一帯は広い桑畑,絹生産地で,領主でもあった和気道隆公が桑の大木を切り,小さな薬師如来像を彫り,草堂を建てたのが始まりという.
本堂手前右側に大師堂があった.時代は下り807年,道隆公の子朝祐公は唐から戻った弘法大師に懇願し,90cmほどの薬師如来像を彫ってもらい,その胎内に父道隆公の像を納めて本尊とし,寺名は創建した父の名から道隆寺と号したそうである.
本堂,大師堂で経を読み,納経所に行き,ご朱印,墨書き,それに御影札をもらう.
納経所の壁には,空海の映画ポスターが貼られていた.ここだけでなく,あちこちの札所寺で貼られていた.まあ,こうして空海の足跡を辿っているのだから,ポスターにも出合うでしょう.まだ観てないので,そのうち観なくては.
第77番道隆寺から遍路道に出て歩くと,繁華街になった.丸亀市であろうか.関東と同じ居酒屋チェーン店やドンキなどが見えている.
繁華街から住宅街になった.とても美しい舗装で,これまたどうしたことか....
遍路道は緩やかな上りになり,やがて第78番郷照寺山門に至った.切妻屋根のシンプルなデザインで,山号仏光山の額が架かっている.そしてここで一礼し,山門先の続きの緩やかな坂を上った.
坂道や階段を上り,郷照寺本堂前になった.標高25mの高台となるようだ.
本寺は八十八霊場で唯一時宗の寺で,神亀2年(725年)行基菩薩が55cmほどの阿弥陀如来像を彫り,これを本尊として開創されたそうだ.
なお時宗は鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派というから,725年創建以降に宗旨替えされたと云うことであろうか.
そして何はともあれ,ここで一回目の経を唱える.
本堂を越えた先に階段があり,上に大師堂が建てられている.
また階段手前,右側は納経所のある建物だ.
弘法大師は807年にここを訪れ,仏法有縁の地であると感得し,自身の木像を彫り,厄除けの誓願をされたという.そしてこの木彫り大師像はいまも『厄除うたづ大師』として広く信仰されているそうな.『うたづ』はここの地名宇多津町のことだと思うが...いや逆にうたづ大師が先で,町名が後か....?
まあそれはそれとして,この写真の柱にあるように『厄除大師』のカテゴリーに入るのであろう.
郷照寺を後に遍路道を行くと,宇多津町を抜け坂出市に入った.そして暫くして,お遍路さんどうぞの看板が掛かった休憩所があった.休憩所は同市産物PR室の一画を休憩所に充てているタイプだった.
少し手前で一緒になった秋田の男性(Akさんとしておこう)とここで座らせてもらうと,職員の方がお茶とお饅頭でお接待して下さった.ありがとうございました.
坂出市休憩所にはさかいでブランドの数々が展示されていた.さかいでの塩,麺つゆ,にんじん,いも,みかん,プリン,もなか,クッキー....などの食品,カンカン石や与島石,オリーブオイルなどの化粧品....ここで上げきれないほど種々並んでいた.今度広く展開されることを願ってます.
JR予讃線の踏切があり越えた.予讃線これまで愛媛県でよく出合ったが,香川県に入ってからは初めてかな?
愛媛県で踏切を渡ったときは単線であったが,ここは複線が敷設されている.予讃線の中で,朝一番目に訪れた第76番金倉寺のある多度津町の多度津駅から高松駅の間は複線なのだそうだ.
この第79番天皇寺はとてもややこしい.最初の入口には両側に小鳥居を従えた赤い大きな鳥居だ.しかしその横に第79番天皇寺と彫られた大きな石塔があり,多分ここでいいのだろうと思い,境内に入る.
でも樹木の茂る広い境内をどんどん進むと,神社に行き当たる.実は神社がメインで天皇寺はサブなのか?本堂と大師堂は,その主参道から左に入ったところにあり,また納経所は右にあったのだ.
右往左往しながら天皇寺本堂前に来た.
天皇寺は天平年間に金山の中腹に行基菩薩によって開創されたのだが,やがて荒廃.後に弘法大師によって荒れた堂舎が再興されたということだ.その際霊木で本尊十一面観音,そして脇侍阿弥陀如来と愛染明王の三尊像を刻造して安置したということだ.
寺号『天皇』は,保元の乱で敗れた崇徳上皇が讃岐国に流され,やがて死去したことに因むという.なお上述の鳥居正面の神社は,かつて崇徳上皇を祀っていた白峰宮だそうだ.ただどうした事情か解らないが,今は祀られてないそうだ.
大師堂は一般的な方形屋根の四角い建物だ.
丁度大手旅行者のバスツアーの皆さんが参拝中だった.勢いに押されるので,そちらが済むまで少し待ち,経を唱えた.
ツアーの皆さんには,先達の他に二人添乗し,納経所では初めての人の納経帳と二回目以上の参拝者の納経帳を分けて,ご朱印の押印を頼んでいた.さすが慣れた添乗員だ.また納経帳以外に軸や白衣と,大量にあるので,私たちに順番を譲ってくれた.ありがとうございました.
第79番天皇寺参拝が終わり,遍路道に戻った.当初JR予讃線と並行して走る道路で,途中から北側の小路に入る予定であったが,私もAkさんも道標を見落としたようで,そのまま進んでしまった.
多少ロスがあったが,無事第80番國分寺山門になった.山門は銅板葺き切妻屋根のかなり大きなもので,両側に仁王像が据えてある.
山門を潜り,境内に入る.松などの木立がきれいだ.
また写真右側は鐘楼で,黒く見える梵鐘は平安時代前期の鋳造で四国最古,重要文化財ということだ.
時の高松藩主は,この鐘を城の鐘にしたいと,田1haと交換取引契約した.だが予想以上に重く,ヤマト運輸に搬送を断られ,ひと苦労.ようやく城に着いたが音がならず,城下で悪病が流行,自身も病に倒れた.そして藩主の枕元に毎夜鐘が現れ,元の国分寺へ帰りたい,と泣いたそうだ.そこで鐘は国分寺へ返すことにしたが,軽々と運べ,寺に戻った途端悪病は治まり,美しい音色を響かせた,とのことだ.めでたし.
山門から真っ直ぐ先に國分寺本堂が建てられていた.入母屋造り瓦屋根のシンプルだが重厚な建築だ.
本寺は十一面千手観世音菩薩を本尊とし,行基菩薩の開基になり,真言宗御室派に属すそうだ.
本堂手前に池があり,さぬき七福神の像が立っている.弁財天だけが別格で,池の上の東屋に納められ,他は野ざらしだ.紅一点で,美,徳,福にご利益があるそうだが,今風に言うと逆差別の香りが無きにしも....
大師堂は納経所やお守りショップなど同じ建物,雑居ビル的趣きで,本堂の重厚さとは対極にあるような気もする.だが,便利と言えば便利でもあり,特にこの雨日のように屋内で経本を広げて読めるのはありがたい限りだ.
第80番國分寺参拝が終わり,宿に向かった.Akさんの宿は寺から間近ですぐ見つかり,そこでお別れした.
私はこの日,せと国民旅館で,予め食事は提供できないと言われ,素泊まりでお願いしていた.せと国民旅館は暫く先に見つかった.だが素泊まりなので,夕食仕入れのため,オーバーランし5分ほど先のコンビニで買ってから戻った.
コンビニで仕入れた後,せと国民旅館に着いた.女将さんが迎えてくれて,ランドリーやお風呂の案内を聞く.この日は満室だが,私が一番早く到着したようで,ランドリーもお風呂も無人状態で一番に利用させてもらった.
少しして外出していたご主人が賑やかなお孫さん3人を連れて帰ってきた.皆共に教員の娘さん夫婦のお子さんで,ときどきお世話しないとならず,宿の食事に手が回らないとのことだ.そんな中で,濡れた靴の乾燥用古新聞を持ってきてくれるなど親切にしてくれた.すみません.
ごく普通の6畳和室だった.ただ一般的なお茶やタオルなど部屋にはなかった.置き忘れたのか,すれがこのお宿の標準なのか.....まあ大したことではない.
それよりも,部屋のテーブルには翌日の遍路道の案内が置いてあり,遍路宿的配慮が伺えた.それによれば,途中遍路ころがしトレイルがあり,その距離や時間,注意点が記されていた.翌日歩くと雨でトレイルが川となり,実際エライところがあった.雨がなければ問題ないと思うが.
ということでコンビニで仕入れたチーズやヤキトリをつまみに缶ビールを飲み,床に就いた.明日も雨だそうだし.....でも歩く以外ないし....