この遍路23日目編では,2018年3月23日朝,民宿八十窪を離れ,コミュニティバスで高速バス停に行き,高速バスで淡路島,神戸を通り大阪難波へ至り,ここで南海電鉄に乗り橋本へ,そして南海バス,高野山バスを乗り継ぎ,高野山奥之院入り口に来て,参道を歩き奥之院へ行き参拝,納経後バス通りを西へ歩き,天徳院宿坊で宿泊するときの写真を載せました.
民宿八十窪で朝食を頂いた.ご飯に味噌汁,魚,おひたし....美味しいです.
私の斜向かいの香港男性は,日本の大学や商社に長くいた経験があり,こうした日本の朝食も大丈夫だそうだ.
コミュニテイバスのバス停,確か槇川まで歩くと30分位はかかるというので,民宿八十窪の女将さんに送ってもらう.しかもバスの出発時間に丁度合うように行ってくれると云うことで大変ありがたい.早めに予約をとらないと直ぐいっぱいになるという人気の宿だけにいろいろな心遣いが身に染みる.
ありがとうございました.
女将さんのホンダを降り,コミュニティバス乗り場に立つ.そして程なくバスが来て乗り込む.このバスはさぬき市市営もしくは同市第三セクターの運行であろうか.
コミュニティバスというから短距離かと想像していたが,かなりの距離走り驚いた.尤もさぬき市の南橋から北の志度まで目いっぱい走ったようである.
コミュニティバスの志度バス停に着いた.一昨日参拝した第86番志度寺の少し手前になる.そしてここから階段で,高松自動車道(高松東道路)に上がり,高速バス停で待つ.短時間でバスが来る予定だ.
定刻から若干遅れて来た高速バスは香川県を抜け徳島県に入り,そして鳴門から淡路島へと入っていった.
前日までの遍路では雨だったのに,今日は嘘のように晴れ,空も海も蒼く輝いている.
太いワイヤで巻いてから,LOWAの靴(ソールはVibram)は何とかソール剥がれを持ちこたえてくれた.一か八か的勝負で歩いてきたが,今日からは剥がれてもOKだ.
島なので耕地は狭い筈と偏見があったようだ.実際こうして眺めると結構広い平地の耕作地で,ちょっと驚いた.
淡路島は温暖な気候のもと農業が盛んで,京阪神の食糧基地となっているそうだ.南部では酪農及び三毛作体系,例えば水稲+レタス+たまねぎ等の高度な土地利用が行われ,しかも酪農も盛んだそうだ.北部では、施設園芸の花,及び野菜栽培(トマト,ふき,いちご等)が多いようだ.
淡路の海もきれいだ.魚が美味しそうだ(←単純だ)
実際底びき網漁,刺網,一本釣り,たこつほ等多様な方法で,漁が行われているそうで,美味しい魚が水揚げされているのは間違いなさそうだ.
淡路島を縦断し,明石海峡大橋に差し掛かった.3,911mあり,吊橋では世界最長ということだ.なお前日大窪寺と八十窪さんで一緒になった明石の女性は,今日から逆打ちで回るとのことだったので,多分今頃は女体山を越えた辺りであろうか.
なお明石海峡大橋は海峡最狭部から少し東にシフトし,神戸市に上陸するようだ.
バスは神戸の街に入り,そしてそのまま通過し,大阪を目指していった.
バスは難波のターミナルに到着した.大都会のバスや駅が集中している場所なので,あっちこっち南海電鉄はどこだ~と探しながら歩く.
南海なんば駅のご案内で,高野山で一泊するには....と訊くと,周遊券がいいですよ,ということで,それを買い,駅に入る.南海なんば駅は幾つかのホームがあるが,皆同じフロアで平行に集中しているのでまごつかないで済む.
これがJRとかメトロとか乗り継ぐ場合は一転してややこしくなりそうだが.....
南海なんば駅で橋本行きに乗った.乗って暫くの間は立つ人もいたが,その後は空いてきた.
南海線は大阪府から途中で和歌山県に入るのだが,空いてきたのはその県境辺りなのであろうか.ちょうど都心から近隣県の住宅地に向かう東急線とか京王線の電車と同じような感じだ.
南海電鉄橋本駅に着くと,ここで南海バスに乗り換えた.何でも昨秋の台風被害で,本来運行されているケーブルカーが止まっているためバスで代替輸送しているとのことだ.なおバス乗客は外国人が大半を占めるように見える.
バスは橋本の先ず住宅街を走った.伝統工法建築が比較的多いように見える.ただ四国のように武家屋敷のような壮大な住宅はあまり見かけない気がする.
橋本市郊外は柿や柑橘類,桃などの果樹園が多いようで,ピンクではなく白っぽいが,多分桃ではなかろうかと思われる花が盛りだった.
果樹園地帯を過ぎると,曲がりくねった山道に入っていった.いよいよ高野山に向かうのだ.
大型車どうしではすれ違えない細いところもあり,ドライバーさんは大変だ.
南海バスは高野山バスの駐車場に到着した.標高867mということだ.ここで高野山山内を巡る路線バスに乗り換える.なお南海なんば駅で買った周遊券は,この路線バスも含まれているため簡単で便利だ.
山内バスで奥之院入り口一の橋バス停で降りた.
バス停先には真っ直ぐ伸びた杉の巨木が目に入り,いきなり感激してしまう.
そしてバス停間近の一の橋に行く.
さて,今回訪問の主目的は,高野山奥之院(弘法大師御廟)のお礼参りなので,一の橋を渡り,石畳の参道に入った.
参道脇には灯ろうがあり,参拝後,ここをまた逍遥した夕刻ころには明かりが灯っていた.
さて見事な杉の巨木であるが,樹齢700年を超えるのが多いそうだ.杉は身近な高尾山から,日光東照宮,屋久島....などそれぞれ素晴らしいが,ここは比較的ランダムに大量に生えているのに圧倒される.
参道脇には名の知れた人の墓所が点在している.ここでは小田原北条氏御墓所の石柱が見えている.小田原からは随分離れているが,秀吉の命で,氏直など一族が高野山へ蟄居となり,重臣や側近含め数百人がここで過ごしたためらしい.
紀州徳川家七代藩主宗将墓所の案内があった.石扉の門がある,独特な墓所形式だ.ただ門と石柵で囲まれた内側の主宗墓石は,紀州徳川家藩主の墓にしては小さい感じだ.
杉の大木は次々現れるが,見飽きることはない.参道は2kmほどあるようだが,その周辺には周長3m(直径1mくらい)の大木は800本ほどあると見られているそうだ.一部もみの木も含まれるようだが,殆どは杉のようだ.
なお和歌山県の大杉の殆どは,ここ高野山に集中しているそうである.
高野山では比較的最近の慰霊碑も数多い.ここでは陸士第五十六期同期生慰霊塔や近衛歩兵第四聯隊慰霊碑など,軍関係者の慰霊碑も目にする.
浄土宗の開祖法然上人の墓があった.大師号圓光大師は空海の弘法大師(真言宗)などと同じように,後に徳の高い高僧に朝廷から贈られる名だそうだ.そして真言宗弘法大師縁の地に,浄土宗法然上人の墓所があるのがとても興味深い.四国八十八霊場も真言宗以外の宗派が含まれているように,セクトに固執しない寛容さがあるのだろう.
こちらは一転して無名塚.名もなく行き倒れた人たちなどここに共同墓地として作られたのであろう.
こちらは写真業界先賢萬霊之碑と刻まれた石柱に,顔写真に氏名が記された碑が立てられている.写真業界というと,写真館,カメラマン,フォトグラファー,写真用品メーカー,カメラメーカー,写真関連学会....とかでしょうか.何れにしても顔写真入りが写真業界らしくていい.
高野山は有名で,一部世界遺産にも登録され,流石に観光客が多い.外国人も非常に多い.文化遺産としての登録だが,こうして杉の大木や,周囲の緑豊かな山野を眺めると自然も素晴らしいと思う.
橘家先祖累代之墓と記されているが,現代では特別知られた家ではないだろう.ただこの墓石の形式はとても多く興味深い.
この石塔は五輪搭と称され,仏教の地水火風空(黄,白,赤,黒,青の色表現もある)を表し,一番下は方形地輪,その上は水輪は球形,真ん中の火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型,その上風輪は半球形(円に近いか),トップ空輪は宝殊型で,密教系で多いようだ.
和歌山県伊都郡母子福祉連合会の名で,母子像と彫られている.慰霊とかの文字は見えないので像の背景は解らないが,単純にアートとして素晴らしいと感じた.
石田三成墓所の道標先,石畳の参道から若干左にシフトしている供養塔は苔むして,時代の遷移を感じさせる.
この石塔も五輪搭で,いかにも武将らしい.
頂いたパンフレットには他にも例えば,武田信玄,勝頼,伊達政宗などの武将の墓所はいくつか見えた.ただ同じくパンフレットにあった織田信長や,豊臣家の墓所は見つけることができなかった.
参道奥近くに至ると奥之院御供所と,その建物左右に納経所があった.御廟燈籠堂で読経後寄ることにする.
またこの近くに手水場があり,清める.
御供所の先に御廟橋があり,ここを渡る.そして弘法大師御廟燈籠堂があり,ここでろうそくと線香を灯し,般若心経を読む.
般若心経を納め,納経所に行き,ご朱印と墨書きをお願いする.そして空白だった私の納経帳の第一ページに左の印と墨書きを書き加え,『これで満願ですね』と言いながら返してくれた.
これまで巡ったお寺さんと違って,日付印が押されている.平成参拾年参月弐拾参日と今流行(?)の改竄がやりにくい漢数字ですな.
奥之院参拝が終わり,また一の橋まで,戻った.そして杉木立を振り向きながら,バス通りを西へと向かった.
今日の宿泊地天徳院宿坊に行くためバス通りを西に行くのだが,この通りも緑豊かで,立派な寺院が続々と現れ素晴らしい.
高野山刈萱堂ののぼり旗が掲げられている.屋根が植物系のようで美しい.そしてそれが寺号刈萱に関係あるのかどうか興味を持ったのだが....不明.
山門に蔵院と越前坊,2つ架かっているので2つの寺院が一緒になっているのでしょうか.それとも地蔵院越前坊と続いているのでしょうか.いや門上部にしめ縄が架かっているので片方は神社でしょうか....と,思いながらもそのまま通り過ぎる.
なお門の正面先方は身代わり地蔵の名が付された石像だ.
木の皮,もしくは薄板を多層積み重ねたように見えるとても重厚な屋根で,また細かな彫刻が嵌め込まれている.迫力がある.
遍照と付いているから弘法大師と関係ありそうだが,実際大師の創建ということだ.
八角形3層の建物で,右に『高野山摩尼寶塔宗教美術館』,左に『ビルマ戦没者供養塔』の札が掛けられている.
ビルマで戦死した方々を祀り,また同国から寄贈された釈迦如来像など仏画を展示しているようだ.
通りに名勝天徳院庭園と刻まれた石柱を通り,左に高野山大学を見ながら進むと,今夜宿泊の天徳院山門に着いた.銅板屋根のスッキリ清楚なデザインの門で,しめ縄(?)が架かっている.
天徳院は加賀藩第2代藩主前田利常の正室珠姫(戒名が天徳院)の菩提を弔っているのが寺号の由来のようだ.
なお門前石柱に刻まれた名勝天徳院庭園とは,松山藩第2代藩主小堀遠州(大名にして茶人,建築家,庭師....)が手がけた庭園で,国の名勝に指定されており,高野三庭園の一つだそうだ.
山門を入り,右側の宿坊玄関に入ると,直ぐにお坊さんが出迎えて下さり,お風呂や,食事,明朝の勤行の説明を聞き,途中洗面所など聞きながら部屋まで案内して頂く.お坊さん直接の案内で恐れ入ります.
少なくとも二階には結構な数の客室が並んでいるようだ.
案内して頂いた部屋は光明の間で,いかにも宿坊の雰囲気だ.確か八畳敷で広かったと思う.
エアコンやテレビは普通の旅館や民宿と同じように設備され,お茶に,持ち上げると願いが叶うというみろく石(私には重すぎた)に因む『みろく石』お饅頭も添えられていた.そして早速頂きました.
お茶の後,一階のお風呂に行った.これがまたバカに広くてびっくりする.私以外だれも居らず,ゆっくり浸からせてもらいました.
この日の宿泊客は私一人なのか,別の空き客室へとお坊さんに案内された.三の膳まで付いた本格精進料理で,もちろん本場高野豆腐料理は付いている.また精進料理だが,ビールは問題なく注文できありがたい.
ところでこうして,ダイニングルームでなく一人ぽつんと別室で食べるのは,ちょっとさみしいが本格的宿坊の雰囲気で貴重な体験であった.
でもどうして客数を制限している(ように見える)のでしょうか,謎です.